「祖父の死んだ日に階段を上って来たものは」
あらすじ:
今からもう50年以上も前のこと。私が小学校6年生の時に祖父は亡くなった。2年生の時までは一緒に暮らしていた祖父からはいろんなことを教えてもらい、いろんなところに連れて行ってもらった。そして一緒に遊んでくれた。そしていろんなところで遊ばせてくれた。
北海道の積丹町に生まれ岩内町で育った私が、海に山に遊び、周辺の町であるニセコ町なども含め、今でも強烈な印象に残る思い出の場所には必ず祖父の姿が一緒にあったのだ。積丹ブルーの海への道も、パウダースノーの比羅夫へとスキーを担いでいった時も一緒にいたのは祖父だった。
これは、わたしと祖父とのフィールドオブドリームズ!!
「祖父の死んだ日に階段を上って来たものは」
~祖父と私のフィールドオブドリームズ~
作:北 道生
「学校にいる間に連絡が来るかもしれない。」
今朝登校前に父からそう言われていたので落ち着かない授業を受けていた。担任からすぐ帰宅するように告げられたのは午後の授業中のことだった。
「ついに、本当にこの時が来てしまった」
急いで家に戻り、姉と父と三人でタクシーに飛び乗り積丹へと向かった。
祖父が亡くなったのは今からもう50年以上も前、小学校6年生の初夏のことだった。
この町から祖父の住んでいた海岸沿いの町までタクシーをとばすとなるとどのくらいの料金になったのだろうか。当時タクシーに乗ることは珍しかった(私の家ではね)我が家にとってはかなりの出費だったに違いない。病院ではなく自宅で死ぬことを願った祖父のために、この町の病院で入院していた祖父に付き添っていた母は2日前から祖父の家に行っていた。親戚の人たちももう何人か集まっているはずだ。
祖父は6人兄妹の長男でただ一人の男であった。嫁いでいった妹たちも何人かの家族を伴ってやって来ているだろう。父も長男で跡取り息子なのだが跡を継ぐ何ものもなく、田舎まわりの公務員となってこの町に赴任していた。
僕はじいちゃん子だったから、小学校二年生まで一緒に暮らしていた祖父との思い出はたくさんあった。そしてそれは、今になってもけっして忘れることができない強い印象とともに私の心の中に存在している。
1「凧のセミ」
終戦を樺太で迎えたという祖父は、建築関係の仕事についていたらしく、手先が起用で何でも自分でこしらえてしまう。釣りの道具は全部祖父の手作り。ロッド、ガイド、仕掛け、鉛製の重り、魚籠、わらじ、そして釣り餌まで、すべてである。何から何まですべて祖父手作りの道具をもって、僕と祖父とは二人で何度も釣りに出かけた。
「ほらそこの岩と岩の間に深そうな穴があるべ、そこに落としてみろ」
言われるままに、途中で採って来たヤドカリやエラコを餌にして岩と岩の間に投餌してみる。すると、すぐに大物のアブラコやソイが掛かるのだ。家のすぐ横から磯に降りて一時間も釣り歩くと手製のびくの中には二人とも二けたに近い獲物が入っていた。
そして、祖父は凧を作るのも上手だった。そう、これも強く印象に残っている。
凧づくりは骨になる竹を割るところから始まる。川っぷちの藪から取ってきた太目の根曲がり竹を火にあぶったり、熱湯につけたりしてまずは真っ直ぐにする。縦に4分割ぐらいに裂いてゆくと平たい竹製のたこの骨が出来上がる。それを使って、四方と対角線という具合に骨組みを糸で組む。適当に湾曲させ張りを持たせてから、表面に障子紙か油紙をご飯粒でこしらえたのりを使って貼る。うまく貼れないところはその上から別の紙で補修して仕上げる。
乾燥してからはそれに絵を描く。絵も祖父が自分で描くのだ。武者絵、墨文字、龍、大漁旗のような模様などすべて筆を使って描いたものが多かった。そして、最後に糸目をつけて完成……とはならず、最後の仕上げには凧にうなりをつけるのだ。
凧を湾曲させるためには、裏側に3本の糸を張る。その一番上の糸に長方形の紙を二つ折りにしてはさむようにして貼り付ける。こうすると、空の上で風を受け、飛行機のラダーのようなその部分が振動して大きな音を出すのである。それはきっと草笛と同じ原理なのだろう。これを、うなりとか、せみと呼んでいた。
