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人間関係にキャラは必要か。

こういう逸話がある。
ある病院に行ってうつ病と診断された患者に、医者が、「○○というお笑い芸人のテレビを見なさい、元気が出ますから」。
すると患者が、「先生、その○○が私なんです」・・・。

さて、お笑いはプロが人を笑わせるために作られた職人芸なわけで、当然そこには役割分担があってしかるべきだし、いわばお笑い官僚制とでもいうか、笑わせることにきわめて合理的な役割配分がなされているわけだけれど、これはいわば職業として作りこまれた人格。だから、当然、その日の気分で、キャラを変えることは許されない。それは、職場放棄を意味するからである。だから、ストレスもかかり、最初に述べたようなエピソードも生まれてきたりするわけだ。

だが、当然職業ではない筈の私的人間関係の場においても、キャラというものが存在する。いじられ役、いじり役、盛り上げ役、突っ込み役。そしてこのキャラというものが、人間関係というものを窮屈にしている。キャラが一旦固定されると、相手は対象人物をそのキャラと認識をした対応をしてくる。もし、対象とされた人物がそのキャラ設定が不本意なものでも、まわりの期待に添わずして、違うキャラになったりすると、まわりは、「何だこいつ?」と興ざめしてしまったり腹を立てたりする。でも腹を立てることのほうがお門違いなのであるが。
そもそも人間は一つの人格のみ持ちうるわけではないのに、一つの人格を貫くことを強いられる中で、私的人間関係までもが職業的になり官僚化していっている。飲み会でいつも盛り上げる人がおとなしいと、みんな「どうした?」といい、いつもいじられている相手が、反発していじり返したら、場をわきまえない奴、みたいになってみんな憤慨する。
人間関係の中でもキャラの役を期待され、役を演じつづけないと人間関係を保てないのであれば、この世で自分でいられる場所はどこにもなくなってしまう。

僕は、高校三年のときに半年間強迫の真似を半分の男子にされ、その中には、僕が友達だと思っていた人間もいた、後年あって、そのときの僕の心境を述べたところ、相手はさも意外な顔をしながら、「あれはお前のキャラだろう?」といってきた。
僕がいつそんなキャラを望んだだろう?あれは迫害以外の何ものでもない。
高校を卒業をしようとしている年齢の人間の集団が、何の疑いもなく、恣意的なキャラ付けをおこない、その行為に疑いの念ももたない。キャラ付けは、人間関係を窮屈にするだけならまだしも、時として、人間の心をもズタズタにするのだ。

人間は多面的な生き物である。
お笑い芸人は、客にわかりやすく見せるために、人間の一面ずつを切りとって役割分担し、誇張して見せているのである。お笑い芸人のキャラは現実の人間のほんの一面を写し取った鏡に過ぎない。
だから、画面の中で「ヨゴレ」を演じているお笑いタレントは、それはいわば職業上の顔であり、私的生活において、その人物が「ヨゴレ」であるとか、気持ち悪いなどということはないのである。

私的人間関係にキャラ付けが必要なのかよく考えてみなければならない。

もちろん、キャラ付けも柔軟性を持つならばけしてあってはならないものではないとは思っている。だが、キャラ付けはいってみれば、その人物にフィルターをかけてしまうことなので、相手を見る時に枠を設けてしまう。
その人の違う面を考える視野を除外して狭量になってしまう危険性があることを認識した上で、キャラ付けを行うのであれば、そうしたコントロールや判別ができる人がキャラを自分や相手に冠することはむしろ社会の営みの中の技術としては有用になりえるのだと思う。
ただ、それはとても難しいことである。

あの人は、ある時は場を盛り上げ、ある時は落ち着いている。あの人は人をいじるときもあればいじられるときもある。その時々によって人は様々な面をもつ。相手をキャラ付けして見なければ、どんな面をその人が出しても、その人として受け入れることができるはずだ。


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