鬼殺隊の『文明論』
冒頭の絵は、進行形の現在の社会の姿を風刺画として筆者(KITAKAZE)が描いたものです。風刺画ですので、色々な皮肉を織り交ぜたのですが、皆様はお分かりになりますでしょうか? この絵の見え方は、個人の嗜好や知識の方向性によっても変わってくると思います。
人間はある意味で、「皆」が、「知識の檻(おり)」に閉じ込められている側面があります。一度、ある種の思考パターンが身についてしまうと、中々、そこから抜け出せなくなってしまいます。その様に感じた経験のある皆様も多いのではないでしょうか。勿論、筆者もその一人だと自覚しています。心理分析に使う「ロールシャッハテスト」は有名ですが、このテストに使われる画像の「見え方」は、人によってかなり異なります。その原因は、個人の心理的な特徴(性格や嗜好)に加えて、「知識」(ある事を知っている or いない)なども大きく影響するのでしょう。このテストでは、一度ある見え方が出来上がってしまうと、人は中々そこから抜け出せなくなってしまいます。当たり前ですが、自らが「見た事も無いものに見える」という事は無い筈です。つまり、「知識」が無ければ到達できない「物の見方」があると同時に、「知識」があるからこそ「それに囚われてしまう」という側面もあります。
これは、筆者の以前の記事にも書いたのですが、現代社会は複雑な分業体制によって支えられていますので、皆、自分の限られた専門分野や担当業務に関しては、必要に迫られてという側面もあり、一般的にはその担当範囲の「知識」を深めていくのが普通でしょう。しかし、ひとたび自分の専門分野の外の事になると、特定の分野では「専門家」や「先生」と言われる様な方々でも、他の「素人」と大差ない知識しか持ち併せていないという事は往々にしてあるのではないでしょうか。
<参照>
拙稿:「鬼滅の刃」の「無限城」とは何か?
また、かなり知識の範囲の広い方であっても、やはり人間には、一定の「好きな分野」や「強い分野」がありますので、その方向での知識の強化に走り、言わば「自説の補強」ばかりをしているような部分もある訳です。
ところで、物事の「深み」というのは、ある意味では「無限」にある訳で、そこら辺に転がっている「石ころ」だって、「無限の深み」を持っています。「石ころ」の「素材」一つを見ても、鉱物としての「組成」の話、その「組成」を構成する「分子」や「原子」の話、「原子」を構成する「素粒子」の話などが派生してきます。「素粒子」に関しては、現代の最近の科学でも、良く分かっていない事が沢山あります。「素材」だけでなく、「石ころ」の「物性」の話だって深い奥があります。「石ころ」の「硬度(堅さ)」や表面の「粗さ」といった物理的な性質も、実際に調べてみるまでは正確には分かりません。「重さ」や「体積」だって正確には分かりませんよね。
また、こうした「物質的な側面」だけでなく、「物の見方」という「情報的な側面」もあります。自分が見た「石ころ」の姿は、自分が見た方向からの姿であって、その「石ころ」の裏側の姿は、反対側を確認して初めて明らかになります。実際に確認するまでは、「石ころ」の裏側の姿は、「無限の可能性」を秘めている事になります。こういう事は、人間関係にも当てはまりますよね。例えば、ある男子大学生が自分が好きな女子大学生に告白したとします。実は、告白された女子大学生も、彼の事が密かに好きでした。しかし、その彼女は、翌月から長期の海外留学が控えていた為に、ぐっと堪えて嘘をつき、「自分には付き合っている人がいる」と返事しました。その後、あるきっかけで男子大学生は、彼女には付き合っている人など居なかったと知り、嫌われていたのかとショックを受けてしまったとします。この場合、彼女が放った言葉の事実は「一つ」です。しかし、見る方向によって「嫌われて嘘をつかれた」、「好きだから優しい嘘をついた」という「対立する解釈」が生じ得ますよね。また、この当人達とは別に、彼らの友人などからの「視点」を想像してみれば、「実際に好きではなかったら、面倒なので嘘をついて逃げた」とか、「自分が留学するとしても、引き下がらずに好意を寄せてくれるかテストした」とか色々な解釈が出てきそうです。
