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しあわせの青い鳥 1/2

春の霞がたなびく夕映えの坂道を自転車でゆっくりとくだってゆく母の背後(うしろ)姿。・・・・・
——母について憶えていることはほとんどありませんが、夕日の中に消えていく母の背中は、淡い色彩を暈した背景をともなって今も私の眼裏(まなうら)によみがえります。
母の背中がおぼろに霞んで見えるのは、うっすらとした春霞が夕景色を包んでいたばかりではなく、しだいに遠ざかり行く母を、薄い涙の膜を透かして見送っていたためかもしれません。
私自身は記憶にないのですが、夕暮れ時になると母は近所の親切なおばさんに私を預けてから、夜の仕事に行くために毎日自転車で駅に向かっていたのです。いとけない私は目にいっぱい涙をためてそんな母を見送っていたときいております。
街をのみこむような巨大な夕焼けへと自転車を漕いでゆく母を見つめて、私は母が戻ってこないかのように感じていたのでしょう。
そして本当に母は落日の余光のように地平線の彼方に消えてしまい、二度と帰ってこなかったのです。

そうした夕焼けの景色にくわえて、母に思いをはせるときにこころに去来するのが、大空へ飛び立ってゆく青い鳥のイメージです。翼をひるがえして風をとらえた青い鳥は薄花いろの春の空に抱かれるように融け合って一つになるのです。私は胸が締めつけれるような思いで鳥が飛び去った後のとりとめもない空をいつまでも仰いでいます。すると暖かい毛布をそっとかけるように、やさしくしめやかな女の人の声が聞こえてきます。
「大丈夫よ。青い鳥は必ず戻ってくるから」
—————。
夜の仕事が休みのとき、母はきまって絵本を読んで私を寝かしつけていました。もっともこの事実も私は憶えておらず、母が亡くなってから父に教えられて知ったのですが。
父によれば私は童話の「青い鳥」——原作の戯曲ではなく、幼児用にわかりやすく編纂した絵本——をいたく気に入っており、よく母に読んできかせるようにせがんでいたといいます。
「青い鳥」のラストは青い鳥が逃げてどこかに飛んで行ってしまいますが、その結末に少なからず胸を痛めていた幼い私を見るに忍びず、母はやさしい慰めの言葉をかけていたのでしょう。
おそらくその記憶が私の無意識の奥底に沈殿して、春の空に飛び立っていく青い鳥のイメージと夕花櫻のように散っていった母の俤とが結びついたのではないかと思っています。
残念ながら母の形見ともいうべきこの「青い鳥」の絵本は、いつしかゆくえしれずになり、現在は手元にはありません。

母は私が三歳になると同時に他界しました。仕事に行くために自転車で駅に向かう途中に事故に遭ったのです。居眠り運転のダンプカーに突っ込まれ、即死だったときいております。

私は旧い言葉でいうところの不義の子です。父は本妻がありながら、母と関係をもったのです。
二人は母が働いている夜のお店で懇意になったときいております。
母を喪くした私は父に引き取られ、父の暮らすアパートで生活することになりました。
つまり、私は父の本妻である女性と一緒に暮らすことになったわけです。
父の本妻—私の継母にあたるその女性は幸枝さんといいました。
幸枝さんとはじめて会ったときのことを明確に憶えているわけではありません。が、幸枝さんのことを想うと、胸に赤子を抱いたふくよかな女性の影絵——その輪郭には暈輪(ハロ)を作ったように光線が縁どっている——のイメージ、それも十字架で結ばれる処女懐胎の母と子のそれではなく、赤子を抱く後光のさした観音菩薩のようなイメージがまず最初にうかぶのです。何か折に幸枝さんになにげなくそのことを伝えたら、細い目をさらに細め、古(いにしえ)の仏教美術に見られるような微笑——この微笑こそ幸枝さんを特徴づけるものです——を口元にうかべて、たしかに私との最初の対面は赤ん坊の悟(さとる)を抱いていたと云っていました。
おそらく父に連れられてアパートのドアを開けると、腹違いの弟の悟を胸に抱いた幸枝さんが私を出迎えてくれたのでしょう。そのおぼろげな記憶から、柔らかな頬笑みをうかべながらも、逆光を受けて漆黒の影にその表情を隠したふくよかな女性のイメージが、私の中にできあがったのだと思います。

