「南風の頃に」 第三部 4 そして……
野田琢磨の踏切が鋭くなった。助走スピードを上げてもつぶれなくなったタクの高跳びが安定感を増してきた。
札幌地区大会三日目の男子走り高跳びは予選が1m70㎝に設定され、これも女子と同じように設定の低さを感じさせるほど突破者が多くなってしまった。
冬季間にバスケとバドミントン部に鍛えられたタクの動きがシャープになったと言われていた。スラムダンクは達成できなかったが踏切の強さは変わっていた。相変わらずベリーロールにこだわっていても踏切るまでの助走のリズムが速く鋭くなっていた。そのため膝を伸ばした振り上げ脚がもたらす浮力がさらに増すことになった。助走スピードに負けなくなったことで、軸足の作る角度が深くなった分上昇する方向がさらに真上に近くなったのだ。160㎝を練習のつもりでジャージの下を履いたまま跳んだタクは、70も難なく越え、自信をもって決勝へとやって来た。去年の後半に味わった迷いや悔しさよりも、自分の新しいスタイルがどこまで通用するのかという期待感の方が今は勝っていた。練習では80を失敗することは少なくなっていた。ノダケンが昨日86を跳んでしまったので、それ以上は跳ぶぞという対抗意識もモチベーションを高めることになっていた。
170㎝、75、80ときれいなローリングでバーを越えて行くタクのジャンプは、報道各社のカメラマンの注目の的だった。今時ベリーロールを駆使するハイジャンパーは全国的にも数が少なくなっている。中でもタクのように振り上げ脚の膝を伸ばした「ソビエト式」と呼ばれていた跳び方をする選手はほぼゼロなのだ。タクのスタイルは昨年陸上の専門誌にも紹介され、一時代前に高跳びをしていた元選手たちには注目されていたのだ。カメラマンたちの中にも、久しぶりに出会った「本物のベリーロール」に感激する人たちもいたのだという。
タクにしてみればそんなことはどうでもいいことで、自分がどれだけ跳べるようになったかが問題だ。183㎝から3センチ刻みになったところでバーを落とす選手が続出した。ここが一つの決勝での関門になっている。9歩から13歩に変えたことで助走での余裕が踏切の鋭さにもつながり、バーにより角度を深くとって向かって行けるようになった。右腕のリードからバーの向こう側へ滑り落ちるかのように越えていくタクのベリーロールは見ていて気持ちのいい滑らかさだ。83、86とクリアーしたあたりで観客席からの注目を集め始めた。
ここまでで残っているのは4人。すべて一回目で成功しているのはタクともう一人だったが、189㎝を北翔高校の3年生が一回目にクリアーした。かなりの長身に恵まれた彼は高跳びの助走路をはるかに飛び出して、コーナーの頂点当たりの9レーンの更に外側からスタートする。長い助走で徐々に上げたスピードと深い内傾姿勢から「ポンッ」という感じの軽いジャンプで今日初めて一回目で越えてしまったのだ。背面跳びの選手が記録を出すときの典型的なジャンプで、何が良くてというポイントを探すのが難しい成功の仕方だ。
「リズムに乗っちゃったね!」
そう言うしかない跳び方のクリアーだった。こういう時にはもう理屈じゃなく何かの要素が彼に味方しているとしか言いようがない。まぐれで跳んでるわけではないけれど、走り高跳びにはこういう時があるようだ。
この成功を見ていた他の三人は、今まで自分が成功してきたリズムを忘れてしまった。この一本で完全に自分のペースを崩されてしまったのだ。高跳びの試合らしい勝負の決まり方だった。力のあるものが必ず勝つわけではない。それはどんな競技にもあることだろうが、走り高跳びでは往々にしてこういう勝負の決まり方が見られるのだ。三回目に豊平高校の三年生がクリアーしたが、タクは成功できなかった。どの高さでもバーの上ぎりぎりのところをクリアーしていくタクの跳び方からは、最後まで成功か失敗かを判断できないので期待感たっぷりだったが残念ながら三位にとどまってしまった。それでもノダケンの記録に並んだことでタクは少しだけほっとしていた。
