思いがけず始まった犬とヘッドホンとの同居
犬と同居するリスニングルーム
唐突な話で恐縮だが、わが家に家族が増えた。といっても、当年取って17歳の老犬だ。ちょっと可哀想なやつで、これまで2人の飼い主から手放され、わが家へやってきた。もちろん、先代2人にはそれぞれ事情があるため、一概に責めることは適当ではないが、少なくともこの犬には何の罪もない。私は少年時分に実家が犬を飼っていて、まぁそれなりに犬との付き合い方も心得ているから、妻の反対を押し切って、それじゃうちで面倒を見るよ、と大見得を切ってしまい、それでわが家へやってきた、という次第である。
片付けが大の苦手な私が一念発起し、雑然たる物置スペースとなってしまっていたリビングルームのダイニング・テーブルを撤去して、居住スペースとトイレが別室となった大ぶりのケージを据え、用意万端のつもりで老犬を迎えたら、まぁそんなケージなど見向きもせず、彼は今もわが仕事机のすぐ隣で寝息を立てている。
仕方なくヘッドホン試聴環境を構築
困ったのは、仕事用のリスニングルームがリビングを兼ねていることで、試しに普段試聴する音量より15dBほど小さな音で音楽をかけてみたら、犬はすっ飛んで扉の向こうへ逃げてしまった。いやはや、これでは全く仕事にならない。
そこで、甚だ泥縄的ではあるが、ヘッドホンを調達することとした。とはいっても、わが懐具合では大した製品が購入できるわけもなく、せめて5月発売のオーディオアクセサリー誌で試聴する分だけでも間に合わせなければと、オーディオテクニカに試聴機の貸し出しを打診してみることに。
まさかのフラッグシップ機がやってきた!
そうしたら「ATH-ADX5000なら空いてますが」と連絡をもらった。ええっ、ADX5000!? ご存じの通り、同社ヘッドホン全体の中でも輝けるフラッグシップで、群を抜く音質と存在感を持つ逸品である。
こういう間に合わせ的用途へ対応してもらうには、あまりにも分不相応なので躊躇したが、使わせてもらえるというなら、あれほど機器の音質差を判別しやすい製品もそうはない。オーディオテクニカの担当Kさんも「ぜひお使いになって下さい」と仰って下さっているし、というわけで三拝九拝しながら送ってもらった。
届いた段ボールの巨大さに仰天し、開けると箱が2段入れ子になっていて、ADX5000の特別さが伝わってくる。2つ目の箱を開けると、小旅行ならできそうなくらいの旅行カバン的なケースが出てきて、その中にADX5000は厳かに収まっている。根がガサツで何でも実用品として手荒に使ってしまう私には、本当に過ぎたる製品である。
ここでATH-ADX5000の素性について、改めておさらいしておこう。本機はオープンエア型のヘッドホンで、ドライバーユニットはバッフルと一体成型され、大口径φ58mmの振動板はタングステン・コーティングが施されている。タングステンはグラム当たり銀とほぼ同じ価格の希少金属で、冶金に苦労するほど硬いことで知られる。
磁気回路はポールピースとヨークに感度が高く磁気飽和しにくいパーメンジュール素材を採用、同社は高級MCカートリッジの磁気回路にも同素材を用いているが、この大きさでこのプレミアムな素材が使われることは稀であろう。
この大口径ドライバーで、特殊な2ウェイ構成などではないにもかかわらず、再生周波数帯域は5Hz~50kHzととてつもなくワイドで、出力音圧レベルも100dB/mWとかなり高い。ただし、インピーダンスが420Ωと高いので、しっかりしたヘッドホンアンプを整えてやらねば、音量を稼ぐことが難しい。
第一歩としてアキュフェーズのプリへ接続
ところが、日頃スピーカーばかり使っているわが家には、適当なヘッドホンアンプが存在しない。そもそも、ヘッドホン・アウトを備えている製品がアキュフェーズのプリアンプC-2300とアムレックの小型PWMパワーアンプAL-502Hしかないのだ。AL-502HはC-2300のレックアウトから音楽信号を引っ張り出しているのだし、ここで使える端子はもう自動的にC-2300のヘッドホン回路しかない、ということになる。