幸枝さんは、やさしいおだやなか女性でした。
丸みを帯びた肉付きのよい体型に、たえず福々しい頬笑みをたたえている女性——その見た目もあいまって、文字どおり「仏様のような」という形容がぴったりの女性だったのです。
幼い頃から人見知りする性質(たち)だった私ですが、父の話では一月もしないうちにすっかり幸枝さんに打ち解けていたときいております。
一緒に住むようになって間もない頃の幸枝さんといえば、大きな背中に赤子の悟をおんぶして、造花を拵える内職の手仕事にたゆまず励んでいる姿が想い起こされます。農婦のようにやや太めの指を器用に動かして、薔薇、カーネーション、チューリップ、アネモネ、秋桜、クリスマスローズ・・・・といった色彩の千々を誇示した人工の花々が次から次へと造られていきました。狭いアパートの部屋はとりどりの造花に埋もれ、さしずめ「人工の花苑」といった趣を呈していました。三四歳の私は本物の花と造花の区別がついておらず、公園や庭で咲いている花はこうして造られるのかと、子供心に妙に感心しながら、幸枝さんの忙しなく動く指先をしげしげと凝視(みつ)めていたのでした。私のまなざしを気づいた幸枝さんはきまって菩薩のような半眼を私に向けて、ひたむきな愛情をこめてこう語りかけるのでした。
「お腹すいたろ? 待っててね。これが終わったら美味しいものを作ってあげるから」

それから六年間、私たちは千住のアパートで一緒に暮らしました。
思えば父に引き取られてからの六年間はそれは幸福な月日でした。
幸枝さんは実の息子の悟と分け隔てなく、私を愛(いつ)くしみをもって育ててくれました。
ただやさしいだけでなく、幼さゆえに善悪の区別がついてない私が人の道に背くようなことをしたときは、厳しく私を叱ってもくれました。いわば世間一般の母と娘の関係となにひとつ変わりませんでした。実際、ものごころついた頃には私は幸枝さんのことを自然に「お母さん」と呼んでいました。
体が丈夫ではなかった私は熱を出して寝込むことがよくありましたが、そんなとき幸枝さんは必ず私のために夜伽をしてくれました。熱で朦朧としている私の視界にはいつも木洩れ日のような温かな微笑をたたえた幸枝さんがありました。幸枝さんは冷やしたタオルで首の周りや腋の下を拭いてくれるかたわらに「施無畏印」(せむいいん)の印相みたいに大きな掌を私に向けて、劬(いた)わるように私の頭を幾度ともなく撫でてくれたものでした。そうして半開きの鬱金のひとみで私をじっと見ては、「杏ちゃんはおっきなお目々をしてるのね。杏ちゃんのお母さんと同じパッチリお目々」と情のこもった声でささめくのでした。
(「杏ちゃんのお母さん」というのは、もちろん私の実母のことです。幸枝さんはたびたび私の母のことを「大きな魅力的なひとみ」を持った女性と評していました。もっとも、母を直接見知っていたわけではなく、何かの折に「杏ちゃんを抱っこしているお母さんの写真」を一二度見たことがあるだけだといいます。余程母のひとみが印象に残ったのでしょう。
ともあれ、幸枝さんが見たというその写真、つまり神社の鳥居の前で嬰児の私を抱いている母の写真は、子供の頃、形見として私が大事にしていたものです。しかしその写真もいつしか失われ、「青い鳥」の絵本と同じく現在は手元にありません。・・・・)

こんなわけで私は幸枝さんを血を分けた母のように慕い、幸枝さんも惜しみない愛情で私を迎えてくれたのです。
遠い異国——観音浄土に渡海してしまった実母が、あたかも観音様が衆生浄土のために三十三種の化身となるように、姿形を変えて此岸に還ってきたかのようでした。
いってみれば、私の手をすり抜けて、一度は野放図に広がる空へと羽ばたいて行ってしまった青い鳥が、再び私のもとへ戻ってきたのでした。

✳︎

何不自由なく暮らした幸福な六年間は白駒の隙を過ぐるように過ぎ去り、いつしか私は九歳になっていました。突然、私たちは幸枝さんの実家の和歌山県の広川町に引っ越すことになりました。父はある小さな製造メーカーに勤めていましたが、タイの工場に赴任することが決まったのです。父は海外単身赴任することになり、経済的な理由もあって、残された私たちは幸枝さんの実家でお世話になることになったのでした。

広川町の家は幸枝さんのお母さんが一人で暮らしていました。私にとっては継祖母にあたるその人はたゑさんといいました。ふくよかな幸枝さんとは対照的に枯れ木のように痩せさらばえた白髪のお婆さんです。眼窩の窪みと面上に深く刻まれた皺を糊塗するために大仰に施された粉黛(おしろい)は、かえって全身を蝕んでいる「老い」を際だたせていました。
今、たゑさんのことを思い返すと、後年画集で見た絵画「女の三世代と死」(ハンス・バルドゥング)に描かれている、手鏡に映える自らの美貌に恍惚(うっとり)している裸女の頭上に、嬉々として砂時計を掲げている骨と皮だけのあさましい尸(しかばね)の図像が重なるのです。
けれど、こうした墓石に生えた苔のような陰湿な印象は私のバイアスによって多分に歪曲されているかもしれません。というのも、後述する理由のために、私はたゑさんのことが好きではなかったからです。
初めてたゑさんに会ったのは、引越しの数年前の幸枝さんのお父さんの葬儀のときでした。幸枝さんの帰省に伴って、私も葬儀に参列したのです。そのときは特に会話もなく、知らないお婆さんというだけでしたが、一つだけ覚えていることがあります。私が広川町の木造住宅の庭で、樹木にとまったクマゼミを珍しげに見上げていた際に、ふと視線を感じて振り返ると、朽ち木に黒い布が絡みついたような喪服姿のたゑさんが縁側から私を情緒を欠いた目で見つめていました。私の視線とぶつかると、たゑさん眉一つ動かさず、不快な湿った風が通るようにそのまま行ってしまいました。それだけのことでしたが、私は何となくたゑさんに子供が敏感に察知する大人の怖さを感じたのでした。

