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大原幽学について、そして彼の不幸

本日は匝瑳市の隣町、旭市の偉人『大原幽学(おおはらゆうがく)』を紹介したいと思います。旭市周辺に在住している方々なら名前を知っている人は多いと思いますが、何をした人かは知らない人が多いと思います。

大原幽学1797年(寛政9年)~1858年(安政5年)とは

彼は、元々武士として剣術を学ぶ身でしたが、様々なことを学ぶ重要さに気づき、特に実践道徳である性学の教説活動を行います。そして、農民や医師、商家の経営へ実践していく活動を行っていました。

やがて、彼の実践的な知識を学ぶため各地からたくさんの人々が、大原幽学の元を訪れるようになります。

大原幽学の実績、旭市との出会い

その後、遠藤伊兵衛という下総国香取郡長部(ながべ)村(現在の旭市長部)が大原幽学に長部(ながべ)村へ来て教えを説いていただけないかとお願いします。それに大原幽学が応じたことから旭市とのゆかりが始まります。

とても実践的な方法で、世界初の農業協同組合や計画的に農作業を行う方法を住民へ指導し、長部(ながべ)村の農業生産性、生活はどんどん改善していきました。

その噂は、周辺の地域へ知れ渡り、新たにたくさんの人が長部(ながべ)村へ大原幽学の教えを聞きにくるようになります。

不幸の始まり

1851年に、大原幽学を訪れる人が集まる場所、改心楼(性学の教導所)が建設されました。これが大原幽学の不幸の始まりです。

教化活動に心良く思わなかった(反乱を起こすのではないかと疑われたとの説もあり)当時の関東取締出役は、性学指導を弾圧するようになり、遂には勘定奉行の取り調べを受けました。要は役人に嫌われ潰されてしまったのです。大原幽学及び門下生の取り締まりは5年に及びました。大原幽学は後輩たちに迷惑をかけないため波紋を言い渡したりしますが、それでも大原幽学を慕う人は多く、多くの人が大原幽学へ仕送りをし続けます。しかし、その間に再興したはずの村はどんどん荒廃していきました。

大原幽学の最後

5年に及ぶ訴訟の疲労と性学を学んだはずの村の荒廃を嘆き、1858年(安政5年)、大原幽学は墓地切腹しました。しかし、大原幽学亡き後も、勤勉実直、質素倹約、相互互譲の精神、義理人情の厚い、大原幽学の信念は私をはじめとした旭市周辺の人々へ根付いています。
非常に悲しいお話ですね。

感想

大原幽学から学ぶこととして、地域の豪族や勘定奉行(政府)に目をつけられ、敵対心を持たれてしまったのが大きな失敗点だったのかもしれません。自分も地方行政に携わる身ですが、この話から無用な対立は身を滅ぼしかねないことを学びました。大義は大事ですが、潰されてしまっては意味はありません。自分は常に大原幽学の人生に学び活動をしております。

強くならなければ大事なものを守れないのかもしれません。

日々、温故知新、理論武装です。

生涯と業績

大原幽学おおはらゆうがくは天保、嘉永、安政にかけての混乱した世相の中、長部村(ながぺむら):現千葉県旭市を中心に房総の各地をはじめ信州上田などで、農民の教化と農村改革運動を指導し大きな事績を残した人物です。道徳と経済の調和を基本とした性学(せいがく)を説き、農民や医師、商家の経営を実践指導しました。

前半生は各地を遍歴していたらしいのですが、その経歴は明らかではありません。天保13年(1842)には香取郡長部村に定住しています。天保4年頃から独自の実践道徳である性学の教説活動を始め、弟子として入門する者が次第に増えていき、研修施設や教導所が作られ会合や講義が行われました。


門人達は道友(どうゆう)と呼ばれ、長部村に腰を落ち着けた幽学は、性学道友の農民を指導し農村の復興を図り、農業協同組合である先祖株組合(せんぞかぶくみあい)をはじめとして農民が協力しあって自活できるように各種の実践仕法を行って成果をあげました。

しかし急激な性学運動の発展と農民が村を越えて労働と学習を共にしたことが幕府の怪しむところとなり、幽学は幕府の取り調べをうけた末、有罪となり、失意のうちに安政5年(1858)3月8日、自殺により62歳の生涯をとじたのです。

http://www.city.asahi.chiba.jp/yugaku/yugaku/oyyugaku.html
大原幽学記念館ホームページ

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