音としては、「ぶんぶん」とも、「びーんびーん」とでもいえば良いだろうか。かなり大きな音になる。家の中にいてもこの音で誰かが凧を揚げているとすぐにわかるので、その音が聞こえるとすぐに浜辺に飛び出して行くのが僕ら子どもの冬の習慣だった。
母は、嫁いで来た頃、「たこの音」と言われてずいぶんと頭を悩ませたのだそうだ。東北地方の山間部出身の母にとって、「たこが音を出す」と言われても海の中でうなっている八本足のタコしか思いつかなかったそうだ。ましてや「タコのせみ」などと言われたら全く想像できる範疇を越えていたらしい。
同じ東北地方でも、津軽の方では凧に同じようなうなりを付けて揚げるという話を聞いたことがある。住む所によって風俗や習慣の違いというのは大きいものなのだ。
縦1m、横60cmの四角い凧は力持ちだった。大きな湾になった砂浜の中央付近に積丹川が流れ込んでいて、そこに向かって吹き込んでいく冬の風は強烈に強く、凧は勢いよく揚がった。市販の凧糸などではとうてい持ちこたえられないため、私たちの凧を飛ばすためには荷造りに使う細引きが使われた。しっぽも奴凧のような紙では役に立たず、やはり細引きを使った。漁師をしている近所の大人たちが揚げていたもっと大きな凧になると、しっぽには荒縄が使われていたようだった。
積丹川に向かって吹き込む強烈な風を受け凧は高く遠くまで揚がった。凧のセミも元気よく甲高い音を発し、その音につられていつもの仲間が浜辺に姿を現した。私たちの冬の大きな楽しみであった。50mの糸をいっぱいに使って大空高く舞い上がる祖父の作った凧の姿は、その後いつまでも私の記憶に焼き付いている。
2「熊と間違えられた母」
なんでもこしらえてしまう祖父は熊が出たときのために畑の小屋に和弓を準備していた。そして、母はすんでのところで熊の代わりに弓の標的になるところだった。
祖父の家は海のすぐそばにあった。積丹川の河口が近く、家の裏には砂浜が広がっている。道路を挟んだ向かいはすぐに山が迫っていてこのあたりに耕地は全くない。半農半漁で暮らしている家が多く、船も持っているし、畑地や田圃も持っている。畑地は積丹川に架かる橋を越え、川沿いに広がるわずかな扇状地に集中していた。
私の家でも田圃とリンゴ畑とを持っていた。祖父がやっていたのだが、結構な広さがあって一人だけでまかなえるはずもなく、東北地方の農家出身だった母が手伝っていた。
このあたりは積丹岳から続く半島の先端で、北海道でも有数の羆の生息地でもあった(いや、最近でも同じらしい)。
祖父の畑でも秋になるとリンゴを食い荒らされたことがあった。林檎の木は折られ、大きな足跡が残されていた。そのため、祖父はいざ羆が出た時の為に畑の小屋に和弓を準備していた。これは手作りではなく市販の品で矢も10本くらい本式のものが用意されていた。そして笹竹を取ってきては矢の形にまっすぐにのばし、木の切り口を標的に祖父は何度も弓を射る練習をしたという。イザという時のためである。
農業に従事しているとリンゴ畑にしろ田圃にしろ、羆が出没する秋に畑で作業することが最も多くなる。祖父の畑は片側が山から続く丘陵地帯となり隣の畑と笹藪で仕切られている。反対側は積丹川の河原へと続き、その間はやはり笹藪が密生していた。
笹藪は羆の隠れ家であり(クマザサと言う位だから)羆の通り道となる。特に生息数が多い積丹川への方向は「ヒグマ」がどこに潜んでいてもおかしくはない。リンゴや梨や食料となるものがふんだんにあり、時期になると鮭も手に入る。羆にとっては格好の場所であったのだ。
もちろん、この畑や田圃から上がる利益だけで生活費が賄えていたわけではない。もうすでに還暦を過ぎていた祖父が、自分の楽しみ半分、実益半分と考えて自分の力で造り上げた。おそらく、そんな祖父にとっての楽園のような場所だったのだろう。
祖父にとってはそんな大切な畑も、小さかった孫の私には大好きな遊び場所だった。畑に行くといつも目にする海沿いの周辺では見られないものがたくさんあったのだ。
