村崎百郎の言霊11
<鬼畜文書 「とんでもねえ本」について >
★どんな本でも「とんでもねえ本」として読める鬼畜意識変容法
他人の不幸をひたすら己の喜びとしか感じられない人でなしキチガイ鬼畜の俺が心底「とんでもねえ」と思う邪悪な本とは、当然のことながら良識や道徳や正義をあたりまえのように主張する、一般には「まとも」と思われている書物類全てである。
俺にはどうでもいいことだが、あんなものを普段から不用意に目にしたり読んでいるから、この世に生きる大方の連中は簡単に騙され易い「クソ善人」に堕ちてしまうのだろう。そういう「善人」どもの末路は実に哀れだが、鬼畜の俺にはどうでもいい話である。まあ、政治家やエリート官僚どもを見ても、「この世は先に腐ったモン勝ち」というのは容易に理解できるだろう。だから、こんな便所の糞以下の腐った時代に「隣人を愛せよ」なんてフザけたキレイごとを大真面目にほざく連中がいるとしたら、そいつらは間違いなくサギ師でなければ超一流のキチガイなんだから、そんな寝言が堂々と書かれている宗教書の類は全て「とんでもねえ本」以外の何物でもない!
クドクド書いたが、ここで俺が言いてえのは「書物はテクストであり、それを読む人間の考え方一つで、どんなに清いことが書いてある聖典であろうが、いくらでも“とんでもねえ邪悪な本”になりうる」ということを再認識しとこうというわけだ。
だから、「とんでもねえ本」が読みたいというなら、わざわざ探す必要などない。本を読むあんたらがいままでの日常意識を一八〇度反転させて腐った人でなし鬼畜になればいいだけの話である。何度も言うが見方を変えれば世界も変わる。俺のように、この世の腐敗と他人の不幸を切に願い、徹底的に卑怯&卑劣に生きることに喜びを感じ、他人から浴びせられる「バカ!」「ひとでなし!」「人間のクズ!」などの罵倒の言葉が全て自分を讚える「誉め言葉」としか聞こえないという超最低の鬼畜になりさえすれば、ハエの糞以下の現政府(主に自民党)を熱烈に支持する気になるだろうし、高慢なうえにコーマン好きの各省庁のエリート官僚どもにも大きな好感が持てるようになるだろう。そうすれば接待汚職だの、収賄だの利益供与というどんなに腐ったニュースを見ても腹が立たないから血圧も上がらなくて健康にも良い。そして、あいつら自民党や官僚どもをおだてあげ、徹底的に増長させてノーチェックで政治や行政を全て任せっ放しにしておけば、確実にこの国は今よりもっともっと駄目になる。ああ、その時がホントに待ち遠しいねえ。
さっさと腐れ!いますぐ腐れ!この世の全てが悪徳と破壊と腐敗に満ちる真の汚穢世界の到来を切実に願うぜえええええええ!
