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蝉が鳴くころに|短編小説


氷がとけるようにあいして欲しかったのに、母は呆気なくシんでしまった。みっさんは号泣しながら、葬儀について話し出した。

「喪主はみっさんでええかな?」

と、言うから、

「うん。」

と、私は俯いたまま応えて幼女のように脚を交互にぶらぶらさせた。

みっさんは母の再婚相手で一緒に暮らしはじめて五年が経過していたけれど、みっさんのことを父だと周囲の人に公言したことはなかった。はじめて出会った時も母から、

「この人はみっさん言うねん。」

と、紹介されたし、

「無理に父さんとか、父ちゃんとか、パパとか言わんでよろしいから。」

と、みっさん自身に言われたのでそれからずっとみっさんと呼んでいる。みっさんはいつも明るくて人に好かれる愛想のいい笑顔が印象的なおっちゃんだ。自称、ゴールデンレトリバーのような人懐こさで人気者らしい。たしかに、みっさんが人の悪口を言ったり苛立つところはあまりみたことはなくて、いつもヘラヘラしていることが多い。母は生前にみっさんのことを、

「こんな愛想の良い人間が居てるなんて、世界も捨てたもんじゃないなあ。」

と、よく言っていた。たしかに苛々した人と一緒にいるとその場の空気までが苛々に汚染されてしまうような気がするし、自分までも苛々に感染してしまう。だから、いつも機嫌の良いみっさんと一緒に居るだけで幸せと言う母は人生の本質を突いているのかもしれない。

「かよちゃん、なあ、かよちゃん、祭壇の花どれにしようか?」

みっさんの声で我を取り戻した私は声のする方を見るとみっさんの目尻の皺に涙が挟まり右往左往していた。私は葬儀社の方が差し出す写真の貼りついたファイルを受け取るとそこには祭壇の写真が何枚かあり、百合や菊の花が綺麗に並んでいた。

「白色の菊の花がきれいやな。」

と、私が写真を指差しながら何気なくその写真の下に書いてある金額をみると高額で驚いた。私は慌てて人差し指を一番安い祭壇まで移動して止めた。その行為に自分自身で笑いそうになるのを堪えながらみっさんを見ると鼻水を啜り、

「じゃあ、これでえ。」

と、葬儀社の方に応えていた。あまりにも嗚咽するみっさんに不謹慎にもまた笑いがこみ上げてくるのを必死で隠すためにまた脚をぶらぶらと揺らした。

そして色々な決め事が済むと棺桶の中にいる母を見た。死化粧を施されて、いつもよりチークが濃ゆいが、美しかった。私の後ろで椅子に座りまだ嗚咽しているみっさんは鼻が詰まった声で私の名前を呼んだ。

「なあ、かよちゃん、大事な話があんねん。かよちゃんがよかったら、これからも一緒に暮らさへんか?みっさん頼りないかもしれんけど、一生懸命に頑張るから…だから…。」

そしてみっさんはまた号泣してしまい最後は何を言っているのかわからなかった。自分のことが愛されキャラやと知っているから自身のことを「みっさん。」と言うのだろう。私も不思議とそのことに嫌悪はしなかったし、何より泣きすぎて目も鼻も真っ赤になっているみっさんを放ってはおけなかった。

「うん、私はこれからもみっさんと一緒におるから、もう泣かんといて。」

そう言うと、みっさんは私の言い方や声色が母にそっくりやと言い出して、またゲボゲボ喉を鳴らして泣いた。私は泣き過ぎて訳がわからなくなっているみっさんに飲み物はいるかと聞くと、

「BOSSのブラックで。」

と、嗚咽しているくせに注文はしっかりしているから今度は我慢できずに笑ってしまった。するとみっさんもハンカチで涙を拭いながら小さく笑った。私は少しだけ安心して外にある自販機へジュースを買いに行くと日に照らされた熱いコンクリートの上に蝉の死骸があった。