広川町での暮らしはこれまでのような長閑な生活とはいきませんでした。
幸い新しい学校にはすぐに馴染んで友達もでき、幸枝さんも変わらない愛情を灑いでくれたため、引っ越してきたばかりの頃は何も問題ありませんでした。むしろ外で遊ぶことが好きだった私は東京の下町の生活よりも、山紫水明の自然にあふれた田舎暮らしの方が断然楽しく、できたばかりの友達や義弟の悟と日が暮れるまで毎日駆けずり回って遊んでいました。
しかしそんな楽しい田舎暮らしも、幸枝さんが外に働きに出るようになって終わりを迎えることになります。幸枝さんは父と結婚する前に働いていたかつらぎ町の縫製加工業者に再雇用されたのです。年金暮らしのたゑさんは別にしても、毎月の父からのわずかな仕送りだけでは、私と悟を食べさせていくのはいささか心もとなかったのでしょう。そんなわけで、幸枝さんからすれば、前職の会社への再就職は願ったり叶ったりだったはずです。
もとより前職の会社に再就職するつもりで、父の海外赴任を機に和歌山の生まれ故郷に戻ったのだと思います。

幸枝さんが朝から晩まで仕事で家を空けるようになってからというもの、湿った黴や蜘蛛の巣に徐々に残蝕されていくかのように私は自宅での自分の居場所を日に日になくしていきました。
しだいにたゑさんが私を邪険に扱い出したのです。それまでも、たゑさんは私に冷たい態度をとっていましたが、主に朝食と夕食の際に顔を合わせるぐらいだったので、ことさらに差し障りはありませんでした。
幸枝さんが再就職してから数日が経ったある日、私は朝の六時に起きて幸枝さんと一緒に遠足用のお弁当を作っていました。一緒に作るといっても、私の仕事は、幸枝さんが作ってくれたおかずをお弁当箱に詰めるだけでしたけれど。
その日は、小学校の校外授業で熊野古道にハイキングに出かけることになっていました。あらかたお弁当ができあがると、幸枝さんは朝食を軽く済ませて、「気をつけてね」と睦まじく私に声をかけてから、いそいそと仕事に出かけていきました。
かつらぎ町の縫製工場までは車でゆうに一時間以上かかります。外で軽自動車のエンジン音が響き、しだいに遠のいていく音をききながら、私はリュックサックにお弁当箱を大事に蔵(しま)いました。そのときでした。藪から棒に骸骨のような手が背後からにゅうっとのびてきて、リュックサックを乱暴に奪い取ると、
「人の家のもんを勝手に持ち出しよすな。こんの泥棒 」
と痛罵する嗄れた声が耳をうちました。振り返るとたゑさんは窪んだ恐ろしい目で私を見下ろしていました。続けて二言三言私を罵ってから、たゑさんはリュックサックを持ってどこかへ行ってしまいました。
この一件は私の記憶に深く刻みこまれているにもかかわらず、それからのことは全く覚えていません。リュックサックもお弁当も持たぬままハイキングに出かけたのか。はたまた楽しみにしていたハイキングには行けずじまいだったのか。いずれにせよ、思い出したくない惨めな結末に終わったことは間違いありません。

この日から、たゑさんは露骨に私にいやらがせをしてくるようになりました。
ある朝、いつものように居間に行くと私の朝食だけ用意されていませんでした(幸枝さんは 七時には家を出て、帰りは二十一時過ぎになることが常でしたので、食事の支度はたゑさんに一任するようになったのです)。たゑさんと悟が朝食を摂っているさなか、しかたなしにちゃぶ台の前につくねんと座っていると、向かいのたゑさんがお前も早く食べろと急かしました。
ところが、私の前には小皿一つ出ていません。私が黙って俯いていると、たゑさんがちゃぶ台の下にある何かを足で軽く蹴ったようでした。何だろうとちゃぶ台の下をのぞくと、どぎつい黄いろの原色のフードボウルに、干からびた茶いろっぽい芋虫の死骸のようなものが、溢れんばかりに盛られていました。それは古くなった犬用のドライフードでした。戸惑う私を見て、たゑさんは皺に侵された面をさらに歪めて私を叱りつけました。せっかくお前のために用意したのに食べないのか、と。私は恐怖から、それを一つ摘んで口に入れました。そのまま飲み込むことはかないませんでしたので、奥歯で無理やり噛み砕きました。まるで小石を咀嚼したような無機的なえがらっぽさが口腔の中に広がり、ほんのりとメチルフェノールのような薬品臭がしました。
たゑさんは私が顔をしかめながらドッグフードを食べるありさまを満ち足りた表情で見入っていましたが、遽(にわか)に夜叉のような凄まじい形相(かお)になって、残さず全部食べないと承知しないと私を恫喝(おど)しつけました。私は零れ落ちそうになる涙を必死に堪えながら、鼠の糞のような細長い形状をしたドッグフードを一粒ずつ口に運んでいきました。

