「南風吹く頃に」第二部
第二部 2・旭川花咲陸上競技場
旭山高校三年生の菊池美咲は自分のホームグラウンドと思って使ってきたこの競技場が、母がまだ中学生だったころには近文競技場という名称だったと聞いた。そして今、花咲競技場と名前を変えたこの場所で高校生活最後の全道大会が始まろうとしていた。いつものようにプログラムのすべてのページを丹念に読み進めていくうちに「野田賢治」の名前を見つけてしまった。
「野田賢治」なんてそんなに珍しい名前ではない。でも、二歳年下だった「弟」と同じ名前の高校一年生がそんなにたくさんいるはずもない。自分が小学校に上がる準備のために何度も何度も書いていたことのある「野田」という「漢字の姿」が特別なものとして目に飛び込んできたのだ。
その瞬間から、今までとは全く違う気持ちで大会を向かえることになってしまった。中学校の時からずっと、他のどんなことも忘れてしまえるように全力でやり続けて来た陸上競技だった。高校三年生になり、その最後の全道大会がここ花咲競技場で始まろうとしている。自分のこれからの人生に大きな記憶として残っていくはずのこの大会が、単に陸上競技の大会だけではないものに変わろうとしている予感がし始めたのだ。
もしも、あの野田賢治が……「自分の弟」が、岩内から札幌の高校に進学していたとしても、それはそんなにおかしなことではない。ただ、札幌の南ヶ丘高校といえばだれもが認める超難関校であることに驚きを感じてはいた。でもそれだって、公認会計士をしている母の血をひいていることだし、少しだけ聞いて知っていた野田家の力をもってすれば、それほど難しいことではないのかもしれない。
だから、もしかすると……。
大会前日の公式練習日にはトラックに降り、フィールドを歩き回って札幌南ヶ丘高校の選手たちを探してみたが、ジヤージーやウインドブレーカー姿から校名のネームは見つけられなかった。南ヶ丘高校は陸上では名門校とも強豪校とも言えない学校なので、今までに一緒に競技した選手もいなかったし、どんなユニフォームなのかもわからずじまいだった。
大会初日。
自分の出場種目である七種競技は二日目から開始するように組まれていたので、弟かもしれない「野田賢治」がエントリーされている400メートルリレーの予選を熱心に目で追った。南ヶ丘は5レース目に登場する。彼は補欠を入れた選手名簿の中で唯一、一年生でエントリーされていた。この野田賢治は出場するのだろうか。一年生なので出場しないことの方が多いだろう。それでも朝の練習の時からずっと南ヶ丘のリレーチームを追いかけた。
母は中学生の時からかならず試合の応援に来てくれている。高校最後の全道大会が地元の旭川で行われるのだし、今回も必ず来るに決まっている。妹の美穂も一緒に来るに違いなかった。大会のたびにプログラムを買って私の競技以外の記録も記入しては、後々の話題にしてきた母なのだから、きっと「野田賢治」の名前を発見するに違いない。そして当然、母も南ヶ丘のリレーに注目するだろう。
……いや、それでも、今日の予選を通過しなければ明日の準決勝には進めないのだから、母が来る明日は出場しないことになる。今になって母がまたつらい思いで頭を悩ますくらいなら、知らないまま、気づかないままの方がいいのかもしれない。
10年以上も離れて生きてきた自分の息子に会いたくないわけはない。でも今ここで親子の対面をすることがたがいの幸せにつながるのだろうか。いや、どっちにしても……自分自身は、この野田賢治なる生徒がどんな子なのかを見極めずにはいられない。
5組目のレースが始まる。出場チーム名がコールされた。「3レーン札幌南ヶ丘高校」というアナウンスに合わせ、各地点の選手のナンバーカードを目で追った。すると、なんと一年生の野田賢治は第四走、アンカーとして出場していたのだ。これはきっと、かなりの力を持っているに違いない。2走の大迫という選手は去年から全国大会に出場していたので名前を知っていた。その3年生を二走に使えるほどの力と認められているのだろうか。自分の母校のリレーチームは地区大会で敗れたが、アンカーは三年生のエースが走っている。
スタンドの最前列まで下りて、鉄柵から身を乗り出すようにして100メートルのスタート地点あたりにいる3レーンの走者を探した。薄いブルーに白いラインの入ったユニフォーム。紺色の短パンから筋肉質の太腿が見える大柄な選手が、自分の走路にマークのテープを貼っているところだった。後ろ向きのままだったが、髪の毛は短く、肩の筋肉が随分と盛り上がっているのが分かった。自分が知っている陸上競技の高校生たちとは違った体格をしている。