畑の入口近くにある小屋につくと、まず最初に行く場所は目の前にある小さな泉である。周囲1m四方くらいしかないこの泉は、底の砂地を盛り上げて一年中冷たい水を湧き出させていた。周囲にはヤチブキとセリが自生していて、泉から湧き出た水は小さな流れとなって積丹川の支流へとつながっていった。わずか幅1m程の流れであっても秋になるとここにまで鮭が上ってきたことがあった。
この泉の主は小さなザリガニだった。今では確認することはできないものの日本ザリガニであったろう。このザリガニはいつでも怒っていた。赤茶色の小さな体に、不釣り合いなほど大きな二つのはさみを持っていた。そのはさみをいつでも頭上に振りあげて、威嚇しながら後ろずさりしては泉の中の枯れ木や水草に隠れてしまう。この泉は水飲み場でもあるので一日に何度も顔を見るのだが、その度に同じ行動を繰り返す。一匹だけのいつも同じヤツだったと思うのだ。
こんなに小さな泉にもアメンボやゲンゴロウや小魚や川エビやタニシなど多くの生物たちが生活していた。その中でザリガニは間違いなくこの泉の主として存在していたようだ。
この泉とは別に田圃に水を引き入れるための流れや、積丹川の支流の一部が祖父の畑には流れ込んでいた。沼地となった場所もありそこには幹の太さもかなりになる立派なオンコの木(イチイの木)が立っていた。真っ赤に熟れたオンコの実は小さすぎて腹の足しにはならないが、甘い甘いおやつでもあった。祖父はその木の横に和弓用の的を設置してあった。
大きな丸太を輪切りにして標的らしく同心円が書かれてあり、真ん中は赤い円で塗りつぶしてあった。何度も何度も練習したらしく矢の跡がたくさんの穴をあけていた。刺さった矢を抜くときに折れてしまったらしく先端だけが標的の中に埋まっているものもあった。
和弓は小屋の中にしまわれていた。竹を細工した手作りの矢は小屋の入口にかけてあり、祖父と一緒に畑に行ったときには弓を射ることも教えてくれた。市販の矢には水鳥の矢羽根がついているが手作りの矢にはなかった。市販の矢を使うことは許してくれなかった。笹竹で作った矢羽根のない矢を真っ直ぐに飛ばすことは難しかった。
しかしながら、力の弱い子どもが射った矢でも威力は結構なもので丸太の標的にしっかりと突き刺さった。市販の矢であれば金属の鏃(やじり)がついているのだから、その威力はヒグマにも十分通用しそうな気がした。祖父はイザという場合に備え鏃付きの市販の矢を準備していたのだ。
母がヒグマと間違えられたのは、秋も深まり稲の刈り入れなども済み、冬支度が始まる頃だったそうだ。その年も林檎の木に少しだけ被害を受け、隣の畑にもヒグマが出没したとの話で祖父の警戒はますます強まっていた。夕暮れ近く、そろそろ帰宅の準備で農作業の片づけをしていた母は積丹川との境にある竹藪近くにいた。
太陽が西側の山の稜線にかかり、少しずつ明るさを失い始めた頃。草刈りの鎌を拾おうとしゃがんでいた母の左足をかすめて、鏃つきの市販の矢が地面に突き刺さった。驚いた母が後ろに跳び去り竹藪を背に立ち上がろうと前を向くと、祖父が二本目の矢を射ようと構えていたという。あわてて両手を振り大声で叫んで難を逃れた母は、その後しばらくは動けなかったという。
農作業の服装は地味な色である。頭には日よけをかねてつば広の農作業用の帽子をかぶる。それも無地で黒っぽかった。日暮れ近くの竹藪に動く黒っぽい物体を発見してしまった。近隣の畑でのクマの目撃情報が頭を占領していた祖父の目には、母の姿が恐れていたヒグマとしか映らなかったようだ。祖父が初めて放った鏃付きの矢が、ほんの少しずれていたならば、丸太にしっかりと突き刺さっていたあの矢よりももっと強烈に……もしかすると……。
祖父の和弓は結局実践で役立つことはなく、羆もちゃんと人の気配のない時に出没してくれた。祖父が病に倒れてからは誰も行くことのなくなった畑の小屋は雪の下敷きとなり、畑は原野に戻った。唯一その弓矢の威力を肌で感じることになった母は今、看病を続け祖父の病床にいるはずだ。
