第五話 チャイムは鳴らない!
第5話 チャイムは鳴らない!
その日家庭訪問する予定だった「アユミ」との打ち合わせ。
「そしたら、3時に行くからチャイム鳴らせばいいね?」
「チャイム鳴らないよ」
「チャイム無いんだ」
「うううん。あるよ。でも鳴らない!」
「ん?……。」
「チャイム、押せば、……電気つくから」
「ん?……、電気?」
「……」
「チャイムは、ピンポーンとか、ブーとか……?」
それを聞いていた、アユミの友達のゆう子が袖を引っ張りながら行った。
「先生!アユミのお母さんは電気見て出てくるんだって!」
―――あああっ、やってしまった。やっと気がついた
(……アユミの母親は聴覚障害者だったんだ!!)
アユミは難聴学級に通う女の子だった。
完全に聞こえないわけではない。唇を読むこともできたし、話すのも相手が十分に聞きとれる範囲で話すことはできた。問題は見えない位置からの音に反応できないことだった。
後ろから呼びかけても、目を合わせずに話しても答えは返ってこない。けれどもハッキリとそれとわかるように扱ってしまってはアユミの顔が曇ってしまうだけ。本人は自分の障害を強く気にしていた。
障害を持つ子どもを健常児と一緒に生活させることのメリットはある。
インクルーシブ教育という言葉はまだ使われていない時代だったが、学校が社会の縮図であり、本物の社会を疑似体験させる場所だとの考えを正しいとするなら、確かにその意味で障害を持つ子が仲間にいることは大きな意味を持つ。
健常者からすると、自分と同じことができない者にどう対処すればよいのかを知ることになる。障害を持つ者にとっても、実社会に出てからの社会へのアジャストの仕方を学ぶことができる。
だが、その反面、普通学級で生活することがかえって、彼らが生きて行くための技術を身につける時間を奪ってしまいはしないか。健常者が進学をし、職業訓練を受けて社会人としての生きる技術や能力を身につける。障害を持つ子供たちは、それ以上に多くの過程を経てからでなければ、同じように社会で生きていくためのすべを身につけることができないことも多いのだ。
英語が全くできずに米国に留学させてはいけないように、彼らも準備なしに世の中に出すわけには行かない。障害の状態に合わせた技術を先に身につける必要がある。養護学校やその障害に合わせた通級学級には、その為のノウハウやシステムがある。視覚障害者が点字を覚えるように、難聴のアユミが読唇術を身につけたように。だからその意味で、普通学級に通うことだけが彼らの権利を守り、幸せを実現させることではないのだ。
当時のアユミとこのクラスの生徒たちは、素晴らしいことに、そのことを本当に良く理解していた。1日のうちの半分は難聴学級で過ごすアユミに対しても、みんなはなんの違和感も抱かず、阻害することもなく暮らしていた。あたりまえのことをやっているという雰囲気をみんなが持っていた。落ち着いた良い学級だったわけではないのだ。ボンタン、タンランの剃り込み君もいたし、その取り巻きたちも大勢いたのだ。
アユミはよけいなことは全くしゃべらないし、人一倍働き者だ。耳が聞こえにくいというほかには何も問題はない。もちろん学習面では平均的とは言えないが、それ以外のことについては全てに平均的以上に活動していた。人の世話もよくする方だ。彼女が嫌われる理由は何もない。彼女はごく普通にこの学級の一員となっていた。むしろ教師である私が彼女の扱いにとまどっていた。その穴埋めを生徒たちがしてくれていたのだ。
人と違うことを理由に差別したり区別したり、イジメに発展したりという例はたくさん見てきた。でも、この学級では彼女に対して全くそんなことは起こらなかった。なぜなら、そんなことをする必要が全くなかったからだ。1日のうちの何時間かを別の教室で過ごすことに何の問題があるのだろう。そういう生徒が自分の教室にいることで何か不都合なことがあるのだろうか。彼女の耳が聞こえにくいことが他の生徒の不利益になることも学級の質を落とすことも、不愉快な思いをさせることも全くないのだから、彼女を特別なものとして扱う必要などなかったのだ。それはごく普通のことであり、生徒達もごく普通のこととして問題にすらしないで過ごしていた。
「それが普通の社会じゃないのか」
そう、荒れた学校ではあったが、人と人との関わりはごく普通におこなわれ、生徒の成長もちゃんと人としてあるべき関係を作り上げていたのではないのか。イジメがなかったとは思わない。それはどの時代にもあっただろうし、自分の中学生時代にだっていじめられていた生徒はいた。でも、どの時代でもちゃんとして生活をしていた生徒をいじめるヤツは少なく、その学級の中で浮いてしまっていて、仲間とのつながりが欠けた奴らがうらやましさの裏返しから手を出していることがほとんどだった。この時もそんな時代の一部だったと思う。
アユミの母親はチャイムの「光」を見てドアを開け、私の顔を見てにっこりと笑った。それは、あゆみの笑顔とそっくりだった。
「どーぞ (たぶんそう言ったのだと思う、いや、そう聞こえた)」
「どうも、はじめまして、アユミさんの担任の北田といいます。」
アユミの母親は、北田先生の表情と口元とを真正面から見つめていた。
「いつもアユミがお世話になっています。 (きっとそう言ったのだ)」
それから30分、筆談を交えた会話を終え、アユミの家を後にした。隣の部屋にいたアユミは最後まで顔を出さなかった。それでも次の日、笑顔で近寄って来た。
「先生、チャイム鳴らなかったよね!」
「うん、チャイムはちゃんと光ってた!」
「どうやって光った?」
「そう……ピンポーン……と、光ったかな」
父親のいないアユミは中学卒業後洋菓子店で働き始めた。売り場に顔を出すたびに「いらっしゃいませー!」という軽やかな言葉がいつでもやって来た。そして、母と二人の生活を続けている。アユミの家のチャイムは、今でも「ピンポーン」と光っているに違いない。
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