というような次第で、C-2300のヘッドホンアンプへ挿入して音を聴く。プラグもジャックもφ6.3のいわゆる標準ステレオ型だから、アダプターなしでつながるのはありがたい。
ハイインピーダンス型ヘッドホンに対して、C-2300の対応力はどうかというと、幸い全く問題はない。C-2300というか、アキュフェーズのプリアンプにはゲインの切り替えがあって、普段リファレンスのバックロードホーン(BH)を鳴らしている12dBでは、さすがに少々ボリュームノブを大きく回さねばならないが、24dBに合わせれば、9時頃のボリューム位置でも十分にクラシックを鳴らすことができる。ポップスならもっと低いボリューム位置で十分だ。
何という品位と解像度、レンジも両端へ広い
まずオーケストラから聴いた。もちろんスピーカーと違って後頭部へ音像は定位するが、それでも音像の定位は実にしっかりとしていて、オケの楽員1人ずつを分離するような解像度を発揮しつつ、神経質さ、耳へ襲いかかってくるような野蛮さを微塵も聴かせないのがADX5000の持ち味だ。
音場は広く深く、照明がやや明るくなったような感じはあるが、ハイ上がりにしてそれを演出しているようなそぶりは全くない。半世紀以上前の名演奏・優秀録音を、本機はまるで今ここに魂が吹き込まれたかのような瑞々しさ、勢いで描き出す。オープンエア型ゆえか、低域のみほんの僅かにダラ下がりの感もあるが、それとて普段聴いているBHの低域がやや豊かな方向だから、そう聴こえるというに過ぎないのかもしれない。
オープンならではの解放感とらしからぬ量感
ジャズは、リファレンス・ソフトがもともと大変瑞々しく潤いのある録音だからということもあるが、それにしてもこの明け方の空気を思わせるしっとりと清新な響きはどうだ。ピアノは艶やかでよく響き、鍵盤に込められた1音ずつの強弱、抑揚が手に取るように分かる。ウッドベースはよく弾み開放的で軽やか、これはオープンエアでなければ味わうことのできない質感であろう。ドラムスはアタックをピシリと決めつつ余分な輪郭をつけず、パワフルかつ爽やかな鳴りっぷりに痺れる。
モニター的な描き分けと巧みな情感表現
ポップスは、音の成分に時々刻々とどういうエフェクトがかけられているのかが手に取るように分かる。私のフルレンジ自作スピーカーも、声の質感はかなり克明に出すと自負しているのだが、ADX5000が相手では少々分が悪い。情感を巧みに伝えつつ、ボリュームを上げても声が耳に刺さらないのだ。一体どうやったらこんな音が実現できるのか、日曜スピーカー製作者には見当もつかない。
アキュフェーズのヘッドホンアウトにも感服
今更ながらに感じ入ったのは、アキュフェーズ製プリアンプのヘッドホン段である。パラレル・プッシュプル出力段で左右独立の基板を持つ、本当にしっかり作られたヘッドホンアンプであった。
昔はプリアンプにフォノイコライザーが標準装備されていたし、その大半は非常に凝ったMM/MC対応を有していた。それが、今となってはフォノイコは単体アンプで賄うことが普通で、一部のプリメインを除けば内蔵されることはほとんどなくなった。
ならば、アナログ全盛期のプリに内蔵されていたフォノイコは間に合わせだったのかといえば、全くそんなことはない。むしろ、フォノイコにこそ全身全霊を注いだ製品が多かったものだ。
アキュフェーズのヘッドホンアンプ段も同様、内蔵品だからといって即ち侮ってよいというものではない、ということは明らかである。
ともあれ、これにて何とかアナログ周りやアクセサリー類の試聴がほとんど可能になった。既に試聴でガンガン使っているが、機器やアクセサリーによる音の違いが分かりやすく、さらに試聴が終わったらそのまま音楽を聴き続けたくなる。懐具合と合わないことを除けば、人生の相棒へ迎えたくなるヘッドホンである。
「しばらく使ってていいですよ」とオーディオテクニカKさんはおっしゃるが、もう早くも返却する日に恐怖を覚えつつある昨今である。
■試聴に使ったソフト
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