泉の主だったザリガニはあれからどうしているだろうか、ちゃんと世代交代を繰り返しているのだろうか。泉の湧水自体が消え失せてしまったという可能性もあるのだろうか。あの畑はまさしく祖父の造り上げた楽園だったのだが……。
3「石を拾いに行く~積丹ブルーの島武意海岸~」
祖父は本当に何でもできる人で、何から何まで自分でやってしまう。釣り竿やら凧やら私の遊び道具に始まって、畑での仕事のために寝泊まりする小屋まで建ててしまった。そして何をやってもうまかった。
そんな祖父の趣味の一つが石拾い。きれいになりそうな石や形の面白い石を拾ってきては加工したり磨いたりと手を尽くす。木で台座をこしらえ置物として飾るのである。小石ではない。大人の頭ほどの大きさがほとんどで、中には直径40㎝を越えるものもあった。
家の裏はすぐに海であるが、河口に近く砂浜が広がっている。河口と反対側に少し歩くと磯となるが、目的とする石はこのあたりでは見つからない。そこで石拾いはまず歩くことから始まる。
五歳になった頃から私は祖父に釣りや畑や山や、いろんなところに連れて行ってもらった。石拾いにも二度ほど連れて行ってもらったことがある。六十歳をとうに越えたであろう爺さんと孫の私がそれぞれリュックを背負って自宅を出発する。トンネルを五つ越え、海岸沿いの道を歩いていくと入舸に着く。積丹半島の左右に突き出た二つの岬。左側の方は神威岬と呼ばれ現在では遊歩道で先端まで行くことができる有名な観光地だ。そして今向かっているのは、その右側の方。積丹岬のある町だ。
入舸の町を通り過ぎ、山側へ少し入ったところから左に行くと積丹岬へと向かう登りになる。山頂の少し手前に広場があり左手には灯台と無線中継所がある。その広場から少し先に素堀のトンネルがあった。背の高かった祖父が少し頭を下げて通るほどの高さだった。電灯もなく水の滴るトンネルを抜けると切り立った崖である。
そこから見下ろすと見事な積丹ブルーが広がっている。そこは島武意海岸と呼ばれていた。現在の島武意海岸は観光名所となり、駐車場も広くトンネルも広くて明るい立派なものとなっている。積丹町を象徴する名所としてポスターでも人気の場所だ。
トンネル出口から海岸までの高さは50mもあるだろうか。そこに九十九折れの歩いて下りられそうな踏み跡があった。現在は遊歩道のような手すりのついたしっかりとした道がついている。祖父と五歳の私はリュックを背に踏み跡をたどった。雨で濡れていたりしたらとても危険で諦めなければならない場所だった。スキーで急斜面を斜滑降で左右に下りて行くように、ゆっくりゆっくりZ型をつなげて行くと小さな小屋が建っていた。
石垣に囲まれたニシン番屋のような建物で玉石原の海岸によくマッチしていた。その建物のあたりから波打ち際まで見事に丸い形をした石が重なり合って広がっていた。登り口に近い方には岩と呼んでいい大きさのもの、金魚鉢に入れていいほどのものは水ぎわに敷き詰められるようになって海中へと続いていた。
透き通った水は形容のしようもなく、海中の玉石は赤くそして緑色にきらめいていた。不思議なことに水から出されたカラフルな石たちは乾くに従って全くその色を失った。五歳の私が小さくてきれいな色をした金魚鉢用の石に夢中になっている内に、祖父は形の変わった石や所々に色のはいった石を拾い集めていた。背負ってきたリュックが大きくふくらんだ頃には昼食のおにぎりもなくなり、帰りの時間となる。
私の背中にはビー玉のような金魚鉢用のカラフルな石がたくさん入った。野球ボール大のものも何個かあり結構な重さとなった。祖父のリュックには大きな石が四つも五つも入っている。そのリュックを背負って、九十九折れの踏み跡をたどって50mの絶壁を上った。下りるときに感じた高さに対する恐怖はないものの、背中の重さは尋常ではなかった。
六十歳を越えた祖父のリュックはどれくらいの重さになっているのか。子ども一人を背負っているのと変わらないほどはありそうだ。休み休み長い時間をかけて頂上のトンネルまでたどり着く。振り返るとやはりそこには積丹ブルーの風景があった。私の積丹ブルーの原点はこの場所にあった。
