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同じものでも全く違う。文字の食卓

中学生の時に、東野圭吾さんの「時生」という小説を読んだ。とても読みごたえがあって、読むたびに泣かされている。
内容もさることながらもうひとつ、ずっと覚えていることがある。
「書体」だ。

講談社文庫で読んだ『時生』の書体は、やたら圧が強かった。明朝体の一種で、濃く角ばっていて、ページ全体の黒の割合がとても多い印象を受けた。なんだか、眉毛の濃い人に朗読されているような気分で読み通した記憶がある。

それが必ずしもネガティブだとは思わないけれど(ムラがなくて読みやすいという一面もあるはず)、書体がここまで印象を左右するんだな、とは感じた。

そんな(大)昔のことを思い出したのは、先日見つけたこのサイトがきっかけ。

正木さん、という方が運営しているウェブサイト「文字の食卓」。
「海苔の文字」「こんぺいとうの文字」など、聞き捨てならないタイトルが並び、書体とそれにまつわるコラムが掲載されている。

様々な書体を「冷たいガラスのように温度の低い文字」と分析したり、「白い」と言い放ったり(どうみても黒)、正木さんの、書体に対する尋常じゃない解像度と感度が見てとれる。そして書体と食べ物を結び付ける発想…。そんじょそこらの食いしん坊ではないと思った(200%の尊敬を込めて)。

正木さんのサイトを見ていると、明朝だけでも何十(何百?)の種類があることが分かる。さらにそれぞれの書体に親族関係のようなものや、伝説の書体があるようだ。書体ワールドが果てしない。


正木さんほど書体に注目していなくても、新聞が丸くかわいらしい文字で書かれていたらギョッとするだろうし、LINEを明朝体でやりとりしていたら少し敬語が多めになるかもしれない。
同じことが書かれているのに、伝わる空気感は全く違う。

そう考えると、確かに文字は食卓に似ているのかも、と思えてきた。
同じ料理でも、季節、場所、屋内/屋外、お皿、カトラリー、一緒にのむ飲み物、ひとりごはん/誰かと一緒に食べる etc...といった要素によって異なった食卓になる。

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よく行く居酒屋。胃の中に入るものは毎回同じなんだけれど、後から思い返すと「楽しかった」というときもあれば、「なんだか疲れたナ」という記憶のときもある。きっと楽しい書体(会話が弾むなど)のときと、疲弊させるような書体(自分自身の体調など)のときがあるからだ。



文字の食卓を知ってから、普段の身の周りの文字が気になるようになってきた。「おや、この書体はどこかでみたことあるようぞ…」と、目に飛び込んできた文字の内容はさておき、記憶との照合にいそがしい。

今特に気になるのは、『料理=高山なおみ』に使われている書体。

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ちょっとスッキリめの明朝体、という感じ。そんなに昔の本じゃないのに、母の料理本を見ているような気にさせられる、レトロな書体。
どう調べれば書体の種類が分かるんだろうか…


何気なく目にしている文字と、毎日の食卓を重ねて考えている、すさまじい観察眼で書かれた「文字の食卓」。
いつか私の大好きな「どら焼きの文字」も紹介してもらいたい。





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