中川健太郎は5000mを選んだ。1500mにも出場するが5000mに対応する練習を増やしてきた。1日目の1500m予選は着順をしっかりキープして危なげなく決勝に進んだ。二日目の5000m予選ではかなり苦戦をしていたが16分代前半の記録を出して5着の通過順位を守ってゴールに飛び込んだ。最後は結構苦しい状態で健太郎としては珍しい崩れた走りになっていた。
三日目の決勝は1500m。4分3秒台を予定したラップを刻む健太郎は、途中で飛び出していった二人の三年生をラスト一周でかなりのところまで追いつめる走りを見せたが順位は変わらず三位でゴールしてきた。ゴールした後で膝に手を当て苦しそうな顔を見せた健太郎の姿は今までとは違っていた。
四日目の5000m決勝は前半からかなりのハイペースで走り通した外国人留学生二人に誰もついて行けず、はるか先を走る二人と三位グループの集団というレースで最後まで進んでいった。先頭争いの二人は14分を切る記録で競り合い、三着に入った留学生たちと同じ高校の三年生が15分の前半でゴールすることになった。15分30秒前後で4位から8位くらいまでの激しい争いになり健太郎は最後にかわされて15分39秒で7位になった。初めての5000mを走り終えた健太郎は15分台で走れたことに満足していた。400mトラックを12周と半分の距離が健太郎には楽しい時間なのだという。
それにしても、留学生二人の13分を目指す走りが他の選手たちの目標にすらなっていない現状が気になるレースだった。彼らは別格で僕らは僕らのレースをやる。そんな風にしか感じられないレースだった。全国各地で見られるこのような留学生を「輸入する」長距離走の方向性が、日本人の競技力の向上に結びついているのだろうか。彼らの出してしまうはるかに高い記録は「日本高校国際記録」という名称で記録されている。それはもちろん「日本高校記録」よりもずっと速いのだ。そして長距離の伝統校では彼らが駅伝の切り札になっている。
昨年盛り上がった南ヶ丘のリレーは4継では大迫勇也というエースを欠き、16継では隠岐川駿という天才ランナーを欠いてしまった。坪内航平と野田賢治は4継のメンバーとして残っていても、エースがいたからこその結果でもあった。二年生の樋渡貴大と相沢圭介、そして三年生になった福島海斗をどうやって組み合わせていけるか。
16継で残るのは野田賢治と昨年の全道大会で一度だけ走ることになった高野和真だ。
4継は坪内―樋渡―福島―野田の組合わせで予選に臨んだ。
新キャプテンの坪内航平と二年生の樋渡、相沢は坂道ダッシュから意識が変わり冬季練習でも意欲的だった効果が表れたらしく三人とも100mの準決まで進んだ。それでもやはり決勝進出という壁は厚く、あと一歩のところで落選していた。10秒台へと争う選手が何人もいて11秒3~4くらいの記録では決勝への勝負にならない。
予選の走りは、樋渡―福島のラインがバトンパスでスピードに乗り切れない展開だったが、何とか2着で突破できた。準決は樋渡―相沢の組み合わせにしたことでバトンがうまくつながるようになった。それでも準決のタイムは最も低くギリギリの通過だった。
16継は福島と高野を中心に組み合わせたが他に二人をそろえるのは難しかった。それでも、沼田先生は混成も含めて4継を三本走ることになる野田賢治を除いたメンバーを組んで臨むことにした。結果として予選敗退になってしまったが、その中で少しだけ期待を持たせたのは一年生の青山俊輔という選手だった。手足の長い青山は中学の時から400mを専門としていたことで400mという距離に慣れていた。まだまだ力強さはないけれども400mを走り切る方法を知っていた。体力勝負の走りではなくペース配分の上手な頭脳的な走りができる選手だった。体ができていない今でも53秒台前半で走ることができる彼のこれからに期待できた。