家までの道のりは長かった。来た時と同じ海岸線を二人で黙々と歩いた。五つのトンネルを越え、堤防の上に腰を下ろしては水筒の水で渇きをいやした。遠くに自宅が見えてきた頃には限界に思えた体力も再び回復したかのように急ぎ足になっていた。
自宅の土間でリュックを開けてみると、金魚鉢用のビー玉達はすっかり色あせてしまっていた。真水で洗って金魚鉢に入れると再び積丹ブルーに浸っていたときの色を取り戻した。祖父は大きな石を部屋に持ち込みどこをどんなふうに細工するかの長考に入った。私の体力は限界となり夕食中に箸を落とし、眠気のためみそ汁に鼻をつっこんでしまうありさまだった。
次の日から、祖父は石を加工し下に流木から作った台座を敷き、床の間に飾るための作業を始めた。祖父にとってはそのことがひと月もふた月もの楽しみとなる。私は金魚鉢の中に入ってしまった石に興味はなくなり、次の日からは仲間との遊びに全力を尽くすことになるのだった。
島武意という地名はアイヌ語がもとになっているらしく、シュマ・ムイは箕の形をした石・石の入り江・石湾という意味であるという。シマモイとも言うらしく、私の故郷の人々も「シマモイ」に近い発音をしていたようだ。いずれにしても、石の湾には素敵な石が存在し、それを人々はちゃんと知っていたのだった。
その後も島武意海岸に行くことは多かった。そこは行くたびに姿を変え、歩きやすい歩道ができ、快適で明るいトンネルとなり、駐車スペースも徐々に広がっていった。今では、積丹という名前の次にはなくてはならない観光名所となってしまった。私たちだけで独占できないのは分かっていても、この場所は私の大切な場所として存在している。私の積丹ブルーは祖父との思い出とともにこの場所にある。
4「蒸気機関車でニセコまでスキーに行くんだ~比羅夫駅までスキーでGO!~」
祖父は泳ぐのが上手で、川の激流をなんでもないかのように泳ぎ渡ってしまう。海では潜ってツブ貝やらアワビやらヒル貝、カニそしてタコまで採ってくる人だった。冬になるとカンジキを履いて野山に入った。時にはスキーで山道を降りってくることもあったようだ。
私が小学生だった頃、岩内町にはまだ列車が走っていた。祖父と離れて暮らすようになって少しした頃、多分小学校の4年生の時のことだろう。正月を一緒に過ごすため、冬休み中にやって来ていた祖父と二人でニセコまでスキーに行くことになった。蒸気機関車がニセコまで走っていてそこからバスで比羅夫スキー場まで行った。祖父はもう七十に近い年齢だったはずだ。
積丹にいるころにはスキー場がないので、家の前にある山の斜面で形ばかりのスキーに興じるだけだった。岩内町に来てからは「観音山」と呼ばれていたスキー場があり、学校のスキー遠足でも長くて重いスキーを担いでそこまで歩いて行った。そして初めてのスキー授業を受けた。そこで少しながらスキーの操作を覚えた頃、祖父が「ニセコに行くぞ」と二人だけで列車に乗ったのだ。
廃止になる寸前の蒸気機関車に乗り、ニセコ駅で降りてからは比羅夫スキー場までバスに乗り換えた。このスキー場で初めてリフトに乗り、当時の比羅夫スキー場名物の「最後の壁」に慄いて斜滑降の連続をZ型に繰り返して何とか出発点まで戻って来た。そんな初めてのニセコデビューだった。友達に聞いたことのある「最後の壁」は1m以上もあるコブが連続する急斜面で、スキー授業で習った程度では太刀打ちできない場所だった。
そんな恐怖に満ちた場所を三回ほど降りてきたころにはもう午後の時間になり、祖父も結構な重労働だったようで、遅めの昼食をとった後で「ちょっと早いけど帰るべ」ということになった。が、バスがなかったのだ。ニセコ駅へも比羅夫駅へもあと二時間ほど待たなければバスは来ない時間だったのだ。
「しゃあねえな、じゃあ滑ってくぞ!」
そういう力強い声で祖父は比羅夫駅までスキーで降りると言い出したのだ。