号砲とともに第一走者がスタートした。3レーンの小柄な選手は抜群の飛び出しを見せたが、カーブを抜けるころにはかなり遅れを取っていることが分かった。それでも、第二走者へのバトンパスは見事に決まり、バックストレートを加速していく南ヶ丘の選手は素晴らしい走りを見せている。あれが大迫選手に違いない。前を走る各高校もさすがに全道大会に出場するチームらしく、大きく差は縮まらないまま第三走者にバトンが繋がれた。3レーンの南ヶ丘は3番目くらいでバトンが渡ったのだが、第三走者のスタートが遅かったらしく、この区間でスピードがぐんと落ちたのがはっきりとわかった。
コーナーを回る選手たちの体の傾きが大きくなり、アンカーたちがそれぞれのレーンでスタートの構えに入った。ここまでくると各レーンの走行距離に差はなくなり、ほとんど同じ位置でバトンを受け取ることになるのでその差がはっきりとわかるようになった。うまくスピードに乗れないままバトンを受け取った南ヶ丘の第三走者は、力いっぱいの腕振りがかえって力みを強くしてしまっているようで、アンカーの選手にバトンが渡った時には5番手から6番手に落ちてしまっていた。各組二着取りのレースなので、準決勝進出はかなり難しそうだ。
そして、いよいよ南ヶ丘のアンカーが目の前に近づいてきた。ナンバーカードをもう一度しっかり確認した。やはり彼が野田賢治であることは間違いない。スタンド最前列の鉄柵から身を乗り出し、各校の応援団に混じってずっとアンカーの顔を見つめ続けた。一年生としてはかなり体格の良い筋肉質の選手が、大きく腕を振り力感たっぷりの走りでこちらに向かってくる。何としてでも前の選手を抜いてやるという気持ちをめいっぱいに爆発させたような走りをしている。隣に並んだ何人かが「ノダ―!」「ノダケーン!」と大声で叫んでいる。
菊池美咲は「ノダケン」という言葉に聞き覚えがあった。岩内で暮らしていたころのわずかな記憶の中で、いつも可愛がってくれていた祖父が周囲の人たちにそう呼ばれていたはずだった。やってくる人たちが皆、「ノダケン」「ノダケンさん」と祖父を呼んでいた……。
剣道と書道を教えてもらっていた時にも周りのみんながそう呼んでいた祖父の名前だった。その言葉の響きが頭の中にしっかりと残っていたのだ。
そんな思い出とともに、体中の力を振り絞るようにこちらに向かって走って来る野田賢治を見ていても、あの頃の「弟」の面影をたどることはできなかった。
母と旭川の祖父に連れられて岩内の家を後にしたあの別れの時……。……窓に顔をくっつけてずっとこっちを見続けていた弟を……まだ5歳にもなっていなかった弟を、この力いっぱいの顔からはどうしても想像することができなかった。
3レーンを走り抜けた南ヶ丘高校のアンカー野田賢治は後半かなりの追い込みを見せた。順位を4番手まで上げ3番手の選手に肉薄する走りを見せたのだが、さすがに予選突破はかなわなかった。何人かの南ヶ丘の応援生徒が落胆の声を上げている。ゴール後も長い距離を走ってから立ち止まった野田賢治の後ろ姿に何人かの生徒が拍手を送っていた。
菊池美咲は隣で応援していた南ヶ丘高校の生徒達(きっとそうだろうと思うのだが)の一人に、思い切って声をかけてみた。走り終えた野田賢治の後ろ姿をいつまでも追いかけていた彼女は、体中の声を振り絞り、自分の力を出し切ってしまったように下を向いたところだった。
「あのアンカーの子って一年生なの?」
「はいっ……?!」
川相智子が驚いて顔を上げ、体ごとこちらを向いた。
「あっ、突然ごめん。ちょっと知り合いの子かと思って」
「野田君ですか?」
川相智子の後ろから山野沙希が顔を出し、警戒感をあらわにした言い方をした。
「野田賢治君……だよね?」
「そうですけど、何か? 知り合いなんですか?」
不機嫌にも聞こえる山野沙希の言葉にかまわずに質問を続けた。
「もしかして、野田君って……、岩内町の出身じゃない?」
「そうですよ。岩内から南ヶ丘に来たんですけど、……何か?」
「やっぱり! 私も前に岩内に住んでいたことがあるんで、もしかしたらと思って……」
「知り合いの方なんですか……そうなんですか。」
山野沙希がウインドブレーカーの高校名を探している。
「あらー! 菊池さんじゃない? 菊池美咲さんでしょう! あれれっ、あんたたち一緒にリレーの応援してたの?」