女子のリレーも山野紗季を除いては成り立たない状態だ。やはり混成に出場している山野紗季を除いたリレーメンバーでは今年はあきらめるしかなかった。予選と準決を別メンバーで組めるようになればいいのだが、伝統校並みの選手層の厚さは望むべくもない。
4継の決勝は、一走の坪内キャプテンが意地の走りを見せ、樋渡に3番手で繋いだが二走には各チームのエース級が集まっていて、今の樋渡では太刀打ちできなかった。三走の相沢がコーナーをうまく走り野田へとバトンをつないだ。それでも、やはりトップからはかなり差が開くことになってしまった。いつも以上に力んだ走りになっていた相沢のバトンが揺れて渡りきるまでに手間取ったためスピードを落とす結果になってしまったからだ。野田の後半の追い込みも叶わず7着でレースを終えた。それでも決勝進出が全道大会出場の要件だったのでこれが最後の大会になる坪内さんをはじめとするメンバー達の目標はとりあえず達成できた。
札幌地区予選が終わり函館で行われる全道大会に向けての準備期間、南ヶ丘高校では定期試験が行われる。部活動の大会で十分に勉強に向かえないでいるなかでも、陸上部員たちをはじめ各部の生徒たちは大会に向かいながらもしっかりとテスト準備は欠かすことがなかった。
二年目を迎えた野田賢治も武部や健太郎に教えられながらそれなりの及第点でテストをクリアーすることができた。このテストで赤点になってしまうと1週間の部活停止期間というペナルティーを食らってしまう。野田賢治にとってそれだけは避けたいことでなりふり構わず二人にすがることにしたのだ。
そして、最後の試験が終わりやっと部活動を再開できることになったその日に岩内の継母から連絡があった。放課後の部活動を開始しようと着替えている最中で、部室の中では何人もの部員がこの電話に聞き耳を立てていた。
ノダケンにかけてくる女の子は誰なのか。興味津々な男たちの目を気にしながらスマホの画面に目をやると継母のアイコンが震えていた。
「授業終わったよね? ごめんね……」
と話し始めた継母の言葉が震えていた。
「おじいちゃんがね……、ノダケンさんが亡くなった……」
スマホ画面の継母のアイコンを見た時から、そういう話だろうと野田賢治は思っていた。ついにそういう場面になってしまったという、そうなって欲しくはない予定が着々と進行していってしまう現実に何かしら冷めた言葉になって反応してしまった。
「苦しんでた?」
「いや……穏やかだったよ……」
「そう……」
「昨日の夕方にね、もう危篤状態だったんだけど……おばあちゃんが賢治には連絡するなって。『今テストの最中だから気持ちを乱すことなんかないって。正月に来た時も春休みの時も十分話をしていったから、爺ちゃんも満足してたからいいんだ』って言ってね……」
「うん……わかった。今日これから行くから。家の方で良いんだろ? 遅くなるけど必ず行くから……」
「そう、うん、待ってる……」
女の子からの電話だったらめいっぱいからかってやろうと待っていた坪内さんと野田タクが、電話の内容を察したらしく真顔に変わっていた。
「野田。沼田先生には俺から言っておくから、すぐ行ってやれ! まだバスあるんだべ?」
「はい、お願いします」
丹野邸に戻って報告すると、丹野のばあさんは黙って涙を流していた。僕の知らないところで丹野のばあさんと祖父や祖母は連絡をしていたことがあるらしく、珍しく多くは語らない丹野のばあさんの態度から切なさのようなものが伝わって来た。彼女は今までに自分にかかわる多くの人の死に接して、自分の思いがいつもしっかり伝わり切らなかったことに後悔の思いがあると話していたこことがあった。僕の祖父とはそんなに深いつながりではなかっただろうが、多くの人たちの死を見てきてしまった丹野のばあさんの人生の中では、自分にかかわった人たちの死は大きな意味を持って捉えられていたのだろう。
