PINK
ピンクだ。ピンクでよかった。桃色じゃなくて、ピンク。
桃色の方がピンクより色が濃いってこと、美術の授業中に配色カードで遊んでて知った。美術の先生の名前、何回聞いても覚えられなくて「美術の先生」って呼んでる。「美術の先生」。いい異名だと思う。大人になって仕事をして、異名がつくなら私もそういうのがいい。
それまで、ピンクってもっとどきつい色だと思ってた。昔おばあちゃんが「ピンク色のスカートを買ったから送るね」って電話してくれたとき、「絶対いらないやつ」って思わず言っちゃったこと、急に思い出す。あのとき私さ、しまったって思う前に、「早く会いたいなー」って言って誤魔化した。「早く会いたいなー」。きっと棒読みだった。おばあちゃんは「そうやね、いつでもおいで」って笑った。電話越しでは。電話越しの笑い声では。心臓がギィっとなる気がして、私も笑った。なんだそれ!めんどくさ。嫌な言い方してごめんって言え。
みんなはとっくに脱いだというのに、私だけいつまでもこのピンクを纏ったままだ。右手で左手を触ると、肌には少しの温もりだけが伝わる。私のピンク。それって悪いこと?すごく快適だ。生まれた瞬間から、私の身体のカタチに沿ってぴたっと張り付くピンクが、私は大好きだ。
トキくんは、ターコイズ色だった。頭のてっぺんから指先まで、指に生えた毛まで、ターコイズ色が滑らかに張り付いている。トキくんが机の下で足を組み替えると、その振動に合わせてターコイズ色も微かに揺れる。なんて美しいんだと思った。「なんて美しいんだ」と言うと、「なにが?」と声がした。トキくんの声だっけ。それとも隣の席の人の声だっけ。覚えていない。そんなのどうでもいい。静かに張り付くだけのターコイズ色が、とにかく綺麗だった。見たことないけど、こんな色の海が世界のどこかにはあるんだろうな。そこは今、朝?夜?夜だったらいいな。夜だったら、月が反射してもっと綺麗だ。覗き込んだら、私の顔も映してくれるだろうか。トキくんが夜眠るとき、このターコイズはトキくんを守るようにぎゅっと包み込むのだろうか。
私のピンクも、トキくんのターコイズも、生まれた瞬間から存在したわけじゃない。でも私が知っている限り、大人はみんなそれを纏っていない。同級生たちもいつの間にかそういう人の方が多くなった。むしろ、高校三年生にもなって纏っている方が少数派かもしれない。うちの親は私を怒るとき、「いつまでも子どもみたいにそんなの纏ってるから」って言う。別にそうしたくてしてるわけじゃないのに。怒られると、ピンクが頼りなさげに震える。「みんなはもう脱いでるのに、あんただけ」ってため息を吐かれて、もっと縮こまる。これって「マイノリティ」ってやつだろうか。マイノリティっていう言葉に当てはまる人は、きっと違和感持たされているんだろうな。絶対的じゃないものさしで、勝手に区切られる世の中。最悪だ。ものさしは誰のもの?神様?
窓の外を見たら、屋上から煙が上がっていたから、神様がなんか焼いてるんだろうなと思った。休み時間に屋上に行くと、案の定七輪を団扇で仰いでいる神様がいた。
「何してんの」
「肉を焼いています」
「神様って肉食べないんじゃないの」
「大豆肉です!」
神様はめちゃくちゃ擦り切れた白い服を着ていて、いつだかなんで白い服着てるのか聞いたときは、「そういうイメージ崩したくないからね」と言っていた。「そういうイメージ」は守る神様。でも七輪で肉は焼く。
みんなはとっくにちゃんとしているのに、私だけ、いつまでもちゃんとできないままだ。
ちゃんと、という音は綺麗なのに、ちゃんと、って意味は綺麗じゃない。
「みんなはとっくに」と言うと、鬼の形相で怒ってくる人がいる。「みんな頑張ってる」「みんな苦労してる」「みんな別にちゃんとしてない」「みんなちゃんと、見えないところで泣いている」
「みんなちゃんと、見えないところで泣いている」?
