放哉と山頭火 死を生きる 渡辺利夫

 私は放哉を生きている。山頭火を抱えもっている。現世からの逃避、過去への執着からの解放。そうした願望を意識の底に潜ませていない人間は少なかろう。しかし、人々にとって、それは叶えることのできない業のごときものである。人間の業のごときものである。人間の業のありようを、自由律句という形式を通じて、私どもの心に、時に鋭く、時に深々と語りかけてくれる異才が、放哉であり山頭火である。放哉と山頭火の句が読む者をとらえて離さないのは、二人が現代を生きる我々の苦悩を「代償」してくれるからなのだろう。
 現世への執着を断ち切り、深い孤独の中で死を選び取った男が尾崎放哉である。放哉は迫りくる死を鋭利にみつめ、死を透明な清澄な句へと昇華させた。執着を断とうとする放哉の意志は狂気に近い。この放哉にして、辞世の句、「春の山のうしろから烟が出だした」はいかにも温かい。このような豊穣は彼の句には他にない。放哉のような人間にとっても、救済は意志によってではなく、死を直前にしてようやくもたらされたのであろう。
 人間関係が拘束の多いものであればあるほど、われわれは拘束からの自由を求める。自分を自分たらしめた諸々の過去への執着、執着からの解放を求める願望、願望のことごとくの挫折、山頭火の生涯は人間として在ることの苦悩を模型的に示したものであろう。
「苦痛は戦うて勝てるものではない。打ったからとて砕けるものではない。苦痛は抱きしめて初めて融けるものである」
 山頭火は毎日みずからにそう語りかけ、救済はなお遠い。しかし、泡立つ暗鬱の人生を送ってきた山頭火を救済に向かわせたものも、死であった。現世においては叶わなかった自由を、彼は死を悄然に手にしたのであろう。「もりもりもりあがる雲へ歩む」。この辞世の句は、山頭火の解放の賛美だったのではないか。

 普段はそんなことは少ないが、時折訪れる辛く苦しい時には、私は決まったように放哉と山頭火の句集を開いて、ラインマーカーの引いてある句に目を通す。悲しい歌なのに、私の苦しさはいつの間にか和らぎ癒されている。放哉と山頭火のそんな「効用」を読者と共有してみたいのである。

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