岩内では父が今まで見たとこがないぐらいにテキパキと物事を指図していた。僕を見つけても「おう!来れたのか」というだけで、次々にやってくる人たちにあれこれと指示をして家の中を行ったり来たりしている。弟と妹はいつものようにはしゃぐこともなく、僕にまとわりつくばかりで悲しみの表し方を迷っているようだった。祖母はいつものように笑顔で「よくバスに間に合ったんでしょ!」と言うだけだったが、そのいつも通りの笑顔にかえって悲しみが感じられた。
棺の中の祖父はとても穏やかな顔をしていた。まさに安らかな眠りという言葉通りの静かな永眠だった。
そのすぐ後で5歳になった妹の佳織は僕の脚にしがみつくようにして「セミ!」と言ったきり離れなくなってしまった。小学校2年生の弟達哉は春から少年野球チームに入ったことを長々と報告し始めた。コーチが僕がいたころとは変わってしまっていたので、ずいぶんと違ったチームになったらしいが、達哉は始めたばかりの野球に夢中になっていることがよく分かった。僕が残していったグラブとバットが達哉の部屋に飾ってあった。それは彼にはまだ大きすぎて使えなかった。
次の日、「しめやかに」ではあったが式は盛大に執り行われ、飲み仲間だった(いや勝手にやって来ては一人で泥酔してしまっていた)安徳院の住職が、今まで聞いたことがないほど丁寧なお経を長い時間かけて朗詠してくれた。読経は詠うような抑揚たっぷりの豊かな声が最後まで響き、左右に座った住職の息子たちとのハーモニーを感じさせるまさに『合唱』であった。
さすがに祖父は街の有力者の一人だっただけにたくさんの弔問客で会場は溢れかえっていた。町長をはじめとする町の有力者だけではなく、近隣地方の関係者や会社の取引相手など数百人にものぼる人数だっただろう。
焼香には長い列が途切れることなく続き、その中に、旭川の母と姉の姿を発見した。彼女たちは一般の人たちと同じように静かに参列し、線香をあげ祖母や僕たちに一礼して静かに去っていった。父は一度顔を合わせたが返礼をしただけで顔色を変えることも驚きの表情をすることもなくただ黙って座っていた。
中学の時の中野先生や同級生たちとその家族、野球部の大谷先生や剣道の師範たちも次々に焼香台に向かっていた。中鉢家の三兄弟と誠さんも参列してくれていた。その他にも八興会館で見かけたことのある人たちが何人も続き、その列の最後尾のあたりに山野院長と丹野さんの姿を見つけた。
焼香の済んだ後で丹野さんと山野院長に挨拶に行くと義母と祖母が一緒に付いて来た。祖母は丹野さんに深々と頭を下げて挨拶をし、日頃孫がお世話になっていることに丁重に謝意を表した。義母が自己紹介し今後もよろしくお願いしますという趣旨の言葉をかけていた。
「わざわざ遠いところをありがとうございました」
僕の挨拶に山野院長は穏やかな表情で答えた。
「いやー、余市まで高速の後志道が開通したからさ、思ったより早かったわー。一時間ちょっとだもんね。すごいもんだ。なかなかねこんな快適な道路走る機会ないからね。丹野さんと一緒に良いドライブになったよ。うちの子供たちも来たいって言ってたんだけどさ、人が多すぎても邪魔だから君には気持だけ伝えるからって置いて来たから」
「ありがとうございました。皆さんに宜しく伝えてください。丹野さんもわざわざありがとうございました。明後日には変えると思いますから」
丹野の婆さんは言葉に詰まって何も言うことはなかった。
葬儀の最後には、父がたどたどしいながら祖父の思いを代弁しているような気持のこもった挨拶をして参列者の共感を得ていた。僕は、父がこんなに長い話をすることに驚いた。そして、自分の父がしっかりとこの場の中心になって進めていける立場になっていることを強く感じていた。
翌日、告別式が終わり灰になった祖父を連れて戻ってくると、安徳院の住職が僕を岩内港まで連れ出して話を聞かせてくれた。
「ケンジ……。爺さんはな、喜んでたぞ。お前がちゃんと札幌で活躍してるってな」
「……」