こうした陰湿な仕打ちは当たり前のように習慣化していきましたが、私は幸枝さんに助けをもとめることはしませんでした。正確を期すれば、「できなかった」というべきかもしれません。こらえきれず幾度となく幸枝さんに打ち明けようとしましたが、どういうわけかそのたびごとに喉がつぶれたように声が奪われるのでした。はっきりとした理由はわかりませんが、おそらく私が置かれている境遇は自分のような不徳の子供には当然の報いであると、暗暗裡に感じていたのだと思われます。劣悪な環境で飼われる家畜でも彼らなりになんとか適応していくように、ひもねす、たゑさんに「淫売の子」との悪罵を浴びせられるうちに、自身でも穢れた子供だといつにまにか認めるようになり、だんだんと虐げられることがしかるべき処遇であるかのように思えてくるのでした(母の名誉のために申し上げておきますと、母は水商売の仕事をしていましたが、世間にうしろ指さされるようなことを生業にしていた事実はありません)。
この家では私は邪魔者であり、本当はここに居てはいけない子供なのだと自ら思いこみ、継祖母の執拗ないやがらせは当然の仕打ちであると甘んじて受け入れることで、通常の感覚や感情を麻痺させて心理的負担を軽減していたのです。

とはいえ、不感症のように何も感じなくなったというわけではありません。通常の喜怒哀楽の感情が痩せ衰えていくのに代わって、かえって別の種類の感性が呼び起こされて先鋭化されていくのを感じました。
例えば、まともに食事の世話もしてもらえなくなり、一人で布団をかぶってはひもじい思いをしながら、給食の残りの一欠片のパンに齧りついていた深夜などに、どこからともなく歌声とも鳴き声ともつかぬものがきこえてくることがありました。木々の梢をかすめる夜風や鳥獣虫魚の仕業とも、ましてや人の声とはとうてい思えないその音(ね)は、得体のしれない異様な感じにきこえながらも、どこか心惹かれる風情をともなってひびいてくるのでした。ほぐれゆく春の夜の底で、夢うつつともつかないその声を子守唄がわりにききながら私は浅い眠りにおちるのでした。
現在の私にはどんなに耳を澄ましてもあのふしぎな声は全くきこえません。
あれが何の声だったのかわかりませんが、強いていえば、俳諧の季語の「亀鳴く」とか「田螺鳴く」というようなものの類であったと推測しています。前者の「亀鳴く」という季語は為家の和歌を典拠としているらしいですが、それはともかくも、周到な観照によってのみかろうじて感知される異境的な音や声を、現実世界では鳴くことのない亀や田螺の鳴き声として俳諧の世界に取り込み、これらの語を晩春や春の季語として定着させたのではないでしょうか。
とかく、私がきいていた声はそいういう手合いのものであったと勝手に思っております
他にもあります。
湯船が腐るという理由でお風呂にも入れさせてもらえなかったので、しばらくは庭の立水栓で身体を洗っていました。が、たゑさんに水泥棒と見咎められてからそれも禁じられ、やむをえず近所に流れる潺(せせらぎ )に身をひたして垢を落としていました。渓流の冷たさは晩春の夜にも凛烈さを極め、水流にひたした素足から体の芯まで底冷えに震わせるのでした。そんなとき潺の岸辺の八重山吹が黄金(こがね)に花弁をふるわせ、その水面(みなも)に落とした影からも、ひそやかな香が匂いたつようで、さまよい出た山吹の精ともみえる無数の蛍がこゞえる私のこころに淡い光の尾をゆめまぼろしのように残してゆくのでした。
これほどまでに自然にこころを動かされたことは後にも先にもありません。
こうして、子供心にもふかい諦念のうちにしか自然の「美」というものが現前しないことを知ったのです。