「ああ、もう夏が終わる。」

私はそう感じて胸が苦しくなる。そして近くにあった花壇の土を軽く手で掘り、蝉の死骸を土に還した。外気の熱に触れると涙が氷の雫のようにポロポロと垂れてライトグレーのコンクリートを黒く染めた。そして続け様にそこに落ちては滲むを繰り返している。私は小さく溜息を吐くと涙は止まりコンクリートと蝉の鳴き声が黒く深く沈んでいるのに、空はただ青く高くそこにいた。

その日からみっさんとふたりの生活がはじまった。私はなるだけ家事を手伝い、みっさんも仕事をしながら私の面倒をみてくれた。そのうちにふたりの間には生活をしていく中で、ルールのようなものができてきた。それは一日の終わりに、互いのその日の出来事を話すことだった。たとえば、みっさんは仕事で後輩がミスしたからそのサポートをしたとか、私は学校の数学の先生の鼻から蝉の足くらいの鼻毛が出ていたとか、互いに言い合いそれを労ったり笑ったりした。そうして何年もふたりだけの生活を過ごしているけれど、やはり私はみっさんのことを父と呼んだことはなかったけれど、みっさんは私にとってはかけがえのない存在へと変化した。だから、みっさんには幸せになって欲しいと思っているから、

「私に遠慮せんでもいいから、もしいい人がいるなら言ってね。」

と、言うと、

「みっさんはみちこ(母)以外の女性には興味がないねん。だから、これからも好きな人はみちこひとりだけや。」

そう言って、みっさんは熱燗をクイッと飲んだあとに母の遺影を優しい眼で見つめる姿を目にすると私はそれ以上何も言うことができなかった。それからみっさんはみっさんのまま歳をとり、私は私のまま三十歳を迎えた。私は大人になっても家を出ることはなく、みっさんと一緒に暮らしている。彼氏や友人や職場の人からは不思議に思われるけれど、私には家を出る選択肢は存在しなかった。

「変やで、ずっと一緒に住んでるの。」

彼氏のタカくんは、いつもそう言って不思議に思っているらしい。

「別に変ちゃうし。」

私はモンブランを口に入れたままそう応えた。お皿をカチカチと鳴らしながら不器用にフォークを操るタカくんは、「そうかなあ?」と言いながらショートケーキの苺を食べた。

「あ、今日大事な話って何?」

私は何気なしにタカくんに聞くと、

「ああ、それはまた後で話すから。」

と、誤魔化されたけれど、ほんとうはそれが何か知っていた。実は数日前に街でタカくんを見かけて驚かそうとその姿を尾行したら有名な宝石店へと入店した。私はタカくんをショーウィンドーからこっそり見ていたらタカくんは指輪を受け取っていた。そこでハッとした私は動揺してしまい、そのままタカくんに声を掛けることなくその場を立ち去った。「今日プロポーズされんで。」心の中でもうひとりの自分が声を上げるから飲んでいたアイスコーヒーで咽せてしまう。ゴホゴホ咳をしながら、未だに動揺している自分に驚いた。

私たちはカフェをあとにして海沿いを歩いていたら雑木林があり、その場所では蝉が大声で叫んでいている下には蝉の死骸があった。私は母の葬儀を思い出し、タカくんにゆっくりとそのときの話をはじめた。母が亡くなった時の話をすると、タカくんは真面目な面持ちで時々頷きながら私の話を聞いてくれた。母が突然亡くなった喪失感とともに、みっさんが号泣しすぎて笑ったことも話した。

「みっさん、ええひとやなあ。」

タカくんは優しく呟いた。そして私は、

「みっさん、ええひとやよ。」

と、言うと、タカくんは急に鞄の中に手を入れて何か探している。すると、突然目の前に指輪が現れた。

「ボクと結婚しませんか?」

私は心の中で、「今かいな!」とツッコミをしたけれど、そういう空気ではないことはわかっていたので沈黙したままタカくんを見ると、いつものふんわりとした笑顔でわたしを見つめている。私はそのプロポーズの言葉が気になったから、