「あのよ、人の死ってのはな、肉体は消えてしまうけども、その人の思いってものはちゃんと残ってるもんだ。それは、残された人たちの心の中で生き続けていくんだ。人の世はそうやってずーっと続いてきたものだから……。自分の大切な人が死んでしまうってことは確かに悲しいことだ。けどもな、それをちゃんとつなげていく人がいるのが大事なことでよ、亡くなってしまった人もな、自分の思いをちゃんと受けてくれる人がいてこそ安心して成仏できるもんなんだ……」
岩内港は穏やかな気候のもと波もなく、遥か水平線まで陽光を受けてわずかな揺らぎを見せていた。広い港のあちこちでは釣り糸を垂れる人やそれを見学している人、犬の散歩に来た年配の方、そして出港準備をしている漁師の方たちが忙しそうに動き回っている。こんな風景を今までに何度も何度も見て来た。でも、今はそれがずいぶん昔のおとぎ話にでも出てきた風景のように全く現実感のないものとして僕の目に映っていた。
「……野田の家ってのはな、青森の五所川原だとか秋田の象潟のあたりで商売してたのが函館戦争の後に海峡を渡って来たのが始まりだそうだ。これはな、先々代の住職に聞いたことだ。函館とか江差とかは早いうちに開けてたからよ、日本海を北上して岩内までたどり着いたんだそうだ。海岸沿いには珍しくよ、岩内には平野部が多いし港も大きかったから商売には向いてたんだろな。『山兼(やまかね)』っていう屋号でな……ほら、屋号だからよ『ヤマサ』とかのあの『ヒトヤネの下に兼』って書いてよ、わかるべ?」
「うん、じいちゃんに聞いたことある。ヤマカネは言いにくいから、ヤマケンって呼ばれるようになったって」
「そう、それで『ヤマケン野田商店』と呼ばれてたんだ。ノダケンと呼ばれるようになったのはそこからだそうだ。だからノダケンはお前の家の名前なわけだな」
「野田の謙蔵……じゃないの?」
「そう、それもあるんだ。お前たちの名前つける時も長男にはな、その語呂合わせも考えてつけてたんだ。だからよ、なおさらその名前は大事にされてたってことなんだな。ケンゾーさんもそうだし、お前の父さんも、お前もだ!」
「町の人たちが気軽にノダケンとかノダケンさんって言うのは、そういうことがあるから?」
「そういうことだな。そんだけお前の家は岩内で親しまれてきたってことよ。網元してた時だってな、なーに、頼まれてやってたみたいなもんでよ、みんなの代表みたいなもんだったんだべさ。だからほれ、岩内にはさ『ニシン御殿』ってねえべさ。他のところにはよ、小っさな町でも豪華なニシン御殿造ってな、みんなそこで寝泊まりしてたもんなんだ。でもよ岩内じゃそんなもの必要なかったのさ。だってほれこんなに人口あるし、旅館だって民家だっていっぱいあったからよ、そんなもの必要なかったのさ。小さな船しか持ってなかった漁師たちをひとまとまりにして大っきな組織にして漁してたってわけなんだ。でな、野田商店はさ、豪華な御殿なんか必要なかったからさ、その分の金をな町のいろんなとこさ使って来たんだ」
「やっぱり網元やってたら大金が入って来たんだ」
「そりゃそうだ。明治大正期のニシンの群来だもの、半端でないべさ。な、御殿建てれたんだぞ!」
「大名並みだったとこもあったって聞いてるけど」
「その分の金をさ、町に落としたのさ。うちのほら本堂に立派な仏像があるべ、あれだってな莫大な金掛かってんだそうだけどもよ、ほとんどは野田商店からの寄進でマカタさせてんだ。大正の初めによ、岩内の駅造る時だってさ、野田商店が中心になってな、札幌に何回も足運んで陳情してたんだとよ。だから、町のみんなはよ、お前の家の人達が骨折ってくれてたのちゃんと知ってんだ……」
住職の視線は港に停泊している船をはるかに越え、水平線のもっと上の方へと向かっていた。