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幸枝さんが不在の自宅ではひとときもこころ休まることがなかった私にとって、学校は闇夜の灯火ともいうべき憩いの場でした。先述のように幸い友達にも恵まれ、とても充実した学校生活を過ごすことができました。学校だけはたゑさんも手が出せないセーフティネットだったのです。
しかし、その平安な学校生活もあっけなく破られることになります。
ある日、クラスの男の子——彼の母親は幸枝さんと同じ縫製工場で働いていました——が、唐突に「お前、淫売のこぉなんやろ」と云ってきたのです。私は虚をつかれたように何もいいかえすことができませんでした。
地方ではこの手の醜聞は事実か否か関係なしにまたたくまに広まり、周囲から白眼視されることを余儀なくされます。少なくとも、私が小学生だった二十年前まではそうでした。
その日をさかいに、懇意にしてくれていた友達も日に日に私を遠ざけるようになり、気づけば私は学校でも孤立していました。おそらく彼らの親が私と距離を置くよういいきかせたのでしょう。先生たちまでうちつけに私を冷遇しだしたのもこの頃のことです。
こうして学校でも私は居場所を奪われたのでした。

✳︎

身もこころも追いつめられていたある日、私は激しい飢えにおそわれて寝覚めました。前日からほとんどなにも食べていなかったのです。
枕元の時計をみると、五時五十分前後でした。階下から忙しげな跫(あしおと)や流しの水の音がきこえてきます。この時刻は幸枝さんが出勤前に洗い物や洗濯などの家事をこなしているのを常としていました。
窓外から濡れた吐息のような六月の湿潤(しめ)った微風が薫じて耳を擽りました。
隣の布団では、悟が安らかな寝息をたてています。私はたゑさんが起床する前に、水を飲んで空腹を紛らわせようと、悟を起こさないように慎重に身を起こしました。
おりしも私は目を瞠りました。わずかな窓の隙間に小鳥がとまっていたのです。小鳥は止まり木に羽を憩めるように繊細(かぼそ)い趾(あしゆび)で框を掻いついています。私は空腹も忘れて、われしらず窓際に忍びよりました。小さな月白の頭と豆粒のような菜の花いろのかわいらしい嘴のほかは、底の抜けた青空のようなエンジェルブルーの小鳥です。私はその目も覚めるような鮮烈な青に見惚れていました。
小鳥はにわかに翼を㨯(ひろ)げました。
鳥が逃げる! 私は思わず声にならない声をあげました。飛翔するかにみえた鳥は、はからずも止まり木を移動するかのように私の肩に飛び移りました。私がおどろいたはのいうまでもありません。
気づくと私は階段を駆け下りていました。それから階下で洗い物をしていた幸枝さんにまるで花束を贈呈するかのように両手を差し出しました。私の両手には清麗な小鳥が息づいています。
洗い物の手をとめた幸枝さんはいつもの半眼で私を、それから私の手の中の鳥を見ました。
幸枝さんは何も云わずにペーパータオルで手を拭うと、そのまま奥の自分の部屋に退がり、ややあってキャラメル箱型の化粧箱を持ってきました。
「窓のところにこの子がいたの」
私がやっとそう云うと、幸枝さんは最初から承知しているように黙したまま手際よく化粧箱に新聞紙をつめて、小鳥を私から受け取りその箱におさめました。
それから、幸枝さんは、この鳥は人間にも慣れているし、どこかで飼われているインコだろうから飼い主が見つかるまでこの家で面倒をみようという趣意を私に伝えました。私は胸が躍りました。
「庭の水菜を獲ってきておくれ」
私は嬉しくなって、飛び上がらんばかりに小鳥にあげる水菜を獲りに庭へ駆け出しました。

その晩、幸枝さんいつもより早めに帰ってきました。真新しいバードケージと鳥の餌のシードとペレットを持って。
早速、小鳥をまにあわせの化粧箱からケージに移しました。まるで中世のヨーロッパの貴族の部屋にでもあるようなアンティーク調のパールホワイトのお洒落な吊るし型ケージです。吊るすのに適当なところがなかったため、ケージはひとまず私の机に置くことになりました。
燥ぐ私を見て、鳥を飼うことにたゑさんが猛反対したことは言を俟ちません。けれども、悟も鳥を迎えいれることに少なからず興奮しており、珍しく私の味方をしたので、たゑさんも引き下がるしかなかったのです。たゑさんは孫の悟だけにはどこまでも甘く、なんでも云うことをきいていましたから。このときの口惜しそうなたゑさんの顔を今でもはっきりと憶えています。

小鳥は私が責任をもって世話することになりました。
私はその透き通るような青い鳥を「瑠璃いろ」からとってルリと名づけました。青い鳥といっても、ルリは一般に流通しているセキセイインコです。インコの特徴である頭部から背中にかけての黒い縞模様も翼のさざなみ模様もきれいに抜けて、頭部と嘴のほかは青一色に統一されていたので、品種はオパーリンだったと思われます。見たところ、一歳から二歳程度で、よく人に懐いていましたので、雛から飼育されていたインコが、何らかの理由で逃げてしまい、偶々私たちの家に舞い込んできたのでしょう。名目としてインコの飼育は「元の飼い主が見つかるまで」という限定がついていましたが、ミレニアム当時の広川町のこの家にはインターネット環境はなく、せいぜい近所に訊いて回るか学校で告知する程度のことしかできることはなかったので、飼い主が見つかる可能性はいちじるしく乏しく、事実上ルリは私たちの家に嫁入りするに等しかったのでした。