「結婚しませんか?で間違ってはないけど、結婚してください。の方が誠意があるような気がする。」

そう言うとタカくんは、

「そんなのどっちでもいいよ。どっちにしてもボクはかよちゃんにプロポーズしてんねんで。どうするの?するのしないの?どっち?」

と、クイズ番組みたいに疑問符だらけの質問責めにあった私は、すぐに応えることができなくて、

「すこし考えさせて。」

と、言ったら、タカくんは目を丸くさせて驚いていたけれど、小さく「わかった。」とだけ呟いて指輪を鞄へしまった。私がすぐ返事ができずにいたのは、みっさんをひとり残してあの家を出ることに躊躇いを感じていたからだ。私を一生懸命育ててくれたのに、年老いたみっさんをひとりにはできない。なんなら私が看取りたいと思っていることを気まずい空気が漂うタカくんに告げた。

「よかったー!ボクのことは嫌じゃないんやな。じゃあ今からみっさんに会いに行こう。」

いつものサドンリーな展開に私はタカくんの胸板を軽く叩く。

「なんでやねん!みっさん家におるかわからんし、行ってどないすんの?」

するとタカくんはいつもの笑顔を作って、

「みっさんに連絡してみなはれ。はよう。」

と、催促している。私は「もうーー。」と牛の鳴き声のように声を上げて携帯を取り出してみっさんに連絡すると今庭仕事をしていらしい。そのみっさんに

「会わせたい人がいるから今から連れて行ってもいい?」

と聞くと、

「なんや!誰や!あ!わかった!仲里依紗ちゃうか!」

と、興奮しているから、

「仲里依紗とちゃうわ。楽しみに待っといてね。」

と、だけ言って私は電話を切った。その横で動向を窺っていたタカくんは、「仲里依紗…?」と、呟いたけれど、説明が面倒に感じたので聞いていないふりをして、

「ほないこか。」

と、蝉が忙しなく鳴く海岸沿いの雑木林を後にした。

みっさんが待つ家へ到着するとタカくんは急に緊張しはじめた。「髪型変じゃない?」とか「スーツを着た方がいいんじゃない?」とか恋する乙女のようなことを言い出して私を困らせる。

「みっさん、そんなこと気にせんと思うよ。」

と、些か面倒そうに言うと、「それほんま?」と、タカくんは窓に反射する自分をいろんな角度から観察して最後に「よっしゃ!」と、気合を入れたけれど声が裏返っていた。そして玄関へ入ると、

「お邪魔します!」

と、元気に声を出したまでは良かったのに、最後の「します!」のところでまた声が裏返っていた。私はつい笑ってしまうと横にいるタカくんはキョトンとした顔で私を見ていた。

「ごめん笑ってしもうた、どうぞ上がって。」

と、話すと、タカくんは神妙な面持ちでスリッパを履いた。こんなに真剣な表情でスリッパを履く人がいることに少し驚きながら、廊下を歩いて居間へ入るとみっさんはテレビを観ながらビールを飲んでいた。

「おっ!おかえり!仲里依紗ちゃうやんか、男やし、なんか残念やなあ。」

そう言うみっさんにタカくんは真面目な声色で長い挨拶をはじめた。するとみっさんは、

「タカくんだっけ?いつもかよちゃんがお世話になっております。挨拶はそのくらいにしといて、ビール飲める?」

と、ゴールデンレトリバーのような笑顔でタカくんに話しかけた。

「は!はい!よろこんで!」

タカくんは居酒屋の店員さんの合言葉のような返事をしてみっさんの近くへ座ると、みっさんにお酌をはじめたので私はふたりの様子を窺いながら、箸と皿を準備した。するとみっさんは、グラスに入ったビールの泡だけを啜るように飲んでから、