「ケンゾーさんはよ、俺よりも一回りも上の年齢なんだけどもな、本当に面倒見のいい頼りがいのある人だった。だから、網元で無くなってもな、みんな「ノダケンさん」って頼りにしてやって来てたのさ。あの人が一番野田の家の重たさを感じてたんだべなー。自分のことよりまずみんなのこと考えてたんだから……。野田の人たちってなみんな晩婚なんだわ。ケンゾウさんも40越えてやっと結婚する気になったようだしな、お前の父親だってずっと遅くになってからな、お前の母親とよ結婚したんだ。野田の家を継ぐことに覚悟が必要だったんだと思うぞ。二人ともな……」
住職は独り言を淡々と話しているような言い方をしていた。
「……お前の父親はな、子供のころからよほんとに運動神経の良い奴だった。中学も高校も野球部のエースだったんだぞ」
「ほんとに? そんなの初めて聞いたよ! 父さんが野球の話なんかしたこと一回もない……」
「あいつはな、話すことが苦手だろ。ほんとは真面目でなんでも深く考えるいいやつなんだ。けどよ、小さいころからな話すことに難があってな、翠さんもな、ああ、お前の婆さんな、ちょっと心配してたんだけどよ、今はもうしっかりしたもんだ」
「父さんが吃音だったってこと? うん、なんか聞いたことある」
「いや、もう完全にだいじょうぶになったんだわ。ケンゾーさんの代わりをさ、ちゃんとやってる。それはもうみんな安心してるわ。謙輔さんの時からノダケンと呼ばれるようになったって言うから、三代目ノダケンだ!」
「三代目……」
「ケンゴはお前が野球始めた頃によ、ずいぶん見に行ってたんだぞ。おまえに気づかれないようにしてさ」
「ほんと!? そんな、全く知らなかった!」
「あいつはそういうやつなんだ。真面目過ぎるほど真面目で、恥ずかしがり屋で、自分をちゃんと出せないやつなんだ。でも、本当にいいやつなんだわ」
「おまえが父親とうまくいってなかったのは知ってる。母親のことがあるからな。でもな、それもなー、仕方のないことではあったんだぞ。まあ、それについてはそのうち話すことなるべなきっと」
「……」
「あのな、これだけは覚えておけ。いいか。ケンゾーさんが亡くなってしまって、お前はノダケンを継いだ。そういうことなんだよ。お前の父親もやっと自分の立場に気づいてちゃんと役目を果たし始めている。ケンゾーさんもそのことは感じてたみたいだ。本当に喜んでたんだ……だからな、『ケンゾーさんの二代目ノダケン』は亡くなってしまったけども、三代目のノダケンはお前の父親に任せられるということなんだ。お前はな『四代目のノダケン』だ。ただし、おまえは今は札幌で生きろ。そしていっぱいいろんなこと経験して来い。それがケンゾーさんの思いだ」
港に停泊中の漁船の上に何羽ものカモメがやって来た。小魚を咥えた一匹のカモメにほかの鳥が群がっている。そして、その後からやってきたカモメの嘴の小魚はまだ盛んに暴れていた。
「……それからよ、お前の旭川の母親と姉のことはな、みんな知ってることなんだ。だから、お前が隠したり気にしすぎる必要なんかないんだぞ。お前のばあさんはよく出来た人でな、全部うまく取り計らってくれてたんだ。だから、もうお前はそのことで悩んだり隠したり逃げたりすることなんかないんだぞ。ずーっとお前はそのことから逃れようと思って来たんだろ。でも、もうそんなこと考えるのは終わりだ。お前の父親はなー、お前にはきっとそのことは話せないだろうけどもよ、万事そういうことなんだ……。お前も真面目で責任感の強い男だから、自分の責任みたいに思ってたんだろうけど、そんなことはねえんだよ。もう逃げるのはやめだ……そんな必要なんかねえんだからな」
安徳院の住職はそう言うとしばらく口を閉じたままカモメたちの争いを見つめているようだった。
今まで何度も見て来た、あの夢の中で必死に自分の居場所を探そうとしているときと同じ気持ちになっていた。今、住職の言っていることがしっかりと自分の頭の中に落とし込まれるには時間がかかるだろうことだけは予想できた。
納骨が終わり、祖母が父と暮らすことになった。祖父と一緒に住んでいた家を離れとして住み続けるようにしたのだ。