……というふうに、自分の意識を「自民党&官僚様万々歳」という卑屈で最悪な鬼畜意識にチャンネルを切り替えて本屋に向かえば、政治関連や市民運動の書棚の本は書名を見るだけでも激しい怒りがこみあげてくる「とんでもねえ本」だらけである。
たとえば、自民党の政策を批判するような本は全て「とんでもねえ本」である。また、政治家でもないくせに、好き放題にお上のやることにいちいち文句をた れる政治評論家どもの著作は全て残らず「とんでもねえ本」である。そして、国の行政にアヤをつける環境問題や市民運動などを扱った本は一冊残らず言語道断 の「もの凄くとんでもねえ本」である。薬害エイズ関係の本も、ゴミ処理場付近から検出されるダイオキシン関係の本も、農薬汚染や公害関係の本も、御政府様 や御官僚様側にしてみれば、「たかが国民の分際で、メシやまんこやクソ以外のことを考えるとは何とナマイキな!」という、全て残らず超余計なお世話の「とんでもねえ本」なのだ。
★「想像力(妄想力)暴走法」
以上のような「鬼畜意識変容法」以外にも、新しく本を探さずに簡単に「とんでもねえ本」を読む方法がもう一つある。それは次に紹介する「想像力(妄想力)暴走法」である。これはどういう方法かというと、本を読む際に自分の持っている妄想力(妄想力)を最大限に暴走させて、文章の背後やメタファーどころか、裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の裏の「誰がそんなことまで想像(妄想)してくれって頼んだんだよ!」というところまで妄想してしまうというやり方である。鬼畜であるばかりか電波系(生まれつき神だの悪魔だの霊のを自称する輩の声が常時アタマの中に直接響くという受信機いらずのラジオ体質。とってもウルサくてかなわねえ。詳しくは『電波系』〔根本敬と共著/太田出版刊〕を読んでくれ)の俺は、何か対象に一つ触れると、自分の意志とは無関係に、そこから想像可能な事柄や画像が無限に頭の中で暴走を引き起こして、瞬時に音とイメージの大洪水がアタマの中にあふれるの だ。これが俺が突然発作を起こして周囲の人や物に殴りかかったり、たいした理由もなく何年も執念深く人をつけ狙って、嫌がらせをしたり、その人間の家族や 周囲の人間を襲ったりする理由なのである。たとえば、新たに人に会うと、その人間の顔を見た瞬間に「こいつとは三年と八か月後にモメるな」などということ が直観的にわかってしまう(たぶん妄想)。そうすると「いちいち三年と八か月後まで待てるかよ!」と猛烈に頭にきて、その場で相手が油断したところをすか さずブン殴るのである。こんなのは誰がどう考えても完全に狂気の沙汰なのだが、この国がぬるま湯のような民主主義国家なおかげで、どうにか現在も平然と世 の中をうろつくことが出来るのだ。今も夜中の発作が激しくて、ときどき近隣住民に「叫び声がうるさくて眠れない」と警察に通報される以外は、いたって平穏 な生活を送っているが、いつ何時、やりすぎて殺人事件を起こさないとも限らないので、想像力の暴走はほどほどにしといた方が賢明だということだ。平和ボケ した連中はわからないだろうが、俺のように、突然目的も理由もなく周囲の他人に平気で危害を加えることのできる人間は、少なく見積っても全国で約三千万人 以上はいるので、日常生活で気を抜くのは命取りになるぜとだけは言っておこう。まあ、ありもしねえ霊やタタリなんかよりも生きている人間の方がよっぽど恐ろしいってことだ。