「タカくん、ボクのことはお父さんとかパパって呼ばんといてな。みっさんでええからな。」

と、言うと、タカくんは正座したまま返事をしていた。そして今度はタカくんがみっさんに話しかけた。

「みっさん、ひとつ質問してもいいですか?仲里依紗さんがお好きなんですか?」

タカくんが言うと、みっさんの目がキラキラと輝き出して、

「みっさんな、仲里依紗のファンやねん。そんでなあ、仲里依紗のいいところが1,000個くらいあって、…」

と、そのまま放っておくと、永遠に仲里依紗を語り出してしまうので私が間に入って、みっさんとタカくんとの共通の趣味であるガーデニングの話をした。するとふたりは、あーでもないこーでもないとビールを飲みながら話をして楽しそうだった。ふたりがほくほくと笑っている姿を見ると、ふと、私がなんでタカくんを好きになったのかわかった気がした。そんなことを感じていたらタカくんは、

「あの!みっさん!突然ですが、かよさんとボクと一緒に暮らしませんか!?」

と、いつものサドンリーな展開に持ち込んだ。みっさんはタカくんを目玉が飛び出るくらいに見ていて言葉が出てこない様子だった。すると、タカくんは続けた。

「ボクが思うに、家族って最初は血の繋がりのない赤の他人同士なんですよね。他人同士がそばにいて、支え合いながら家族になっていくとボクは思います。だから、みっさんとかよちゃんとボクの三人で家族になりませんか?」

そう言った後にタカくんはビールをグイッと飲み干した。みっさんと私はその呑みっぷりに見惚れてしまった。そしてタカくんの言葉がこだましている。

三人で家族になりませんか?

優しい言葉の残響が空気に融けて色をつけた。私はみっさんを見ると目が合い、その後ふたりの浮ついた透明な視線は自然とタカくんへと向いた。

「あ、あの、すいません。困らせたみたいですね。」

タカくんは申し訳なさそうに自分で瓶ビールからグラスへ手酌をして、またビールをグビグビと飲んだ。

「それいいやんか。私は賛成。」

私は一瞬で空になったタカくんのグラスにビールを注ぎながら呟いた。母を亡くして血の繋がりのないみっさんに育てられた私は良く知っている。最初はぎこちなかったみっさんとの生活は徐々に柔らかくなり肌馴染みの良い日常へと変化した。それはいつしか、なくてはならない存在へと形を変えて私の人生の一部となっている。血の繋がりがなくても家族になれるということをひとりで噛み締めた。

「そうやなあ、みっさんも賛成や。なんや今流行りのシェアハウスみたいで楽しそうやんか。」

みっさんはいつもの笑顔でタカくんに話しかけた。その声はタカくんを優しく包むように聞こえた。

「良かった〜。ボク断られたらどうしようかと思いました。」

そう言ってタカくんは自分の生い立ちをみっさんに話しはじめた。タカくんは幼いころに両親が離婚した後に母方の実家に預けられて祖父母に育てられたそうだ。そして、私と同じように中学生のころに母親を亡くして去年立て続けに祖父母を亡くした。

「ボク、天涯孤独なんですよ。」

タカくんはポツリと呟やくとグラスに付着した水滴がさらりと流れた。そしてその言葉は居間の畳を擦るように響いて淋しく消えると、みっさんがそれを拾って優しく撫でるように話はじめた。

「タカくんは天涯孤独じゃないよ、かよちゃんがおるやんか。それにみっさんが入って、この三人で家族になるんやろ?」

みっさんはいつもの笑顔を作って自分の膝をポンと打った。

「そうや!家族が増えるって、みちこ(母)に報告せんといかんな!」

そう言いながら、みっさんは隣の仏間に移動するとタカくんもみっさんと一緒に仏壇へ手を合わせている。そのふたりの姿を見ていると「ふたりは似ている。」と思いながら私も仏間へ移動してタカくんの横で手を合わせた。するとタカくんが母の遺影を見て、