「ケンジ。こっちのことなんかなーんも心配することなんてないから。あんたは札幌で頑張れば良いんだ。爺ちゃんもそれしか言ってなかった。なーに爺ちゃんのことだもの、今まで一緒にやってた人達とあっちでも楽しくやるに決まってるっしょ。なんも気にすることなんかねえし。わたしも……もう……、ずいぶん気楽なんだから……」
そう言う祖母の目には涙がたまっていた。
線香の匂いが漂う仏壇に向かい手を合わせながら祖父の遺影を見つめていると、硬い笑顔をした写真の祖父はなんとも若々しい目の輝きをしていることに気づいた。なんにでも前向きで実直に立ち向かっていた祖父の後ろ姿が思いだされた。その姿は永遠に僕の中から消え去ることはないだろう。祖父の思いも僕の中でずっと深めていくべきこととして残り続けるに違いなかった。
札幌へ帰る日、妹の佳織が朝からずっと僕に付きまとって離れなかった。
「賢ニイ、今度、いつ帰ってくる? ねえ、いつ?」
「夏休みだな。また海に連れていくから、それまでな……」
「賢ニイ。野球やろうよー!ここに賢ニイのグローブあるからさー!」
「……そうだな!ちょっとやるか」
家の前の広場に出ると佳織も一緒にやって来て花壇のブロックに座った。
「いくよー!」
そう言って達哉の投げてきた軟式ボールが足元でバウンドした。少し間合いを詰めて軽く放ってやると達哉は腕をいっぱいに伸ばしてグラブの中にしっかりと収めた。手足のバランスがまだまだぎこちないけれども塁間に近いところまでボールは届くようになっていた。
僕は父と一緒にキャッチボールをしたことはなかった。昨日の安徳院の住職の話では父は高校で野球をやっていたのだという。今こうして弟とボールを介して会話するようなことがなかった僕たち親子には、互いに言葉に出せないわだかまりがずっと残ってしまった。
「達哉。父さんとキャッチボールしたことある?」
「ないよ」
達哉の答えも父親と野球とが結びついていない証拠だった。
「今度来た時もっといっぱいキャッチボールしような。でもその前にさ、父さんにキャッチボールしてもらえ。父さんな、高校の時まで野球してたんだってよ。ピッチャーだったってよ!」
「本当に!? 聞いてみる!」
達哉が一気に笑顔になった。佳織が花壇に座ったまま言った。
「私もキャッチボールするー!」
玄関を出たところでその様子を見ていた継母が泣き笑いしたような顔をしていた。
駅前のバス停まで送ってくれた継母がまた涙をためた目で話し始めた。
「ケンちゃん……ありがとうね。佳織も達哉もずっとケンちゃん返ってくるの待ってたんだよ。達哉の部屋のバットもね自分でしっかり磨いてから飾ったんだよ。ケンちゃんのこと少年野球のコーチから聞いてねすごく喜んでたんだから。監督さんは変わっちゃったけどね、小さい子たちにも丁寧に教えてくれてるんだよ。ケンちゃんたちの頃に比べたらとっても弱いチィームだけどね、子供たちは喜んで楽しそうにやってるよ。達哉、キャッチボールしてもらってとっても嬉しそうだったでしょ。またね、お願いね!」
「義母さん、兄弟なんだからさ感謝されるようなことじゃないって。普通に、ね、普通に兄弟だから」
バスの出発時間までの間、継母はコーヒーやらジュースやらを自販機で大量に買い込んで渡してくれた。
「丹野さんに宜しくね、それから山野先生たちにもね」
「うん。ばあちゃんのこと頼みます」
「もちろん!大丈夫、楽しくやれるからね。じゃ、体に気を付けるんだよ。全道大会頑張って……」
こうして見送られるのは初めてだった。そして、継母の涙も初めてだった。こんな風に札幌に向かうことなど考えてもみなかった。バスが動き出してもずっと手を振り続ける継母の姿を見たとたん、僕の心の中に何かが溢れ出してきた。それはもうどうしようもなく、抑えることなどできなくなってしまった。
そして……。
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