話が大きくそれたが、「想像力(妄想力)暴走法」の恐ろしさは理解頂けたと思う。要は被害妄想を過度に増幅させなければ大丈夫な のである。そこを気をつけさえすれば、何げない文章しか載っていないつまらねえ本でも、いかようにも下品なことや「とんでもないイメージや物語」を妄想で きるから便利である。たとえば物語中に赤ちゃんが一人登場したとする。普通なら「赤ちゃん=小さくて可愛いくて愛らしい存在」ぐらいで終わるイメージを思 いきり暴走させて、この赤ん坊が母体に受胎されるまでになされた夫婦の夜毎の下品な性交の数々を、母親の性 器の形や、腟の締まり具合いや、汗や体臭、まん汁やオリモノの味やニオイ、親父が舌先でナメあげる母親の肛門のシワの微妙な感覚や、その際わずかに感じる 苦くて臭い糞の香り、または月経時にナメるまんこの鉄臭くて生ぐさい経血の味と匂い、夫婦の性交の体位や親父の持続時間、親父のペニスを嬉しそうに吸い上 げる女房の頬のへこみ具合いなどを微に入り細にわたって綿密に妄想するのだ。いもしない他人のまぐわいを妄想するのが困難なら、自分のまわりにいる身近な友人夫婦などを思い出して妄想しよう。友人のカップルの性交を綿密に妄想して興奮してせんずりをブッこくなどというハレンチな行為は、友人としてどころか人間として最低の行為の一つなので皆さんにも大いに推奨する。それでも足りない奴は自分の両親や祖父母たちの激しく下品な性交や乱交を妄想しろ。どんな偉くて立派で清い奴でもそいつが人類である限り、切られてなければ股間にはチンポかまんこのどちらかが付いていて、その隣のけつの穴からはとびきり臭せえ糞をするものなのである(だから何だということもないが……)。
このような妄想がごく自然に行えるようになると、どんな本を読んでいても、行間から「とんでもねえ事実」が発覚して(妄想)、勝手に怒ったりあきれたり できるから退屈することなど全くなくなる。俺のようにアタマの妄想ベクトルをおまんこモードに合わせておけば、「日本国憲法」を読んでも「こぶとり爺さん」を読んでも「三匹のこぶた」を読んでも激しいポルノグラフィーにしか読めないから大変なもんだ。
ここまで書けば俺が何を言いたいかはお分かりだろう。俺はお前ら読者諸君に、そんなに「とんでもねえ本」が読みたければさっさと俺のように発狂しろと言っているのだ。人がアタマの中でする妄想には一切の規制も法律も国境もなく、何を考えても思っているだけなら絶対に罰せられないから安心だ。これはにどんな人権派で良識派のヒューマニストども(この世で一番迷惑なキ●ガイ)も、因縁をつけられないからざまあみやがれだ。悔しかったら「今こいつは心の中で人道的に許せない妄想をした!」といって俺を逮捕してみろ! できねえだろう、馬鹿野郎。思考統制なんてお前らの一番嫌いなファシズムでしかねえからな。お前らがいくら頑張ろうがこの世は腐り堕ちるしかねーんだよ。わかったか、このバ~~~~カ! しかしまあ、こういう下品な妄想を通して自分の抱える心の闇を自覚して生きれば、適当なストレスのガス抜きになって、平穏な一生を送れるかもしれない。ヘタにつまらん良識をブラさげてバカ善人として生きるよりも、人でなしの鬼畜であった方が楽しいかもな、「人は孤独であるよりも悪と共にあったほうが良い」と言うではないか。
★鬼畜村崎百郎推薦の「とんでもねえ本」
さて、つまらねえ屁理屈と能書きばかりが続いてご退屈の皆様もいることだろうから、そろそろこのへんで大真面目に「通常意識を持った人間にとってのとん でもねえ本」の紹介でもしておこう。今回は、身近な所で恐縮だが、そもそもこの俺を発掘し、メディアデビューさせてくれた恩人であり、共に「すかし切った 日本の文化を下品のどん底に叩き堕とす」運動の同志である特殊漫画家・根本敬氏や「幻の名盤解放同盟」の面々の書いた「因果本」についてを紹介していこうと思う。 絵を目にしたことのある人間ならお分かりだろうが、根本敬氏の漫画は大変ハードルが高くて、世間一般の評価にしても「好き/嫌い」などという感想以前に、「読めるか/読めないか」という所で大きく分かれてしまうのが特徴だ。読める奴にはもの凄く面白く読めるが、読めない奴は表紙のタイトルですら満足に読みこなせないのが「根本漫画」なのである。