N43札幌の空の下で<冬>18大相撲~大鵬の孫「王鵬」と岩内町出身「一山本」の関係~
新しい力士たちの台頭によって大相撲がちょっと面白くなってきた。
一時代前までは北海道出身の力士たちが大活躍するスポーツだったので大相撲への関心はとても高かった。
大鵬・北の富士・北の湖・千代の富士・大乃国・北勝海……
横綱を張った力士で私が知っている(実際に見たことのある)力士だけでもこんな数になる。それ以外にも北海道の相撲人口は多かったのだが、現在は見る影もない。
岩内町出身の「一山本関」が頑張って前頭一桁で今場所も勝ち越している。
実はこの一山本関と今場所優勝争いの一人として注目されていた王鵬関は関係があったのだ。
というお話なんですが、我が家の花子さんは相撲を見ることがないので、こんな話をしてもちっとも関心を持ってくれません。それでも、大鵬と千代の富士という二人の名前だけは知っています。ウルフと呼ばれた千代の富士はキン肉マンにも登場しますからね(ウルフマンという名前です)。
これから話題にしたいのは大鵬です。
実はこの大鵬は今場所で話題になった王鵬の祖父にあたるのです。
そして、大鵬と一山本は間接的につながりがあったりするのですよ。
全く年代の違う二人が? なのですが、実は「岩内町」が二人を結び付けています。
ちょっと知ったかぶりになりますが、大鵬が樺太から引き揚げ、北海道にやって来て入学した小学校が岩内西小学校だったのです。現在の岩内西小学校は他校と統合して当時とは別な場所にあります。この学校は当時から歴史のある学校で、なんと校歌の作詞が荻原 井泉水で、作曲は團 伊玖磨という歴史に名前が残る二人によるものなのです。私太郎もここの学校を卒業したので今でもその校歌を歌えたりします。
大相撲の記録には大鵬幸喜は弟子屈町出身となっていますが、母親の出身が神恵内で樺太からの引き上げの時に神恵内の手前にある岩内町で少しのあいだ生活したことがあるのだそうです。そのあたりの経緯は「巨人大鵬卵焼き」という大鵬の自伝に詳しい記録があります。
そして、またまた実は大鵬が樺太(現在のサハリン南部)から引き揚げてきたときに同じ船で私の祖父たちも引き上げてきたのでした。
樺太南部の港から稚内まで船でやって来たわけです。そしてなんと、そのあとその船は小樽を目指した途中、留萌沖で国籍不明の潜水艦?の魚雷で撃沈されてしまいます。乗っていた乗客はほとんどなくなりますが、大鵬一家も私の祖父の一家も稚内で下船したため難を逃れたのだそうです。
しかも、両家共に小樽まで行くはずだったのが、船の劣悪な環境に耐え切れずに予定外の稚内で下船したために命を長らえたことになります。こんなこともあるのだと生き残った私の叔母たちは何十回も教えてくれました。
さてその岩内西小学校に入学した後の大鵬幸喜君(本名は納谷幸喜君)は、すぐに母親の再婚のため弟子屈の方に引っ越すのですが、まぎれもなく日本にやって来て初めて入学した学校は岩内西小学校だったわけです。
その後何年もたってから私太郎も岩内西小学校に転入していくのですが、大きな大きな校舎で歴史もたっぷりある学校でした。ということで、私太郎と大鵬は同じ学校に通ったという栄誉(?)にあずかるわけです。
ちなみに、後でわかったことですが、あの大好きな中島みゆきさんもここの学校に通っていたことがあるのです。それは私太郎が転入する前のことでしたが、なんと嬉しいことに私太郎は大鵬と中島みゆきというすごい人たちの後輩(?)としての栄誉を賜ることになったのです。
「そんなの全くあなたの力でも何でもないわよねー」
と花子には言われましたが、そんなことはどうでもいいのです。
そして、一山本関は岩内町の出身(残念ながら彼は岩内東小学校の出身)なので、大鵬と間接的なつながりがあったのです。時代が違うから関係ないよという人がいるかもしれませんが、大鵬が岩内で生活したことはみんな知っていますし、少なからず大相撲への関心はあったはずですね。
さらにそして、初めに話題にした王鵬関は大鵬の孫ですから……。
一山本関と王鵬関はこれまた間接的なつながりがあるんですね……。
ちょっと強引過ぎましたけれど、私太郎の祖父は大鵬の大ファンでした。大鵬の最後の岩内地方巡業にも行きました。私も岩内西小学校の伝統行事だった相撲大会で六年生の時にクラス優勝したのです。
「なんだ、それを自慢したかったんで長々と話してたんだねあんたは!」
花子にはそう言われてしまいましたが、いいんですそれで!
大相撲というスポーツが「国技」と言われながらなかなか人気が回復しない。原因の一つは日本人の強い横綱が出現しないこと、も大きいと感じています。それを王鵬関たちが解決してほしい。そういう思いなんですよ。
この辺りの様子を詳しく書いてある作品がありますので、宜しければお立ち寄りください。