いち応募者より 〜兜太現代俳句新人賞のこと〜
拙作『触るる眼』50句が、第41回兜太現代俳句新人賞を受賞した。
私は俳句を始めて10年になる。なりゆきもあって俳句結社には所属せず、主に豆の木という超結社句会に参加してきた。これまでの俳句に関する歩みは、以下のページのとおりである。
備忘録:俳句的出来事|楠本奇蹄 (note.com)
結社、あるいは俳壇みたいな存在とは縁が薄く、世の片隅で細々と句を作ってきた私が、俳句、川柳、連句の素敵な方々と座をともにし、いくらか自作を取り上げていただく機会があったのは僥倖としか言いようがない。月並みではあるけれど、すべての出会いに感謝している。まして、毎回挑んできた兜太現代俳句新人賞をいただくとは。
兜太現代新人賞には、賞の名称が現代俳句新人賞だった頃から応募してきており、今回で6回目だった。
3月9日に行われた最終選考会に参加したのだが、本賞の選考過程に触れるのはこれが3回目のこと。
せっかくなので、手前味噌であることは承知の上で、いち応募者として同賞の最終選考過程について見たもの、思ったことを書き残しておこうと思う。
少々長くなります。
1.第37回兜太現代俳句新人賞(令和元年度)
私の最初の応募は第36回のことで、そのときの受賞者はなつはづきさんだった。翌年の第37回は、初めて特別選考委員に小林恭二氏、穂村弘氏を迎えた回だった。受賞者の辞退によって受賞該当者なしとなったが、現代俳句協会ホームページに討議過程が記録として掲載されたことで、自作への評を知ることができた。
このことは非常に貴重な経験で、おそらく今後もこのときの指摘を胸に刻んで句を作ることになると思う。それくらい見事に切られた感があった。
特に、特別選考委員の小林恭二氏の以下の言である。
まさに自らがもやもやしながら作っていた、その部分を看破され、両断された。ちゃんとした失敗作としてすら認識されなかったというバッサリぶりである。
ただこのことで、今も自句を吟味するときには「煮詰め方が甘くないか」「語に必然性はあるか」という問いを投げかけている。失敗作未満にならぬよう、胆に銘じるべきことばだと思っている。
特別選考委員の名誉のために、応募作を切り捨てて終わりという態度ではなかったことを付け加えさせていただく。要は、応募者が過度に悲観しないようやむなくフォローをさせてしまったわけだけれど。誠に心苦しい。特に最後の一文である。
2.第40回兜太現代俳句新人賞(令和4年度)
第38回(令和2年度)、第39回(令和3年度)はZOOMで行われた最終選考会をリアルタイムで配信していたようだが、都合がつかず選考過程をすべて見ることはできなかった。ことに第38回は佳作に選ばれたので、最終選考で自作への評を伺いたいところだったが、生憎だった。
そんなわけで、初めて最終選考の場に居合わせることができたのは、「公開選考会」となった前回(第40回)になる。このとき私の『長き弔ひ』50句が最終候補として俎上に上げていただいたため、選考会場の日本記者クラブで賞が決まるまでの過程を目の当たりにできた。
最終候補作は5篇。各選考委員がそれぞれに評を述べ、最終的にそれぞれが1位(2点)、2位(1点)を2篇ずつ選んで、その合計点で受賞作が決まる。
各選考委員から放たれることばを書き留めるのに必死であったので、正直その場で評を咀嚼する余裕はなかったが、びしびし痛いところを突かれた。
私の50句に対しては、好意的なものとして、
といった意見をいただきうれしかった一方で、
と、数々の厳しい、しかし的確な指摘を受けた。
またもや、ぼんやりと自分で物足りない、肉薄できていないと感じていた部分の輪郭を浮き立たせ、可視化されたのだ。ぐうの音も出ない。
例えば「死や喪失を軽く扱っている」という批判に対し、「いやそんなことない!」と抗弁することもできるのだろう。ただ「本当のところはどうなんだ?」という自問が湧きあがって仕方ない時点で、やはり軽薄さ、不誠実さが自分しか感知しえない作句プロセスに紛れ込んでいたのだろう。
他の候補作も同様に、前向きな評価や賞賛、激励を受けつつも、ときに厳しい指摘に晒された。作品の長所はしばしば弱さと表裏の関係にあり、その批判精神はしばしば作者に跳ね返ってその態度を照らし出す。それは評者の側も同じであることを、選考委員も自覚しつつことばを発していた。俗な言い方だが、作品と評がせめぎ合う様は「ガチンコ」と呼んで差し支えないと感じた。
結果はすでに周知のとおり、土井探花『こころの孤島』50句が受賞することに。私自身、一読「自分のが後れを取るとしたら、この作品だろう」と感じていたので、案の定といったところ。