具体的にどういう連中が「根本漫画」を読めないかというと、俺の経験とアマタで受信する電波調査(妄想)による統計上からは、「上っ 面の正義を愛し、人を身なりや外見で判断したり、学歴だの家柄だのに必要以上にこだわり、自分が他人にどう見られるかという見栄や体裁ばかりを気にして、 心の中は優越感やエリート意識で満ち満ちて、清潔で美しいものは愛するが醜いものや汚いものは思い浮かべるのも嫌いという、表層的にはとてつもなく上品な 人々」がそれに該当するという驚くべき結果が報告されている。それでは根本漫画を読める連中はみんな下品で醜いものが好きなのかというと、 そういうわけでは決してない。根本漫画を読むことができる連中とは、俺のような単なる下品趣味でなければ、基本的に、「表層的な美醜にとらわれず人や物の 本質を見ようという前向きな姿勢を持った連中」と思って間違いない。世間では根本世界の基本キーワードの「イイ顔」を「ホームレスの親父」とイコールで結ぶような大きな勘違いがまかり通っているが、同様に「根本漫画」=「下手で汚い絵」と判断するのは浅薄な間違いで、あれは「特殊に抽象化された「人間の本性を真摯に見つめたうえで愛情を持った暖かい目で好意的に表現した絵」であるということを素直に理解して頂きたい。
たとえば人間の造形的な美醜なんて皮一枚の問題だ。美人だ何だと威張っても、皮一枚下は肉と脂肪と血と骨がつまったグシャグシャの汚物なのだ。そこに美人も不美人もあったものではない。だからというわけではないが、俺はいまだかつてアイドルのたぐいに本気で夢中になったことなど一度もないし、連中の写真の笑顔を見て、モノも言わせずに殴り倒してハメ殺してやりてえと思ったことはあっても、人間として好意を持ったり愛したいなどと真面目に考えたことなど一度もない。俺にとっては、やつらの浮かべる営業上の愛想笑いを有り難く頂戴してカネをつぎこむ奇特な連中こそ「とんでもねえ連中」だ し、そういうアイドル連中の写真集だのエッセイ集だのというのも全て残らず「とんでもねえ本」なのである。これらのことは一見根本漫画と何の関係もなさそ うな話ではあるが、俺は根本漫画に登場する村田親父や吉田佐吉の顔を見ていると、何故かこれらのことが自然に思い出され「ああ、そういやあ人間ってホントに汚物なんだよなあ」としみじみ感じるのである。「人間なんてそんなにキレイなものじゃない。欲望だけは人一倍あるうえに絶えず汗や体液を分泌する汚い汚物なんだよなあ。糞しか産めない糞袋のぶんざいで美人もブスも奇麗も汚いも無い。俺も糞なら連中も糞。でも何で同じ糞同士、仲良くできねえんだ?」などと殊勝に考えてしまうのだ(約1秒間ぐらい)。根本漫画はこのように不浄観を学ぶうえでも格好のテクストとなるであろう。 では、根本漫画は何から読み始めると良いか? 手近な所では『龜ノ頭のスープ』が 河出文庫から出ていて、これが一番手に入り易い。この本にはイイ顔の親父ばかりを次々に殺していく連続殺人鬼・久保マサルの驚くべき出生の秘密を解き明か した「21世紀の精子ン異常者」や、「精子三部作」の題2弾にあたる大河精子ロマン「ミクロの精子圏」という傑作が収録されているので大変に重要である。 「ミクロの精子圏」は複雑怪奇なストーリーを言ってしまうと楽しみが半減するので詳しい説明は省くが、ちんぽやまんこやSFの好きな連中なら大いに満足の ゆく作品であろう。〔「精子三部作」とは、他に『怪人無礼講ララバイ』(青林堂刊)に収録された「タケオの世界」と、いまだ未完の大作『未来精子ブラジル』(単行本未刊行)がある〕
根本漫画の初期の名作は『豚小屋発犬小屋行き』(青林堂刊)に多数収録されていて、渋谷のチーマーの数千倍は恐ろしい伝説のチーム「こじきびんぼう隊」の全貌や、実際の死体写真を使った「死体漫画」が読めるので見逃せない。根本漫画のメインキャラの村田一家を次々と襲う悲劇を徹底的に描いた『生きる1』『生きる2』(共 に青林堂刊)はこの苛酷な現代社会を生き抜く為の聖典である。ダサくてドンくさくて周囲からいじめられるだけの村田一家の惨状を読み続けていくうちに、読 者は弱者をいたぶる快感と、圧倒的に横暴な存在にいいようにいたぶられる弱者のマゾヒスティックな快感の二つを同時に体験することだろう。そして、少々鬼 畜な感覚があれば「被害者であるよりは加害者でいたい。村田になるのはまっぴらごめんだ。それぐらいなら吉田佐吉になったほうがよっぽどマシだ。よし!俺 が村田になる前に、憎いあいつを村田にしてとことん追い込んでイジメ殺してやる!」という気分になって明日からの日常を攻撃的に生きる決心がつくかもしれ ない。