私の生活は一変しました。より正確には、私の内面に大きな変化が生じたというべきです。たゑさんの私へのいやがらせは依然として継続し、ひいてはいっそう厳しさを増していきましたが、私のこころがへこたれることはなくなりました。これまでは自己評価を低くすることで、酷い仕打ちにもなんかとか耐えてきましたが、そうした消極的な防衛手段を放棄して、あまりに理不尽な処遇には毅然とした態度で歯向かうようになったのです。たゑさんは急に反抗的になった私に、はらわたを煮えくりかえしながらも多少たじろいでいる節さえ見受けられました。それもこれもルリをお迎えしてから変わったのです。

おおよそ人がペットを飼う目的は、安らぎや癒しを得ることにあるようです。それはもちろんですが、ペットは人間のストレス解消や癒し効果をあたえる以上の存在に、さらにはよくいわれるような伴侶動物(コンパニオンアニマル)以上の存在にさえなりうると思うのです。
あるいは、ペットは飼い主の胸の奥の傷口を治癒する対象に、もっといえば、私たちのこころの奥底にぽっかりと口開く髑髏の眼窩のような暗い穴を埋めるイコンにもなりうるのかもしれません。例えば古代エジプトにおいて、人と生活を共にしてきた犬や猫が人々を災厄から庇護する神として、もしくは晏駕した王族の墓を護る半人半獣として崇拝されてきた事実からもこのことは窺い知ることができます。往々にして、ペットは人間の伴侶であることを越えて、ある種の信仰の対象にさえなりうるのではないでしょうか。
月並みの言を用いれば、ルリは私にとって幸福の象徴でした。
自己救済の一つの措置として、不運な運命にみまわれた人が、自己の内界に独自の「救いの神」ようなものを拵えることがありますが、もとより想像力と縁のない私は自己の裡に救いを求めるほど内界が富んでおらず、さりとて外界にもそれほどの神秘を発見するにはかなわかったので、あんばいよく私の前に現れたルリが、欠けたピースに収まるようにその役割を担った、といってもあながち間違いではありません。もちろんルリは何の変哲もない——けれどもひときわ美しい——セキセイインコに過ぎません。しかし、私にはルリが孤島に差向けられた救いの舟そのものに思われたのです。
私の手や肩の上で羽毛を浮き出させて首をかしげたり、嘴で羽繕いしている愛くるしいルリの仕種を見ていると、まっくらでなにもない荒涼とした私の内界に一縷の光がさしこみ、その一点だけがあたたかな陽だまりとなって、ぽかぽかとした灝気が陽炎のようにゆらめいているのです。
どんなに辛いことがあっても、私はルリが導いてくれるその避難所に引き篭ればよかったのです。
この至福のひとときにおいては、たゑさんの陰湿な仕打ちや学校での孤立も現実的とはいえない遠い昔のことのように感じられ、悩んだり苦しんだりしていることがことごとく莫迦々々しく思えてくるのでした。
それはひたにふしぎな感覚的体験でした。そこは私だけの隠遁処であって、ルリをのぞけば私はたった孑(ひと)りでありながら、すぐ傍に寄り添っている何か——私をすみずみまで包摂するとても大きくてなつかしい何ものかの存在を感じないわけにはいきませんでした。
けだし、私は母の記憶を、夜な夜な童話「青い鳥」を寝ものがたりにきかせてくれた母の記憶を無意識の底から蘇生させて反芻していたのかもしれません。

そうした私とルリの関係を幸枝さんはまるごと知悉しているようでした。
私がルリと戯れているところを慈愛にみちたいつもの半眼で見ては、
「杏ちゃんとルリは母娘(おやこ)みたいだねぇ」
と口癖のようにつくづく云っていました。
表向きは、世話をしてる私が母親でルリがその娘となりますが、幸枝さんは鋭い観察眼によって事実がまるっきりその反対であることを感知していたのでした。
とりもなおさず、こうして母の表徴(しるし)たるルリを得て、私は外界の加虐に対して対抗する劦(ちから)を持ったのです。

✳︎

それからもたゑさんの私への扱いは、ことに幸枝さんの目の届かないところでは相変わらず酷いものでしたが、すでに述べたとおり私が以前のようにへこたれず、時として抗うこともあったのでたゑさんとしては面白くないようでした。
私が歯向かうようになった原因が、私が大事にしているセキセイインコにあるらしいことをたゑさんも薄々気づいているようでしたが、こればかりはどうすることもできなかったのでしょう。

さて、季節はうつり年が明けました。
広川町の家に越してきてからはじめてのお正月を迎えることになったわけです。お正月といっても普段の生活と代わり映えのしないものでしたが、正月休みの幸枝さんが在宅しているだけでも私にとってはだいぶ気が楽ではありました。幸枝さんの前ではたゑさんは私に一切干渉してこないからです。実際お正月中はたゑさんは悟にべったり付きっきりで、私など存在していないかのように振る舞っていました。