「あ、お母さん仲里依紗さんにどことなしに似てはる。」

そう言うと、みっさんは嬉しそうに、

「な!べっぴんやろ!」

と、みっさんはタカくんの肩に手を回して居間へ移動してまたお酒を酌み交わしはじめた。私は台所へ移動して冷蔵庫に作り置きしてあるナスの南蛮漬けときんぴらごぼうを皿に移しながら思案した。先程の数分で、みっさんとタカくんと一緒に住むことになってしまった。私はタカくんに結婚の返事もしていないのに。けれど、なんとなく三人で生活する風景が目の前に浮かんできた。朝起きて三人分の鮭の切り身を焼いて、味噌汁と卵焼きを作り、浅漬けのきゅうりを切って皿に盛り付けてテーブルへ並べる。そして「ごはんできたでえー!」と、大声でふたりに伝えると、それぞれがテーブルへやってきて、きちんといただきますをしてから箸を持ち食事をはじめる。誰かが話し出したり時に無言になったりしながら黙々と朝食を平らげる姿がふわりと私の頭上に降ってきた。

三人で家族になりませんか?

タカくんの言葉が優しく私を撫でるように通過した。私は、

「うん、家族になろう。」

と、小声で言うと、家の外では蝉が木に留まっているのだろう、ずっと忙しなく鳴いていた。

それから数ヶ月後に入籍を済ませてからタカくんは家にやってきた。一緒に暮らし始めると、最初は互いのペースを掴めなかった生活も慣れてくるとそれぞれが淡々と毎日を送るようになる。柔らかく穏やかな日々を過ごす私たちは、夕飯を一緒に囲む日にビールを飲みながら一日あったことを話す。

「みっさん、今日庭仕事してたらな、老眼鏡を無くしたと思ったら額にあってん。」

みっさんは、自分のことを「おっちょこちょいやなあ。最近物忘れが多なって。」と言ったあとにビールを飲んだ。その話をしているそばでまた「老眼鏡がない。」と言い出したので「額にありまっせ。」と、冗談ぽく伝えると、みっさんは「あ、ごめんごめん。」と、言いながら笑った。

それから数ヶ月が流れて、みっさんは少し曲がった背中で庭仕事をしていた。すると居間でテレビを観ている私に、

「お母ちゃん、お母ちゃん、これ綺麗やろ。」

と、ボケたことを言うから、

「誰がお母ちゃんやねん!」

と、ツッコむと、不思議そうな顔したみっさんは私に向かってこう言った。

「あれ?どちらさまでしょうか?」

私はまだボケんのかいと思ったけれど、みっさんの真面目で不思議そうな顔色を見ていたら、ただ事ではない気配を感じ取ったので困惑するみっさんを言いくるめて、すぐさま病院へと向かった。その日は検査だけで一日を費やした。病院のベンチへ座っている時に、みっさんが私の名前を呼んだ。

「かよちゃん。」

その一言に目を丸くしていると、

「お腹すいた。」

と、みっさんは俯きながら呟いた。私たちは病院の食堂に向かいカレーを頼んで食べた。私はスプーンでカレーをすくいながら鼻の奥がジーンと熱を持つから鼻を押さえて上を向いた。ポロポロと目尻からこめかみへ涙が零れ落ちる。それを見たみっさんは、

「かよちゃん、どうしたん?これ、そんなに辛いん?」

と、いつものみっさんのように素っ頓狂なことを言うから私は余計に泣いた。そしてみっさんは、ニコニコしながらスプーンへ乗ったカレーを口へ運んだ。

そのあと、色々な検査が終わり帰宅する頃には、いつものみっさんに戻っていた。そしていつものように互いに今日あったことを話したけれど、どこかふわふわと浮遊するような感覚は消えることはなかった。そして数日後、検査結果を聞きに病院へ行くと、みっさんは認知症だと診断された。そのときに病気のことや、これからのことを医師と話をして帰宅したらタカくんがスーツのままで居間で待っていた。するとみっさんは、