ゴール横の階段を上ってくる途中で嬉しそうに大きな声で呼びかけたのは、清嶺高校の上野悦子先生だった。上野先生には去年の国体で北海道選手団の女子選手の面倒を見ていただいた。初めて会った選手ばかりなのにいつも笑顔で、誰もが気楽に振舞えるように接してくれたので、みんなはリラックスして試合に臨めたのだ。私にとっては同じ種目の大先輩でもあったので、本当に多くのことを学ばせてもらった先生だった。
「上野先生、……」
「菊池さん、って言うんですか?」
「上野先生、お知り合いなんですか?」
言葉をかぶせるように、川相智子と山野紗季が勢い込んでそう尋ねた。
「あららら、あんたたち! 彼女のこと知らないんじゃ北海道の高校生アスリートとして失格だよ!」
上野先生の大きな目がますます大きくなっていた。
「菊池美咲さんって、確か旭山高校の……」
一番ゴール側にいてメガホンを鉄柵に叩きつけていた隠岐川駿が思い出したようにそう叫んだ。
「岩内……?」
上野先生は、山野紗季に菊池美咲から受けた質問の話を聞き、ちょっと不思議な顔をした。
隠岐川駿が続けた。
「去年のインターハイ、七種競技……全国で3位入賞、でしたよね。」
「……」
菊池美咲は野田賢治が自分の弟であることを確信した。
グラウンドでは、スタートラインに戻ってきた先輩たちに肩を叩かれて野田賢治がバトンを係員に返しているところだった。
「あれー、菊池さんも岩内出身だった?」
野田賢治との接点を見つけられずにいるようで、上野先生の質問はたくさんの「?」が付いた言い方だった。
「小学校の頃にちょっとだけいたことがあるんです……」
「そうなの……あ、そー……」と言いながら上野先生はまだ何かを探しているような顔をしている。
母にはこのことをどう伝えようか。
今までいつだって忘れられずにいた弟の成長した姿がそこにあるのだ。でも、明日はもう南ヶ丘はリレーを走らない。母はその姿を見ないままなのだから、今、この人たちから聞いたことをあえて伝えるべきではないのかもしれない。
そんなことを考えていた時、自分のことを知っていた隠岐川という生徒に周りの女の子達が話している言葉が耳に入った。
「次は隠岐川さん達の番ですね。16継は予選突破してくださいよ!」
「おー、そりゃもー、もちろん。このまんまだと野田も頑張った意味ないしな。」
「自分の八種はハードルでこけて……もうちょっとのところだったものね。全道出てたらもっと記録伸びたよね!」
「4継は憲輔のバトンミスでダメだったし……」
「いや、山野……、そんな下手なバトンじゃなかったって」
「だって、あそこでぐんとスピード落ちちゃったじゃないですか」
「そのくらいのミスは普通にあることだし、後から責めるなよ。憲輔さんには最後の大会だったんだからさ」
「だって、野田君の最後の追い込みすごかったんだから、あれがなければ……」
「結果としてはそうだけどもさ、レースってそんなもんでしょ」
「そうだよ沙希。いっつも完璧にはできないから」
「でも……」
「まあ、16継はそうならないようによ、頑張るから。野田も今日以上にやってくれるさ。今、悔しさいっぱい感じてんだろうから。あいつならきっとよ、もっとすげー走りするんじゃねえか!」
南ヶ丘の生徒たちの会話を聞きながら、菊池美咲は野田賢治が……私の弟が、短い時間にもかかわらずうまくこの学校に溶け込めていることを感じた。と同時に、「自分の八種……」という言葉を耳にしたとたん、野田賢治と自分との離れられない強い運命のようなものを感じることになった。彼が私と同じ種目である混成競技をしていたのだ。こんな偶然なんてあるものだろうか。
そして、なんと1600メートルリレーにも出場することを知った。
母に今日の様子は話そうと決めた。今まで弟のことを話題にすることは互いに避けてきたが、私はいつだって忘れたことなんかなかった。母だってもちろんそうに決まっている。新しい父は何もかもわかっていて結婚したらしいので、弟がいることだって知っているに違いなかった。3年前に亡くなった祖父は弟のことが気になって仕方なかった。祖父の家に遊びに行くたびに弟と一緒に写った写真を見せてくれるのだった。
……ただ、それは私が一人で行った時だけの話で、妹の美穂が一緒の時には一切そんな話には触れないままだった。……妹には……今のままでいた方がいいのかもしれないし……。
上野悦子は菊池美咲の反応がちょっと気になった。去年国体で一緒になった時以来何度か競技のアドバイスをしたり、女の子特有の雑談に付き合ってたくさん話を聞いたりしてきた。その時とは今の彼女の反応が違いすぎた。競技前のセンシティブな状況とも違っている。