なぜ祖父が比羅夫駅までの道を知っているのか。あの「最後の壁」もなんでも無いように越えられた祖父はどこでスキーをしていたのか。そんなことを聞くことはできないまま今日になってしまったが、七十歳に近い祖父は何でもないことのように、僕をリードして比羅夫駅までスキーで降りて来たのだ。
「あらー、スキーで降りて来たのかい。この時間バスないものな」
「道路の上だら、2mも雪積もってたべさ」
「やーや、今だったら、滅多にそんな人いないで!」
駅に着く手前で町の人達に驚かれたほどだったのだ。
噂の「最後の壁」を乗り越えたことより、比羅夫駅までスキーで降りてきたことの方が何倍も何十倍も思い出深いことだった。
5 大鵬の地方巡業 ~最初で最後の岩内場所~
小学校5年生の時、岩内町に大相撲の横綱大鵬が所属する部屋が地方巡業にやって来た。
祖父は大鵬の大ファンだった。大鵬だけでなく相撲自体のファンで相撲中継が始まる時間になると、新
聞の取り組み表を手に14インチ白黒テレビの前に正座してすべての対戦を見るのを大きな楽しみにしていた。
祖父から聞いた話では、戦後すぐに樺太から引き揚げてくるときに大鵬と船で一緒だったのだと言う。もちろんその時はまだ少年だった大鵬のことなど知ることもなく、ずっと後になってからわかったことに違いないのだけれども、稚内で下船し列車に乗って小樽までやって来たのも一緒だったらしいのだ。しかも、稚内で下船したその船は小樽まで行く途中の留萌沖で潜水艦に撃沈されてしまう。もしそのまま小樽まで乗船を続けていたら、祖父も大鵬一家も留萌沖の海の底だったかもしれないのだ。
しかも、祖父の家族も大鵬親子も、予定では小樽まで乗船するはずだったのだという。ところが船底に近い客室の揺れや環境の悪さから子供たちが体調を崩してしまったため、仕方なく稚内で下船しなければならなくなったのだという。そして大鵬親子も同じ事情から稚内で下船し、そこから列車に変えて小樽を目指したのだ。そのことを知って以来、祖父の大鵬への思い入れは更に深まったと言う。
相撲中継では大鵬の出身地を弟子屈とアナウンスされているが、実は樺太から引き揚げて最初にやって来たのは岩内町に住む母親の兄妹の家だったことから岩内の西小学校に転入したのだ。その縁から大鵬が所属する部屋は岩内町巡業にやって来た。その時、父が素早く動いて祖父の為にチケットを用意してあげたのだ。
岩内町の町営グラウンドでおこなわれた地方巡業の「岩内場所」は岩内町周辺の相撲ファンが大勢詰めかけて大盛況だった。間接的に少学校の後輩になったらしい僕らも、広いグラウンドのずっと後方から大騒ぎしながら「しょっきり」に登場した仲間たちを見て羨ましがっていた。
初めて実物の大鵬を見ることになった祖父は、珍しく大きな声を上げて見ず知らずの隣の客と一緒にはしゃいでいた。
その後大鵬は二度目の地方巡業「岩内場所」を行うことなく引退し、祖父はこの町の病院に入院することになった。この時が最初で最後になってしまった本物の大鵬の姿は、祖父の目には他の観客たちとは違った意味で強く焼き付いていたはずだった。そして僕も、その時以来あんなに活動的だった祖父の姿を見ることはなくなってしまったのだ。
6「祖父の死んだ日に階段を上って来たものは」
上半分が白く平らになった帽子をかぶったタクシー運転手は、一言も話すことなく、同じく無言の3人を乗せ、海岸線の細い道を祖父の待つ家へと向かった。積丹半島を一周できる道路が開通している現在と違って、岩内から余市、古平、美国というルートとなるため、車で1時間半はかかる。
祖父の家に着く直前には大きな川が流れ、私の住んでいた頃と違ってコンクリートになった永久橋が架かっている。夕日の時間にはまだ早いけれども太陽は水平線に近づいて来ていた。