我々日本人は、学力テストの結果の国際比較などを見ても、世界の中でも比較的高い知能を持っている様に見えます。しかし、先程の大学生のケースの様な一定の「事実」から本当の「真実(意味)」を見抜くような事は、国際的に見ても、日本人は、かなり弱いのではないかと筆者は感じています。一方で、この様な事実や可能性を積み上げて、そこから「真実」を見抜く事は、外交の世界ではとても大切な様です。米国のCIAの様なスパイの活動は、映画の様に派手な方法(戦闘を伴う強奪、忍者のようなアクションによる潜入など)によって「真実」を獲得しているのではなく、一見すると「平凡」な情報を収集して積み上げ、「真実」としての「可能性(選択肢)」や「確度(確かさ)」を探るような情報収集活動を行ってきた様です。もっとも、現代では、そうした活動は、インターネットや人工知能を活用して非常にスマートに行われているのでしょう。しかし、だからと言って、このような「真実(意味)」を「人間」が見抜く事の重要性が意味を失う訳ではありません。例えば、人工知能を用いれば、ある「言葉」の持つ「表の意味」や「裏の意味(例えば隠語)」までも、その「言葉」との関連付けを行う事によっ膨大なデータから抽出し、大衆の心理分析などに繋げる様な事は簡単にできてしまうでしょう。しかし、ある「言葉A」と「言葉B」を組み合わせる事によって初めて、「言葉C」を表す可能性が生まれる様な場合、その可能性は無限に近く広がってしまい、事前に「真実(意味)」に気付いた人間が、その様に人工知能を教育する事でしか「真実(意味)」には「到達」できないと思われます。しかも、「言葉」だけではなく、「画像」に意味を持たせ、「画像A」と「画像B」を組み合わせて初めて「言葉C」が浮かび上がるような事もあり得る訳で、こうした事は、いくら人工知能を使ったところで、「真実(意味)」に到達するのは難しいと思います。※実は、この手法を用いたのが、「鬼滅の刃」という作品です。
<参照>
※ 時透無一郎の暗号<コンブ頭の秘密>
「情報」をいくらかき集めても、こういう事が分からなければ、「無意味」になってしまいます。それどころか、それを「誤解」する事によって、逆に大きな「打撃」を受けてしまう可能性もある訳です。また、「諜報戦」においては、例えそれが「真実」であるにしても、殊更に一つの「真実」ばかりを強調し、別のもっと重大な「真実」から目を逸らさせるという事も良く行われます。米国のCIAは、日本語では「中央情報局」と訳されますが、これは英語では、「Central Intelligence Agency」と書きます。「Intelligence」は、「情報」では無く「知性」を意味します。単なる「情報(Information)」とは異なる、「知性」の重要性が分かっているからこそ、この名称を与えたという事なのでしょう。
世の中の知識人には、こうした事を分かっている方も多々おられますが、「腹の底」から分かっている方は、筆者は、稀有である様に感じています。現代の社会は複雑な分業体制で成り立っている事を前述しました。これは、「専門家(スペシャリスト)」と呼ばれる方々を生み出す事になります。これとは逆に、複数の分野を取り纏める「ジェネラリスト」という方々もおられます。社会で起きる様々な問題は、社会システムや技術、自然環境などの複合的な要因によってもたらされる事も多いですから、政治家などには、こうした「ジェネラリスト」としての能力が求められるのでしょう。筆者は、このどちらかに優劣がある様な事は決して無いと考えていますが、この両者は、しばしば、お互いを貶し合い、それと同時に、この両者の双方が、そのどちらにも属さない普通の庶民を「小馬鹿」にしているのを強く感じています。しかし、今般のコロナ騒動において、表面的な知能の高い人物が必ずしも「本当の意味で賢かったり」、「精神的に高潔である」という訳では無く、むしろ「逆」であると感じた方も多いのではないでしょうか。人間には、生まれ持った身体や脳の特徴があり、また、生まれた家庭環境や、先生、友人との巡り合いなどもあり、その多くは「運」が左右します。