また、最近の根本漫画は電波的要素(簡単にいえばキチガイ度がアガってるってことだ)が強く出ているものが多く、とりわけ『キャバレー妄想スター』(ブ ルース・インターアクションズ刊)に収録されている各作品には濃密な電波が折り込まれていて、読む者の妄想に拍車をかける。見どころは、村田家のペットが 次々に誘拐され、その度にしょーもないクイズの電話が村田家にかかってきて、それに正解しないとペットが惨殺されて死骸を送りつけられるという、背後に国 際的な陰謀が渦巻くシュールな電波漫画「エリツィン、カスピ海にゴルビーを捨てないで」と、飲むと力と精力がみなぎる魔性の母乳を出すババアと、その魅力 に取り憑かれたペット犬の繁殖仕掛人の親父を描いたジェンダーでフェミニズム感覚が大爆発のグレートマザー漫画(大ウソ)の「魔性の母乳」は最低でも10 回は読まないと20世紀は越えられないという代物である。 同様に重要なのが先ごろ刊行された『黒寿司』(ブルース・インターアクション ズ刊)で、この本の帯には、本の中に一度も出て来ない幻の主人公・中田満の似顔絵(しかもその顔は『女犯坊』の竜水と岩松!)が入っていて、内容とは何の 関係もない全くでたらめなストーリー解説が堂々と書かれていて実に素晴らしい。本書は表題作をはじめとする短編が数多く収録されているが、中でも根本氏が 某編集部から執筆を依頼されながら、描きあげて渡したら社の上層部の命令で掲載を拒絶されたという、いわくつきの「超蠅」という短編が重要で、この国が抱 える文化的貧困の実態を知るうえでも必読である。物語の中の登場する不良老人のチーム「元赤ちゃんズ」もイカしている。心ある読者なら歳をっても人間はこ うありたいものだと思うだろう。
漫画以外の根本氏の著書にも読むべき「とんでもなさ」は多数存在する。根本氏やその仲間の湯浅学氏や船橋英雄氏の「幻の名盤解放同盟」によるイイ顔の親父&因果者フィールドワークは上っ面だけではない「深い人間理解」を学ぶためには最重要の物件である。どんなジャーナリストやエッセイストや学者や研究家にも真似など絶対に不可能な(その理由は読めば分かる)韓国旅行記『定本ディープ・コリア』(青林堂刊)、自主制作の歌謡曲のとんでもなくディープな世界を紹介した『ディープ歌謡』(ペヨトル工房刊)、イイ顔の親父や因果者フィールドワークの集大成(醜態性?)『夜、因果者の夜』(ペ ヨトル工房刊)の三冊に共通するものは、彼らが決して上っ面だけの真・善・美を求めるのではなく、その対極にある人間の弱さやどうしようもなさに目を向け て、一般の人々が取るに足らない存在と馬鹿にするもの、つまらないものやくだらないものとして蔑むものを軽んじることなく、それらの膨大なゴミのごときも ののなかから「お宝」を見い出そうという前向きな姿勢である。
アタマでは「こんな馬鹿なことを」と思っていても、様々な理由で(あるいはさしたる理由もなく)ついついドツボにはまって破滅する人間存在の不可解さ が、この3冊には凝縮されて濃密に収められている。トントン拍子でエリート街道をまっしぐらに進むような人間には到底理解不能だろうが、泥沼というもの は、足を取られてハマればハマったなりにヌルヌルと暖かい奇妙な快感も生じるものなのだ。俺が以前務めていた某区の製粉工場には、俺以外にも絶望的な個性 を持った、この先生きていても仕方がないような人間のクズが一山ナンボで後から後からやってきては重労働の仕事がつとまらずにケツを割って逃げて行った。 