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表層の秩序という自由

男女の出会いはほとんどが外部との接触になる。 コミティで完結させないのが生命(遺伝子)の必然だから、 だから男女関係のトラブルとかからお金が生まれたはず、出会って関係を持ち、離れていく時。貸借関係を清算する。 それをやらないと相手方のバックに居るコミティが襲い掛かってくる。
人が生きる場所として『家』が根源的なコミニティであったし、家族の間の貸借関係は基本的に不問にかす以外に無かった。 でもその『家』を形作るためには男女関係という基本形が必要とされ、その基本形は必ず外部との接触となるのだ。
いわば、男女関係とは親子関係とは異なり、不問していた貸借関係が、強い形で立ち上がる危険性を常に秘めている関係なのだ。
キリスト教、特にカトリックが離婚を禁じていたように西欧文明は男女関係の秩序に非常に厳しい。愛という概念は男女関係の問題として強く意識されているし、パートナーを伴っていないと外食もちょっと憚れるという空気感もまだあるようだ
いわば、西欧社会とは『家』というコミニティを守るために、男女関係を強く固定化させようとすることで成り立たせようとしている。 それが崩れ始めていってしまったのが、近代社会始まりでもあった。
一方、日本社会は男女関係が他者に変わってしまうことを受け入れていた。 一夫多妻制は支配者層では普通のことだったし、農村部では乱交的な性交渉も許容されていて、自分の子じゃなくても平気で育てた。
東海道中膝栗毛の弥次喜多なんて、もともとホモセクシャルの関係だった上に、二人で女性に夜這いをかけ大失敗するなんていう馬鹿エピーソード満載の喜劇だ。 こんなものが江戸時代はごく当たり前に大ヒットしてしまうのである。 カソリックの宣教師が聞いたら泡を吹いて倒れてしまうかもしれない。
サドの「美徳の不幸」にしてもマゾッホの「毛皮を着たビーナス」にしても、ナボコフの「ロリータ」にしてもそれは背徳感と葛藤の物語であり、秩序との戦いと開放の物語だった。 弥次喜多なんて無茶苦茶な性関係なのにも関わらず、日常の馬鹿話としてあっけらからんとしているのだ。
性に対して秩序を課すことによってコミニティの安全を確保した西欧に対して、日本は何を秩序とし、それをどのように壊して現代を作ったのだろう。 日本の秩序は性ではない。 では土地か。 確かにその要素は極めて強いが普遍的では無い。 実は習慣なのだ。
習慣、すなわち、回りと同じ動きをするという一番シンプルな行為だ。 3歳くらいの子供がおねーちゃんの真似をするという、一番最初の学びであり、最も根源的な学習である。 それは一番身近な家の中で共有されるし、土地や地域などでの古くからの共有でもあるだろう。
これを型として芸道や多くの場面で教育手段として活用したし、礼儀も本質的には習慣の洗練化だろう。 これは同調圧力という抑圧でもある。 これはコミニティの形成に非常に役に立つ。 けれど、そこには中身が無い。 いやあえて中身を無くしたまま秩序形成しようとする知恵なのだ。
西洋が心の正しい在り方を特に男女関係の中において厳しく定め秩序形成したが、日本における習慣や型の秩序は心の在り方を厳しく定めない。 あくまでも表面の在り方のみの秩序だ。 ある意味中身は人それぞれ自由であっても良いのである。
いわば邪(よこしま)な心であっても、表層の型や習慣に従っているなら許容するのである。 それは世間の型によって動き続けることによって浄化される可能性が高いからだ。 ただし、どうしても型に合わずに、心の内部から噴出する力によって型破りを行うものはむしろ絶賛する。
あるいは爆笑する。 型破りをして成功したなら絶賛され。失敗したなら爆笑される。 弥次喜多は型破りを繰り返して、失敗し続けるから喜劇なのだ。
キリスト教なら男女の秩序を壊しコミニティを破壊する弥次喜多が、日常的に愛されるなんてことが起こるはずがない。


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