川を渡る橋まで来た。もう数百メートルも走ると祖父の家に着く。左手に河口、その先に広がる穏やかな海が、傾きかけた陽光をうけてきらめいているのが見えた。父がこの時、時計に目をやり「4時16分か」と独り言を言った。と同時に、左手の河口付近から大きな光がパッと上がってきた。3人はそれに気づき、ほぼ同時に河口に目をやった。ほんの一瞬だったが、もう一度川面に光が走り、橋の下へと向かって消えた。何の光なのか分からないまま、3人は川面に目をやっていたが、すぐに橋を渡りきり、祖父の家の玄関前にタクシーは止まった。
この時にはもうコンクリート敷きになっていた玄関の土間に足を踏み入れると、私たち一家がここに住んでいる頃から頻繁に出入りしていたおばさん達(おばあさん達)がそろって顔をのぞかせた。
「遅かったよ!」
「たった今だったよ。」
臨終を確認した医師が「4時16分でした。」と父に伝えた。私と姉とは顔を見合わせた。それはちょうど、先ほど橋の上で父が時間をつぶやいた、まさにその時刻だった。そして、あの2回の閃光。まさにあの時祖父はなくなったのだった。その日は一日中穏やかな日だった。さっき橋の上で「4時16分」に3人でオレンジの光を見てしまったときも、河口から広がる日本海には波一つもない穏やかさで光を受けそして返していた。「4時16分」と父親が言ったその言葉が頭に強く焼き付いていた私と姉とは、この時、何かわからない別な世界に踏み込んでしまったようにも感じていた。
私は「爺ちゃんっ子」だった。おばさん達もその事をよく知っていて、「ほら、おまえが一番最初に顔を見せてあげなさい!」と、既に両手を胸の上に組み、目を閉じてしまった祖父の傍らに座らせた。「兄さん。孫が来たよ!」と、涙声のおばさんに促された私は、穏やかな顔で目を閉じてしまっていた祖父に(祖父の死に顔に)何も言うことができなかった。こんなに悲しいことが目の前にあっても、涙が出てくるわけでもなく、自分は冷たい心の持ち主なのかも知れないと思っていた。
通夜と葬儀の準備に、母とおばさん達は忙しく動き回った。近所の人たちはみな親戚のような付き合いで、誰彼となくやってきてはお悔やみを言い、葬儀の手伝いに加わった。私たち子どもは邪魔にしかならないので近所の家の二階に集まって、久しぶりにあった友達として近況を話したり、祖父の思い出話をして夜を明かすことになった。
「クボノオッカア」と呼ばれていた、祖父の親類にあたる人の家の二階には、私と姉を含めて子ども達が6人と私の父。そして、クボノオッカアと既に大人になっていたその息子達の、合わせて10人もが一部屋に集まっていた。初夏とは言え、8時を過ぎる頃には外の灯りもなくなり、人通りも全くない。イカやコウナゴの漁に出る船もなく、静かな夜がやって来ていた。
10畳ほどもある部屋にテーブルが1つ置かれ、お茶やおにぎり、お菓子につまみが載せられた。それぞれが思い出すままに話し、そこから派生して秘密のはずの話が全く秘密でなくなりながら、時間が流れる以上に話が流れてどこまでも広がっていった。
話が進むほどに、祖父は素晴らしすぎるほど素晴らしい人で、その息子である父は親不孝者のダメ人間になっていった。この場ではどうしても父がやり玉に挙げられるしかなく、そうすることで祖父の死は少しずつ少しずつその場の皆の胸に定着していった。時間はもう12時に近づいていただろう。
この家の中にいるのは、この部屋の10人だけで、下の部屋は電気が消され玄関の鍵も閉められていた。出入りはこの部屋のすぐ下にある裏口からするようになっていた。そろそろ子ども達が眠くなりはじめ、ちびりちびりと酒を飲んでいた大人達も酔いを感じてきた頃だった。
裏口の引き戸が静かに開く音がした。続いて階段をゆっくりと上がってくる足音が聞こえ、この部屋の前で止まり、音もなく襖が少しだけ開いて止まった。襖はほんの10センチくらい開いて……そのまま動くのを止めてしまった。
「トッチャン、もう寝に来たのが?」
と、クボノオッカアが襖の向こうに声をかけた。足の悪いクボノオッカアの代わりに祖父の家で葬儀の準備をしていた「トッチャン」が寝るために帰って来たと思ったのだ。
すぐに襖がひらいて「トッチャン」が入ってくるだろうと、10人の目はちょっとだけ開いたまま止まってしまった入り口の襖に向かった。そして、その10人の予想は見事に外れてしまった。いくら待っても襖はそれ以上開かなかったのである。