そういうクズどもは今もどこかの現場や工場で細々と生き長らえているのだろう。俺は、そういう奴らがこの国の経済を支えているなどと言いたいのではない。 そういう奴らがこの国の経済にしがみついて足を引っ張っているというのが正しい物謂だろう。そんな奴らの中に聖性を感じようが、単に不愉快に思おうがそれは個人の趣味の問題であり、個人の勝手である。俺は根本氏たちほど愛情を持った目で他者に接することなどできないが、決して相手を見下したり、自分達に都合の良い身勝手な正義を押しつけたりしない彼らの態度やフィールドワークの方法に対しては好感を持っている。彼らは、本当に、他のみんなが忘れたり気にもとめない取るに足らない存在に目を向け耳を傾ける優しい人々なのだ。
そして「因果者フィールドワーク」の原点ともいうべき「内田研究」の概要が掲載されている根本敬著の『因果鉄道の旅』(KKベストセラーズ刊)は最重要の必読書で ある。この本には、根本氏たちが大学生の頃に出会った超ド級の因果者・内田剛史を3年間追跡調査して得た多くの証言や抱腹絶倒のとんでもないエピソードの 数々が紹介されていて実に興味深い。この内田という男のことを、ここでかいつまんで説明することほど勿体ないことはないので、根本敬著の『人生解毒波止場』(洋泉社刊)で紹介されている十数人の因果者(手前味噌で恐縮だが、「ゴミの求道者」という項目で俺も紹介されている)を束にしても余りあるほど、この内田剛史という男の研究記録は面白いとだけ言っておこう。 これらの因果者フィールドワークを読んで、単に「世の中にはこんなにどうしようもない連中がいる」と笑って済ませるか、そこから人間存在の不可解さや、誰もが抱える心の闇や、人生の儚さや奥の深さや、生命の神秘について深く真面目に考えるかは個人の勝手だ。ただ、この世に生きる人間は、俺のような電波系のキチガイでもない限り、普通は目にしたり耳で聞いたりした事柄からしか、何かをイメージしたりできないものだ。当たり前のことだが、自分の知らない所でひっそりと起きている悲劇については人は何も思いやれないし、考えられない。その方が精神衛生上、好ましいことだと思う。だから、本を読むという行為は、ある意味で電波系の人間が「電波」を受信するのに等しい部分もあるのだ。
だから、俺はときどき新聞やTVの悲惨なニュースを見ながらしみじみ思う。「こいつらは見ず知らずの赤の他人の悲劇を報じて、俺に一体何を感じろというの だろう?身内の死すら何とも感じられない俺のような鬼畜にとっては、赤の他人の悲劇など全て娯楽だ。してみると新聞やTVのニュースというのも、「報道」 の名を借りただけの、低俗なワイドショーと全く等価な娯楽番組だし、そのくせ偉そうにジャーナリズム面してスカしていやがる「とんでもねえメディア」なん だよなあ、と。
最後になるが、根本系関係の本では幻の名盤解放同盟きっての論客、湯浅学氏の評論集『人情山脈の逆襲』『音海』(共にブルース・インターアクションズ刊)抜きには同盟を支える根本理論の「勝新太郎原理主義」は理解できないし、彼らの若き協力者の早田工二氏と直崎人士氏による共著『痴呆系』(データハウス刊)は一見ポップなギャグ本のようで痴呆性老人医療の現場が抱える深刻な問題を告発する「とんでもねえ本」である。この中にはギャグにまじって医療の現場で虫けらのように殺される痴呆性の老人の姿がノンフィクションで冗談みたいに次から次へと登場する。刊行されてほぼ一年になるが、よくもまあ警察や善良な市民団体の連中が騒ぎ出さないものだ。薬害エイズ問題もひどかったが、この中に書かれているのは誰がどう読んでも単なる殺人(というか虐殺)でしかない。まあ、若くて前途あふれる納税者連中と違って、厄介者の痴呆性老人が何万人殺されようが誰も困らねえってことだよな。お前らクソ善人どもの正義なんてそんなものだろう。この本を読めばオレらの幸せが所詮は「養豚場の豚の幸せ」に過ぎないことが良くわかるぜ!
☆村崎百郎<非公認>WEB より☆