彼女自身何かに迷っているような話し方だった、ノダケン君と一緒の「岩内」という言葉がどうにも気にかかっていた。ノダケン君に初めて会ったときに岩内で中学校教師をやっている小山先生の話をした時と同じ感じだった。なんだか、……ふたりとも岩内に対する何かの「重たい記憶」を背負っているような話し方なのだ。
そして、なんとなくノダケン君と菊池さんの目や顔立ちに似通ったところを感じていたのだ。でもまさか、同じ混成競技をしている二人が(いやいや、ノダケン君に混成を進めたのは私自身なんだけど)偶然に岩内で一緒だったことがあって、岩内に何か隠しておかなければならない思い出を持っている……。そんな偶然過ぎる関係などあるはずもない。ミステリー小説でも何でもない目の前にある現実にそんなうまい具合の接点なんてあるはずないか。上野悦子はなんだかすっきりしない気持ちだった。
南ヶ丘高校と清嶺高校との合同練習で感じた野田賢治の運動能力の高さ。今までの南ヶ丘には居なかった、いや、北海道の高校生全体を見てもここまでの能力の高さは滅多に存在するわけではない。夫の沼田恭一郎とともに彼の持つ力を十分に発揮させるための方法を考えて来た。そして、早くも発揮され始めたその力に驚きながらも、彼をもっともっと高い次元の選手にする義務を負ったような気になっていた。こんな役割は大きなプレッシャーにもなっているが、それ以上に陸上を教える者としてはこんなに恵まれたことはない。
野田賢治はそんなに遠くないうちにその力を全国的に知られるようになるに違いない。そして、菊池美咲さんはもうすでに全国的な存在になっている。この二人が……。自分がこの二人にかかわりあえている……その楽しさをこれから更に大きく味わえるのだろうと思う。けれども、今、なんだか不思議な……、違和感とでも言えばいいのだろうか、逆にこの二人に共通点を感じると言えばいいのか……、なんとも落ち着かない思いになってしまったのだ。
全道大会前に岩内にいる小山先生と連絡を取った夫は、野田賢治の家の特殊性を知ることになった。彼の岩内町での立場そして彼の家庭について……。小山先生は大学以来の知り合いなのだが、彼との間には夫婦そろって嫌な記憶しか残っていなかった。そんな彼にあえて連絡を取ったのは、私たち二人が野田賢治を本物の日本を代表するようなアスリートに育てられるかもしれないと思ったからだ。この北海道からそういう選手を輩出できるとすれば、それは陸上にかかわるものとしてこの上ない幸せなことだ。だから野田賢治の情報は多いほど良いと思ったのだが……。夫は、また小山君の嫌な部分にふれてしまったようだ。
さっきの4継での最後の走りを見たら野田賢治にはとてつもない力が隠されていることは明らかだ。体にばねがあるから走るスピードだけじゃなくて投擲やジャンプの瞬発力だって群を抜いて強い。何より最近の高校生アスリートらしくない上半身の強さが魅力だ。多くの子たちは高校生になってから筋トレで鍛えて2年後、3年後に何とかバランスが取れるようになる。全市大会では失敗しちゃったけど、難しく熟練を要する技術系のハードルだってとんでもない記録を出しそうだった。野田賢治のこれからを見逃すわけにはいかない。そう、彼は誰もがそう思える選手になりつつある。
その野田賢治をこんなにも近くで菊池美咲さんが応援していた。そして南ヶ丘の子たちに質問していたという……。
「菊池さんの七種は明日からだったよね。期待してるからね! でも、力みすぎはダメよ!あんたならちょっとくらいミスがあったって絶対勝ち抜けるからね。楽しんで!」
上野悦子は、菊池美咲の反応を確かめながら、今はそう言うだけにして彼女の気持ちを乱さないことを大切にしようと考えた。
いつものように気持ちを楽にさせる後押しを上野先生はしてくれた。南ヶ丘の生徒たちは軽く会釈してリレーメンバーの元へと移動していった。野田賢治も仲間の陰になってもう見えなくなっていた。
菊池美咲は、今まで何度となく見てきたこの競技場の景色が、今までと全く違ったものに感じて仕方なかった。自分自身は今どんな顔をしているのだろう。
スタンド下にいる南ヶ丘の生徒たちの後ろ姿から視線を上げると、バックストレートの向こうに掲げられた高体連の旗が、初夏の青空と見事なコントラストを見せていた。そしてわずかに揺れていた。
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