「みっさんは認知症や。」

と、呟いてビールを冷蔵庫から取り出して飲飲んだ。それからみっさんの横に座る私とタカくんの目を見てこう言った。

「みっさんは施設に入ることに決めたから。」

戸惑う私とタカくんを見ながら、みっさんはいつもの笑顔で笑う。それからのみっさんは私とタカくんへ相談もなしに勝手に施設へ申し込みを済ませて、そこに空きが出たからと二ヶ月後に施設へ入所した。私は悲しさよりも、みっさんの行動に呆気に取られていた。私は口には出さなかったが、みっさんを看取るつもりでいた。そのことが出来なくなったことが何よりも心を抉る。

「あほ。ほんまにあほや。」

誰に言うでもなくひとり言を呟くと、静かな廊下には冬の残骸が転がっていた。足先が冷えるので今日は熱燗にしようと思う。おでんも仕込んであるし、今日タカくんは帰りが遅くなるらしいので、ひとりで楽しもうとまだ片付けていない炬燵に入り熱々のおでんと熱燗を味わった。すると、熱々のおでんが食道を通り過ぎるころに胸にうわーっと哀しみが押し寄せてきた。私は鼻を押さえて上を向いたら熱い涙がポロポロと目尻を伝いこめかみに流れ落ちる。哀しみ色をした涙が後から溢れて止まらなかった。私はみっさんが居なくなった事も辛いけれど、それよりも認知症で私たちのことを忘れていく事の方がよっぽど怖かった。涙をティッシュで追いやって熱燗をキュッと煽る。そうしても消えることのない哀しみは、コトコトと足音を鳴らして私の心へやってきて居座った。

私はみっさんが居なくなって心にできた穴を埋めるように仕事や家事に勤しんだ。普段はしない残業もして日常を乗りこなしていたら、そんな私を見てタカくんは、

「明日の休みにみっさんのところへ行っておいでよ。」

と、心配そうに呟いた。

「…私が行くと、みっさん迷惑とちゃうかな?」

と、私が言うと、

「みっさん喜ぶと思うで。ボクは仕事やから一緒に行けんけど、かよちゃんはゆっくりしておいで。」

と、タカくんは凝り固まった私の心を優しく包むように呟いた。私は小さく「うん。」と、返事をした。

そして翌日みっさんの施設へ行く道中に、「何を話したらいいんやろ。」とか余計な事ばかりが頭の中を駆け巡る。一緒に暮らしていた時は、そんなことで悩むことなどなかったのに。そして施設の前に到着すると大きく深呼吸してから正面玄関へと向かった。すると、みっさんは広いロビーで他の入居者のひとたちと楽しそうに談笑していた。私はそれをこっそり聞いていると、どうやら今私のことを話しているらしい。

「うちのかよちゃんが世界一や。」

と、言うみっさんに、施設や周囲の人たちは、「そんなことがあるかー。」とか、「親バカやなあ。」と茶化しているから、私は話しかけずらくなった。すると、みっさんが後ろを振り向いて、「あ!かよちゃんや。」と言うから、その話をしていた人たちは私をジロジロと観た。そうしたらご婦人が「まあ、綺麗なお嬢さんやね。」と、お世辞を言ってくれた。私を見たみっさんはいつもと変わらずゴールデンレトリバーのように愛嬌があり人気者のようだった。そしてみっさんは席を立ってこちらへやってきたので人気のないソファへ移動して話をした。

「えらい楽しそうにやってはるやん。」

と、少し嫌味を込めて言うと、みっさんは、

「ボチボチやな。」

と、首を摩りながら窓の外を眺めていた。そして真面目な顔をして、

「勝手にいろんなこと決めてごめんな。認知症のことを知ったら急に怖くなってん。みちこのことも、かよちゃんのことまで忘れてしまうなんて、耐えられんかってん。それに、徐々に忘れていく姿を、かよちゃんに見られたくないねん。」

と、みっさんは言ってから手に持っていたBOSSのブラックコーヒーを飲んだ。

「時々会いにきてもいい?」

そう聞くと、みっさんはいつもの笑顔で頷いた。

私はそれから休みの日はみっさんの所へ遊びに行くようになった。その理由は最初は単純に暇だからと嘘をついたけれど、ほんとうはみっさんに会いたかったからだ。みっさんは毎週やってくる私に、

