私が学童運営に情熱を注ぐ理由
こんにちは、理事長の青柳です
理事長になってからというもの、いろいろな方とお話する機会が増えました。今日は、なぜ私が学童運営に力を入れるか?をお話していこうと思います。
最初はお気楽に考えていました
理事長オファーは帰りがけ
私自身、学童保育を利用するいち保護者です。理事長のオファーがあったのはいつだったか忘れましたが、覚えているのは子どもの迎えの帰りがけに「青柳さん、次期理事長になりません?」と軽く声をかけられたのがきっかけでした 笑
引き受けたのは割と時間があったから
ちょうどコロナでリモートワーク中心の生活になった頃です。コロナではいろいろな影響を受けた方がいらっしゃると思いますが、私の場合は単純に通勤時間がゼロになった感じで、随分時間ができました。
そんな感じで暇していた時期だったので、「あ、いいですよ」という感じで割と軽く受けてしまいました。
北本学童保育の素晴らしさを再認識
昔ながらの北本市学童保育
以前は、自分の子どもを通わせているにもかかわらず、学童についてきちんと調べたり考えたりすることなど殆どありませんでした。
ただ、なんとなく北本市の公立保育所に似た感じはあるなとは思っていました。(実際、どちらも元々はさくらさくらんぼ保育がベースになっているようです。)支援員と一緒に遊んだり、お昼づくりをしたり、手作りおやつを食べたり。こういったことは全国どこの学童でも普通のことだと思っていました。
今となっては珍しい北本市学童保育
実は、現在はこういった昔ながらの学童は減ってきているようです。最近のは、支援員と子どもが積極的に関わらない学童が増えてきているようです。基本的に支援員は遠巻きに子どもたちを見ていて、喧嘩などがあった場合だけ仲裁にはいるといった感じの関わり方です。
一般的にどちらが良いとは言えませんが、我が子を預けるなら、支援員が子どもたちと積極的に関わるうさぎっ子学童にしたいと思いました。
自分が子供の頃に学童があれば・・・
今で言うところの「小1の壁」
私自身は北本市出身ではありません。そして、私が子供の頃は学童保育というものはありませんでした。
私が子供の頃、生活は決して楽ではなかったので、母親はパートをしていました。保育園の頃は保育所が夕方遅くまで面倒を見てくれたため、比較的遅くまで働くことができていました。
しかし、私が小学校に上がるタイミングでパート先を変えざるを得ませんでした。子どもを預けるところがなかったので、早上がりできる仕事を探すしかなかったのです。
仕事を変えざるを得なかった母親
新しい仕事場は食品関係工場でしたが、なかなか過酷な環境でした。夏はプレハブの工場で扇風機しかない中で仕事をしていたようです。また、醤油やソースに直接手を入れる作業もあり、母親の手は年中醤油やソースの匂いがしました。
そういった環境で働く母親は、耳は難聴になり、手は腱鞘炎やあかぎれが絶えませんでした。文字通り身を削りながら働いて私を育ててくれました。
もちろん、仕事をすれば色々あるとは思います。しかし、当時学童保育が整備されていれば、決して体力的に強かったわけではない母親が、過酷な工場労働をするという選択はしなくてよかったのではないかと思います。
親御さんが安心して働きに出られる環境を作るのが我々の使命
理事長になってから母親の経験を思い出しました。そして、私が学童保育の理事長になったのは偶然ではないと思うようになりました。
大袈裟ですが、「働かなければならない親御さんたちが、自分の母親と同じような境遇にならないようにするのが自分の使命」と思うようになりました。
そういったわけで、これからも学童運営頑張っていきたいと思います!