あれは一月二日の午前中のことだったと記憶しています。私が二階の部屋で冬休みの宿題をしていると、階下で悟の泣きたてる声がしました。なにごとかと下りてみると、幸枝さんに悟が泣きながら口角泡を飛ばしています。幸枝さんは名刺大の和柄模様の袋を持っています。一目でお年玉のポチ袋だと知れました。
この日、たゑさんと悟は日の出前の暗いうちから出かけたはずです。前日、唐突に悟が「田原の海霧」が見たいと云いだしので、二人は暁やみの路をタクシーを走らせて田原海岸まで出向いたのです。「田原の海霧」とは例年一月から二月にかけて東牟婁郡串本町の田原海岸に現出する霧のことです。残念ながら私は見たことはありませんが、海霧から昇る朝暉はことのほか神秘的であるらしく、その雄大な景観は南紀を代表する風物詩となっています。悟は学校でクラスメートに「田原の海霧」を知らないことをばかにされ、そのことが悔してたまらず、たゑさんに無理を強いてまだ暗い残夜のうちに二人で出かけて行ったわけです。もっとも運よく条件がそろわなければ発生しない自然現象でありますから、わざわざ暗いうちから出かけた甲斐もむなしく、悟はお目当ての海霧を拝むことはかなわかったようです。
ともあれ、二人が帰ってきたところ、幸枝さんは浮かれ顔の悟をよびとめ、お年玉を出すように促しました。そらとぼける悟に幸枝さんはジャンパーのポケットに窩(かく)していたポチ袋をすばやく取り出したのでした。
海霧を見に出かけているときに、二人だけの機会を利用して、たゑさんは悟にたいそうな金額のお年玉を渡したのです。孫にお年玉をあげること自体は何も問題はありませんが、悟にめっぽう甘いたゑさんは小学生一年生にはふさわしからぬ大金をあたえかねません。そうでなくても、去年のクリスマスに新しいゲーム機とゲームソフトを買いあたえたばかりだったので、あらかじめ幸枝さんはたゑさんにお年玉は差し控えるか、あげるにしても軽いお小遣い程度にするように説き伏せていたのでした。
大金の入ったお年玉を袋ごと取り上げられた悟が泣きながら抗議したのはもちろんです。私が階下に下りてきたのがちょうどそのタイミングだったわけです。
悟は幸枝さんの豊かな腰にしがみついてしきりに喚いています。まるで豪的な大樹の幹に擁しておめくをめく貧相な小猿のようです。
しかたなしに幸枝さんは懐をまさぐり、ブロックチェック柄のガマ口から千円札を一枚出して悟に渡しました。お年玉の代わりのお小遣いというわけです。が、悟はそれには見向きもせず、泣き声に拍車がかかるばかりです。たゑさんもお年玉を取り上げた幸枝さんを責めながらも、悟をなだめにかかりましたが、「返せ、返せ」の一点張りで埒があきません。しばらく切れ長の細目で悟を見下ろしていた幸枝さんは、なんともいえない表情で悟についてくるように云いました。悟は幸枝さんに密着したまま、連行されるようにしたがっていきます。なんとはなしに、私も二人の後をついていきました。