「何が辛くてみっさんに会いにくんねん。」

と、呆れていたが、そんなこと私は知ったこっちゃないのだ。

「私が会いたいから会うねん。」

と、言うと、みっさんは、

「ほんまに変わってる子やわ。」

といつものBOSSのブラックコーヒーを飲みながら、首の後ろをポリポリ掻いている。

みっさんは施設で楽しくやっているようだが、時々、施設の人のことを「お母ちゃん。」と言ったり、記憶が曖昧になっている様子だった。それでも私のことは忘れるはずはないと思っていた。「二十年も一緒に居たんやで、大丈夫。」と思っていたのに、みっさんはそのうちに私のことが誰なのか認知できなくなった。時々施設に現れる私やタカくんを施設の職員や清掃員に間違えたりするようになってしまった。

それから二年の月日が流れて、丁度蝉の鳴き声が静かになる頃に、みっさんは息を引き取った。容体が急変したと携帯に連絡が入り急いで搬送された病院へ向かったけれど、私たちはみっさんを看取ることはできなかった。ベッドの上で穏やかな顔で眠っているようなみっさんの横でタカくんはひっそりと泣いていた。なのに、私は泣くことが出来なくて事務的な作業を淡々とこなした。その間、頭の中は空っぽなのに少しずつじんわりと沁みるみっさんの記憶。

母の葬儀のときに嗚咽しながら、母の死を悼んでいたみっさん。

食事の際は必ず味噌汁を一口飲んで、「カァー!美味い!」と言うみっさん。

「お命いただきます。」と頭を下げながら庭の花を摘むみっさん。

靴下は左足から履くと良いことがあると縁起を担ぐみっさん。

缶コーヒーはBOSSと決めているみっさん。


仲里依紗の自慢をするみっさん。

私を忘れてしまったみっさん。

わたしのお父ちゃん。

気付いた時には涙が頬を伝い書いていた書類の上にポタリと落ちた。それを止めることができなくて私の頬は濡れいく。人生の線上に必ず死が存在する。そんなことは小さな頃から知っていたはずなのに喪失感を埋める術を見つけることができない。小さく呼吸すると病院独特の消毒液の香りがするだけだ。私は涙と一緒に鼻水を啜りながら、申請書を記入し封入して看護師さんに手渡すとタカくんがベンチへ腰掛けていた。私は涙をハンカチで拭きながら、タカくんの隣へ座りその顔を覗き込むと、目と鼻が赤くなっていた。するとタカくんは、

「ボク、みっさんと出会えてほんとうに幸せやった。」

と、震える声で呟いた。私も、

「うん、ほんまにそうやなあ。」

と、呟いて、ふたりで頷きながら泣いた。みっさんはこんな私たちを見て、なんて言うだろうか。

「かよちゃん、タカくん、泣きすぎやねん。」

と言いながら、いつものゴールデンレトリバーのような笑顔を作るだろうか。そう思っても涙を止めることはできなかった。

私の心にあるみっさんとの絆は温かくて柔らかくて擽ったくてそれは私の大切な部分で、これからも消えることはないだろう。そして、私は知っている。今は喪失感で硬くなった心は時間が経過すると共に柔らかくなっていくことを母が亡くなった時に経験した。私は小さく「大丈夫。」と自分に声をかけて病院の外へ出た。すると、日に照らされた熱いコンクリートの上に蝉の死骸がある。

「ああ、もう夏が終わる。」

私はそう感じて胸が苦しくなる。そして近くにあった花壇の土を軽く手で掘り、蝉の死骸を土に還した。外気の熱に触れると涙が氷の雫のようにポロポロと垂れてライトグレーのコンクリートを黒く染めた。そして続け様にそこに落ちては滲むを繰り返している。私は小さく溜息を吐くと涙は止まりコンクリートと蝉の鳴き声が黒く深く沈んでいるのに、空はただ青く高くそこにいた。







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