「肉、食べますか?」
神様がお皿にちょこんと載った肉をこちらに差し出す。
「大豆肉って、こんなに本物のお肉みたいな味するんだね」
「これは、大豆肉じゃなくて肉ですよ」
「なんで嘘ついたの?」
神様は私の質問に答えることなく、肉を焼く手を止めて一息ついた。
「人という字は、自分を、もう一人の自分が支えている様子を表しています。もう一人のあなた、今は踏ん張りどころです」
ビールを飲みながら、私を見ているのか見ていないのかよくわからない目で言う。さっきまでと声色も少し違う。
「神様ってビール飲んでいいの?」
「ノンアルコールです!」
いつも通りの声で、神様はケラケラと笑った。
次の授業の教室に移動しようとしたら、トキくんに話しかけられた。
「ピンク引っかかってるよ」
見ると、机の角にピンクが引っかかってちぎれそうになっている。今までこんなことなかったのに。ぼうっとしているからか、ピンクが薄くなってきているからか。
「その色、いいよね」
「え!」
「ぼくも、ピンクがよかった」
ターコイズ!あの美しく儚いターコイズを持っていながら、ピンクの方がよかったというトキくん。トキくん!そんなことないよ、なんて言えない。だってピンクの方がいいと思うのは、トキくんだけの感情だから。ターコイズだって素敵だよ、なんて言えない。ターコイズが素敵だと思うのは、私だけの感情だから。雄弁は龍、沈黙は如く、みたいな言葉が確かあった。言わないでおく。今は言わないでおくことが、トキくんへの一番の敬意だ。神様がいうように、もう一人のトキくんは、それでもターコイズのトキくんを支え続けているのだから。
授業中、机に引っかかったところのピンクがびろびろになってしまっているのが気になって仕方なかった。今まで着心地なんて気にしたことなかったのに、伸びたところがすごく変に感じる。帰り道も、家で夕飯を食べてるときもお風呂に入るときも、気になって仕方ない。
お風呂あがりに姿鏡で確認したら、全体的にピンクが歪んでいるように見えた。歪だ。歪ってやつだ。急に泣きたくなった。歪だ。私だけのピンクなのに。
神様に電話する。
「ピンクがびろびろで歪になっちゃった。トキくんには沈黙が如くだと思って言わないでいたのに、私だけの感情が歪になっちゃった」
「ほう!解読不可能ですが、神様は飛ぶことができますよ」
窓が開いたような、開かなかったような。
神様が、ワイングラスを持ったまま目の前に現れた。
「神様ってワイン飲んでいいの?」
「赤ワイン、溢れるかと思いました」
神様は、グラスを私の勉強机に置く。
「どうしたいですか?」
「わからないけど、このままじゃびろびろがもっと大きくなっていく気がする」
「うーん」
「一回脱いでみる」
右足の小指のピンクをつまみ、切れ込みを入れてそろりそろりと脱いでいく。最後に頭が引っかかって苦戦してるとき、日向みたいな匂いがしたから、ああこれが私の匂いだったんだなと思った。
脱いだピンクは、動かない。私と全く同じ輪郭なのに。謎に少し湿っている。
地面に置いておくと形が崩れそうだったから、少し風に当てるためにもハンガーにかけてベランダに干した。
「いい輪郭ですね」
「輪郭にいい悪いってあるの?」
「いい輪郭ですね、と、もう一人のあなたが言っています」
ぶわっと強い風が吹く。
ガシャッと音がして、ハンガーから外れた私のピンクが風に攫われた。
「私のピンク!」
「あ、泳いでいるみたいですよ」
ピンクは、夜を泳いでいるように、踊るように、ひらひらと舞って遠くにいく。
「悔しいけど、確かに泳いでるみたい」
「どんな気持ちなんですかね。私も飛べますけど、あんなに楽しそうに飛んだことはない」
楽しそうだ。私のピンクは、口の部分をぱくぱくさせて、笑っているような顔をしてどんどん飛んでいった。ピンクは、私から早く離れたかったのだろうか。私のピンクは、私のピンクじゃなかったのだろうか。
朝になって教室に行くと、トキくんは私を見て「あ!」と言った。
「ピンク、脱いだんだね」
「でも私、ピンクがよかった」
トキくんは何も言わない。
私は、握り締め続けてピンク色に染まった指の関節をずっと見ていた。
<了>
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