映画 『精神』

個人的には、精神障害者も健常者も変わらない、と言ってしまいたい。
だが、それを主張するには峻厳すぎる社会の、視覚化された対応の差異が、偏見という形で存在している。

そもそも健常者と障害者の境界は非常にあいまいである。
健常者といわれる人々においても、本当に健常である人などどこにもいないのだから。
しかし、現に健常者と精神病患者の区分けはどこかでなされている。
その境があるとするなら、それは視覚化され際立った差別的な対応をなされる者かなされない者かという部分にあるのだと思う。
それは個性に根ざしたものだが、つまりはそれぞれの個性を許容できない、排他しようとする人間の性質に、障害者と健常者を分かつ根源があるのだ。
その現実を度外視して、健常者と障害者の境界などない、といってしまうことは僕にはできない。

逆説的に言えば、偏見から障害を抱えている人たちの尊厳を守るためにその区別はあるのだとも言える。
僕は高校時代に障害の真似をされ続けた。当時は自分が障害であると知らなかった。真似をした輩も、当然知らない。
大学に入り、自分が障害であると知って考えた。はたして真似をした彼らが僕が障害であると知っていたなら、同じ行為をしたであろうか?ということである。それでも真似をし続ける人間も当然いただろう。しかし、障害者という区分けが、真似をされるということの幾分かの抑止力にはなり得たかもしれない。
それは、健常者の意識の中に障害者に対する憐憫や罪悪感といった新たな偏見を加えるがゆえに起こることで問題の解決には全然ならないのだが、人間の良心を信じるとするのなら、幾許かの無意識の差別を抑止する可能性はある。

障害を負った人々は、障害ゆえに劣等を感じるのではないと思う。
苦しみの大部分は、障害ゆえに際立った個性がさらされる、社会の差別的対応に劣等の念を抱き、孤独を深めるのだ。
そしてそれがそのまま、自己の障害を嫌悪する自己否定という偏見へと繋がっていく。

障害者が、自らの障害に対する健常者とのカーテン(偏見)を取り除くには、概念だけではなく実際にその社会の対応と戦っていくだけの強さが求められる。

障害の日々との格闘に加えて、さらに世間との偏見、自己のうちに抱える偏見とも戦わなければならない。それはあまりにも過酷な作業である。
一方健常者は、悪い言葉を使えばあくまで他人事である。
本人も当事者となり得ない限りその切実さを罹患者と同様に感じることのできるものなどなかなかいないのかもしれない。

患者の一人が綴った詩が印象的だ。
「何でこんなに息が詰まるのだろう。何でこんなに生き辛いのだろう。それは結局、自分で自分を裁いてしまってるからなんだろう」

障害者が自己を裁くにいたるほどに尊厳を毀損せしめたのは何なのかを我々は考えなければならない。

個性に対する無自覚の差別は、それに気付かない限り修正はできない、しかし、障害者に対して差別をする場合は、意識下にある。
障害者は、一人の人間として自信を持ち、尊厳を見出すために社会と、偏見の目と戦い、そして自分自身の中にもある障害への偏見を取り除く努力をしなければならない。
健常者は、その気持ちを汲み取り、彼らの人生、心の闇に耳を傾けることが必要だ。
お互いが歩み寄る努力をすることで、完全にではなくても健常者と障害者という枠組みをいくらかは外すことができると思う。
さらに理想をいうなら、健常者も障害者も含めて、個性に対する無自覚の差別、偏見に対しても気付き修正していく努力をしていくべだろう。

山本医師含む、こらーる岡山診療所で働くような人たちは、その希望の具現である。彼らのような健常者がいることが、たくさんの精神病罹患者にとって、まだ人間を信じることへの礎となるなるのだ。

この映画には一切モザイクがかけられていない。
そもそもモザイクをかけること自体、精神病患者を精神病患者たらしめる偏見でしかない。
精神的障害であることは彼らの尊厳を幾許も毀損させるようなものではない。彼らの苦しみ、人生もまた彼らが自信を持って示せる人間としての証なのだ。

「背負う十字架が重すぎて、たくさんの人に支えられながら生きている」

人はみな十字架を背負う。
人に十字架を背負わせたのが我々人間であっても、その十字架を背負った者を支えるのもまた我々人間なのだ。

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