「トッチャンなしたの?」
目の周りを少し赤くした上の息子が言った。
部屋の中には一瞬沈黙が訪れ、襖の向こうも沈黙のまま。答えはなかった。
明朝早くの仕事で、漁具を軽トラックで運ばなければならないため、酒を飲まずにいた二番目の息子が襖を開け、階段を下りていった。少しして戻ってきた彼が、陽に焼けた顔を皆に見せた。
「誰もいねわ!」
緊張気味に言ったその言葉が皆をさらに不安な思いにさせた。
「トッチャン、下でねまってんでねのが?」とクボノオッカア。
「いやあ、裏口の鍵も閉まってるし、下には誰もいね!」
玄関の鍵はねじ込み式で、内側からしか開けられないようになっていた。結局、誰も入ってきた形跡はないのである。しかし、ここにいる10人の誰もが同じ音を聞き、間違いなく階段を上り、この部屋の襖の前まで「誰か」が上がってきたのだ。そして、襖にわずかな隙間だけ開けて……。
私は胸のあたりに冷たさを感じ始め、眠そうにしていた姉や、そのほかの子どもたちの目が丸く見開かれていた。私の父がコップの酒に口を付けた。
クボノオッカアが急に明るい顔になって、「じっちゃんだわ!」と、父に向かっていった。
クボノオッカアは夕べも夢の中で祖父と話をしたこと、このごろは毎日祖父の夢を見ていたことを話した。そして、「コウチャンは……」と、父に向かって笑顔のままで言った。
「コウチャンは夢みながったべや?」
父はまたコップの酒に口を付け、ゴクリと音をさせて飲み干した。
みんなが集まってるから祖父が楽しくなってこの場にやって来ていると、クボノオッカは言う。子ども達の目が少し柔らかくなっていた。逆に、私はこの部屋のどこかに祖父の魂がいるのだと感じ、窓のあたりや襖のあたりが気になって仕方なかった。背の高かった祖父が上から自分のことを見下ろしているのかも知れない。天井のシミまでが気になってしまった。
この夜は、そのまま10人で朝を迎えた。隣の部屋で寝てしまった子ども達がほとんどだったが、唯一、私だけは一晩中祖父の魂と一緒に文字通りの「通夜」となった。クボノオッカアは、一晩中私の父をこきおろし続け、父と一緒に一晩飲み明かした一番上の息子は、ろれつの回らない口で
「じっちゃん、悪いのはぜんぶ、コウチャンだでな……」
と、繰り返しながらテーブルに伏して眠ってしまった。
「じっちゃん、いがったな!みんな、あずまったもんな……」
そう言って、クボノオッカアは夢見るような顔をしながらも、初めて涙を見せた。何十年もの間、ずうっと近くに暮らしてきた血縁の一人が、もう二度と会えない人となってしまった。その深い悲しみが伝わってきた。誰よりも一番悲しんでいたのは、クボノオッカアだったのだと、この時初めて感じることになった。
祖父の死んだ日、その夜に階段を上ってきたのは……。
それは、私たちが小さな村で共に暮らしてきた「仲間」として互いに持っていた思い。互いの存在を自分の一部として感じてきたこと。そして、その存在が自分の人生の中で、大きな大きな意味を持っていたのだと、あらためて感じさせられたこと。それこそが「人の魂」だったのだ。
祖父の死んだ日、その夜に階段を上ってきたのは……。
それは、亡くなった祖父の魂ではなく、私たちみんなの祖父への思いだったのかもしれない。
いつの日かまた祖父の畑を見に行こうと思うのだが、あの頃の思いが書き換えられてしまうのが恐ろしい。自然が人間の活動とともに衰退していく話は幾度となく耳にし、各地の現状を目にしてきた。けれども自分に一番関わりの深いこの地が、あの頃と大きく変化しているのを見ることが悲しくてならない。年をとるということはこういうことなのだろうか。
完
※このお語はすべて事実に基づいていますが、作中一部の人物名や時間的な前後関係は創作されたものであり、フィクションとなっています。
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