悔しさはすぐには生まれてこなかった。嵐のあと丸裸にされたような感覚、それから虚脱状態。この世にはどんなに背伸びをしても届かない場所があるのだ、と思った。
そして、もうここに来ることもあるまい、と日本記者クラブを後にした。二月の夕暮れは、ひどくよそよそしい寒さだった。
(選考会後の懇親会の講演では、黒田杏子さんから愉快なエピソードをふんだんに伺ったが、それはまた別のお話。)
3.第41回兜太現代俳句新人賞(令和5年度)
しばらく俳句はいいや……という気分になるかと思ったが、句は性懲りもなく出てくるので仕方がない。諦めが悪いのもあるし、選考会でナマの批評を食らったことが句の純度を高めてくれるかもしれないという淡い期待もあって、6度目の応募をすることにした。信頼する佐々木紺さんに、丁寧な助言もいただいた上で。
前回は2月初旬に最終選考の案内メールが来たのだが、前年の同日を過ぎても何の音沙汰もない。練ったつもりの50句は、あえなく散ったのだ。そう思って、近しい人には「ダメだった。ごめんなさい」と告げていた。俳句を続けてちょうど10年、ひとつの節目だなとも思った。
するとそのほぼ2週間後、昨年と同じフォーマットのメールが届いた。最終候補作は3篇、そのうちのひとつに『触るる眼』50句が残っていた。
最終選考会の前夜、珍しくなかなか寝付けずに浅い眠りを行ったり来たりするうちに、ある夢を見た。
見覚えのある選考会場、机上には最終候補3名の作者の名を連ねた紙が配られている。私の名前の次にあったのは「とみた環」。
そして当日、昨年と同じ選考会場で配付された最終候補作の一作目——字空け、中黒を多用し、高い格調と強い社会性を打ち出した50句を目の当たりにして、確信した。この会場のどこかに、とみた環さんがいる。
最終投票後、確かにその名が呼ばれたときには、ぞわっと寒気がした。偶然かもしれないし、そうでないかもしれない。
さて最終選考は、昨年同様に多様な角度からの批評が錯綜する時間となった。
自作に対しては、
といった前向きな評価の一方で、
と、既視感のある批判が続いた。自作の進歩がまったく感じられない。課題を2年続けて浮き彫りにされ、矢継ぎ早に切り刻まれる感があった。
他方、『詩と吃音』は定型詩で表現するのを躊躇われるテーマにあふれる才気で真っ向から挑んだことが、『路上よりの歌』は社会をストレートに描いた迫真のドキュメンタリ性が、それぞれ高く評価された一方で、作品がひろく読まれた際に受けるであろう批判を想定したエクスキューズが付された。世に出したときに作品と作者が多方面からの批判に耐え得るのかという見通しも含んだ、緊張感のある評が続いた。
最終投票の瞬間まで、結果の予想はつかなかった。受賞を宣言された直後は、『詩と吃音』『路上よりの歌』の社会性を自作が打ち出せなかったことへの悔しさが残った。おそらく『現代俳句』誌において二作とも掲載されるので、ぜひお読みいただきたいと思う。
選考会終了後、何人かの選考委員の方とお話しする中で「誰か分からなかったけど、予選から推していた」「まさか2年連続で来るとはね」という言葉が聞かれた。当たり前だけれど、今回もガチンコだったのだ(でなければ無名の私が受賞できるわけもない)。
懇親会での各選考委員のスピーチで、印象に残ったひとことがある。
「かつて某有名歌人が賞に数年続けて応募した。何年目かに佳作、翌年は優秀賞、そしてその次の年についに大賞を獲った。結果からすると、その歌人の作品がブラッシュアップされていったように見えると思う。しかし内幕は違う。続けて賞に出すうちに、選者のほうがその歌人に慣らされ、教育されたのだ。だから、続けて挑戦することの意味は決して小さくない」
その某歌人に自らを比するほど不遜ではないし、教育などと烏滸がましく構える気もさらさらない。ただ、ここまでの年月を思って、続けることの大切さは身に沁みた。
賞は水モノ、時期や選者との巡り会いもあるだろう。でも、作品と作者を世に出すことを前提に、鋭い眼で作品を見極めようとする賞に応募したことは、本当に良かったと思っている。
ということで、頼まれもしないのに極めて主観的な体験談を綴りました。
私は選考委員の評に揺さぶられながら賞に応募してきたわけだが、正直そんなに動揺する必要もないし、もっと楽しく挑戦して良いのだと思う。
賞の名を負うことになるとは言え、受賞後に別の人格になるわけではないし、これからも自問しつつ俳句を作っていくことに変わりはないので。
今後この賞が応募する方たちにとって、いかなる結果であっても実りある賞になることを願い、駄文の結びとしたい。