幸枝さんの部屋は一階の一角にある、南に窓を展けた十畳ほどの和室です。本来の幸枝さんの部屋は二階の一室でしたが、そこを私と悟に譲り、私たちが東京から引越してくる前まで物置部屋として使用していた一階のこの和室が現在の幸枝さんの閨になっていました。
幸枝さんと悟につづいて、私はその和室に入りました。私はこれまでほとんどこの部屋に入ったことがありませんでした。はっきりとした理由があるわけではありませんが、なんとなく遠慮されたのでした。入ってみると、全く部屋のテイストに合っていないガラス天板の北欧風のかわいらしいセンターテーブルとキャスター付きの総桐箪笥のほかは、なにもない質素な部屋です。部屋の隅に三つ折りに布団がたたんでありました。
部屋は綺麗に掃除が行き届いているにもかかわらず、まるで病室のような湿っぽい陰鬱な濛気がたちこめている感じがしました。久しく物置部屋としてつかっていて、何年も閉め切っていたためでしょう。
幸枝さんは赤朽葉に煤けた片開きの襖に手をかけました。襖を開けると、壁を上手にくり抜いたようなA1サイズの縦長の押し入れに、ヴィンテージ調のローチェストが収まっていました。チェストは三段になっており、幸枝さんは一段目の抽斗から何かを取り出して悟に見せました。それは銀行通帳でした。通帳には店番と口座番号のほかに「M野 悟 様」とビットマップフォントで刻印されています。幸枝さんは通帳を開きました。何桁もの数字が並んでいます。幸枝さんは通帳の数字を見せながら、こうしてお前のために貯金してある、お婆ちゃんからもらったお年玉もむげに取り上げるわけではなく、しっかりお母さんが預かってお前の将来のために貯金しておくからという意味のことを、こんこんとわかりやすく悟に云ってきかせました。しかし、年齢的にも精神的にもすこぶる幼い悟にそんなことがわかるはずありません。悟にからすれば、通帳に記載された金額はただの抽象的な数字にすぎず、漠然とした将来など吾事に非ずであります。いってみれば、飼い犬に今晩の餌を我慢するよう説くようなものです。
いっこうに泣きやまない悟に幸枝さんは細い目をうっすらひらいたかに見えました。とたんに悟はおびえた小動物のように体をビクつかせ、駆けだしました。
「おばあちゃーん」
何に対して悟が怯んだのかわかりませんが、たゑさんに助けを邀(もと)めて脱兎のごとく部屋を出ていきました。幸枝さんは通帳を手にしたまま、沈痛なおももちで無言のまま悟を追って部屋を後にしました。
・・・・・和室に取り残された私は、なにげなく押し入れに収まったローチェストに視線を向けました。一段目の抽斗は半ば開け放されたままです。ふと抽斗の前板にか細いすり傷のような文字が彫ってあるのに気づきました。仔細にみると「悟」と刻まれています。私は近づき爪先だちして半ば開いた抽斗の中を覘きこみました。仄暗い抽斗の中は名刺入れほどの大きさのきれいな桐の箱があり、天面には「壽」の字がきらびやかな金箔でほどこされいます。当時はそれが何なのかわかりませんでしたが、いまおもえば悟の臍の緒入れだったのでしょう。その他にも印鑑やアルバムやノート類などがあったように思います。つまり、悟の通帳や印鑑のほか、悟にまつわるさまざまな思い出の品が一段目の抽斗には大切に蔵(しま)われていたのです。
しかし私の注意はすぐにそこから逸れました。チェストの二段目に目をひかれたからです。二段目の前板には、あやまたず私の名が彫られていたのでした。走書きのようにぞんざいに刻まれた一段目の「悟」と対照的に、二段目の前板のすみっこの「杏」という私の名は、あたかも美しい象形文字のように謎めいてみえました。
私は薄く刻まれた自分の名にいいようのない感銘をおぼえました。このときのこころの揺さぶりを十全にいいあらわすための的確な言葉が思いつきません。
その抽斗の中に何が蔵われているのかはともかく、幸枝さんが実の息子の悟と同じく私にも秘蔵の場を設けていてくれたこと——そのことはもちろん純粋に私をよろこばせました。けれどもこのときの感情は幸枝さんに対しての感謝の念とは全然別種のものでした。突飛ないいかたをすれば、解読不能な古代の暗号をまのあたりにしたようなふしぎな感覚をおぼえたのです。それはまさに「神秘」としか表現できないふしぎな感覚でした。
思わず私の手は二段目の抽斗の把手をにぎっていました。いきおい私は厄除け御守の中の内符をのぞき見するような心境で把手をゆっくりとひいていきました。ふいに他人の宅の玄関先などで香るなじみのない独特の匂いが、どこからともなくながれてくるように感じました。
そのとき嶽のような大きな影がさしました。私はふりさけみるように振り向きました。
背後に立っていたのは幸枝さんでした。幸枝さんは針金のように細い目で私を瞰(み)ながら、口辺にいつものひそやかな笑みをうかべていました。春さきに薄氷の下に透かし見えるうららかな細波(さざなみ)のような微笑です。いいかえれば「古拙の微笑」(アルカイックスマイル)、止利様式の仏像がたたえる、ほのかで、やさしい、枯淡な微笑。ふと幸枝さんはずっと前からそこに立っていて、私の一挙一動をみまもっていたのではないかという考えがひらめきました。おだやかな頬笑みをうかべながら。
いつのまにか把手をにぎる私のちいさな拳は岩塊のような大きな手におおわれていました。ごつごつした見かけに反して幸枝さんの手はとてもなめらかで温かく、まるで全身がやわらかな羽毛でつつまれたような心地よさと安堵を感じました。開きかけた二段目の抽斗は緩慢にとじられました。幸枝さんの大きな手に促されたのか、あるいは私自身の意志であったのか判然としません。とかく神秘はあばかれることなく、しずかな音をたてて抽斗はとじられたのでした。
「ここは、もしものときのために」
そうきこえた気がしました。幸枝さんが呟いたのでしょう。私の空耳でなければ。しかしうまく説明できませんが、幸枝さんではないなにものかが私にそっと囁いたように思われたのです。
幸枝さんは私の手を離すと、別の手で持っていた悟の銀行手帳を半ば開きっぱなしの一段目の抽斗にしまって、勢いをつけてしめました。パタンとかわいた音がひときわ大きく響きました。それからいつものやさしげな半眼で私を見据えつつ、引きむすんだ薄桃いろの唇からはじめて白亜のような皓(しろ)い歯をこぼしました。
「お腹すいたろ? お雑煮があるよ」

続く

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