余り多くを学ばなくても、「一を聞いて十を知る」人もいれば、一を聞いても、0.5も理解できない人も多いでしょう。筆者もその一人だと思います。中には、物事を深く考える能力が「高すぎる」余りに、その一(いち)を簡単には吞み込めない人もいるでしょう。また、現代社会で特に評価されている記憶力や計算力などの部分的な能力は、それが得意な人々にとっては、非常に有利に働きます。学べば学ぶ程に知識が深まり、それが社会的な評価にも繫がりますから、強い「動機付け」も働き、本人は、増々努力して知識を深めていける事に繫がります。一方で、それらの能力が生まれつき劣っていたり、環境にも恵まれなかった人々にとっては、そうした事を学ぶのに「強い苦痛」が伴います。本人は努力していても、平均的な人にもついて行けず、社会的な処罰(叱られたり、馬鹿にされる)さえも受ければ、本人は自信も失い、やがて学ぶのを止めてしまうでしょう。こうした客観的な現実さえ理解できずに、いや、理解していた上でも他人を「小馬鹿」にするような人物が、社会の上層部に多く存在しているのが今の世界の現実だと思います。いや、これは昔から不変の摂理でしょうか。
ところで、「スペシャリスト」の方々は、社会の複雑さを見渡せていないケースがしばしば有ると言われます。逆に、「ジェネラリスト」の方々は、物事の深みを軽視しているケースがしばしば有ると言われます。この事に気付いている方の中には、その両方を目指して、ただひたすらに知識を吸収する事が重要だという非常に極端な主張をされる方もいます。そういう方々は、知識を持つ者こそが「至高の存在」であるという傲慢な考えに至りがちです。有名なドイツの哲学者の「ニーチェ」は、「超人」という思想を唱えました。「超人」は、現実の「生」に忠実な存在で、自らの「生」の為に、既成の価値を破壊して新たな価値を創造し、一般の人々からは「悪魔」と罵られるが、「神」に代わって人類を支配する「高貴な存在」とされています。この思想は、ナチスドイツにも多いに利用されましたし、現在の世界的な某経済団体の思想に極めて近いものを感じます。こうした思想は、ある種の「知識の高み」に到達した人間に特有の「自己陶酔」を感じさせ、「民族」や「宗教」では無く、「知識」や「共感」に基づいた一種の「優性思想」であると考えています。
そこまでは行かなくとも、世の中には、「内省する能力」などの大切な能力よりも、記憶力に基づいた「知識」ばかりを偏重する方もおられます。人間は、書物などからの膨大な知識が無ければ内省できないという訳ではありません。人間は、人生の中で本当に多様な経験をしますから、その経験を生かして「多様な角度」から物事を学べる機会は豊富にあります。実際に、「釈迦(ガウタマ・シッダールタ)」は、哲学書を読み漁って「真理」に到達した訳では無く、「苦行」を経て「瞑想」の末に到達したとされていますよね。知識の吸収ばかりを偏重すれば、それに多くの時間を奪われ、「内省の時間」を失っている側面もある訳です。ましてや、「自説の補強」に走りがちなのが人間ですから、知識を吸収している間は「なるほど!」「なるほど!」と悦に入りながら寧ろ「自分を盲目にしている」可能性すらあります。
「物の見方」の話を本稿の冒頭でしましたが、「情報的な空間」には「無限の広がり」があります。それに対して、生身の人間は、「能力」や「寿命」も限られた、非常に「有限な存在」です。にも拘わらず、「知識の吸収」だけを進めれば、それにどのような深い含蓄があるかも良く考えずに、「知っただけで学んでいない」という状態で終わってしまう可能性がある訳です。
古代ギリシャの哲学の父と言われるソクラテスは「無知の知」を唱えました。これは一般に、「自分が無知である事を知り、ひたすら貪欲に知識を吸収する事が大切である」という意味として理解されていると思います。しかし筆者は、ソクラテスが本当に言いたかったのは、「学ぶ事はとても大切ではあるが、例えいくら学んだとしても五十歩百歩で、人間は所詮は無知であり、人は常に物事や他人に対して謙虚でなければならない。そうした者のみが、より真実に近づける可能性を持つ。」という事であろうと解釈しています。ソクラテスの妻の「クサンティッペ」は悪妻として有名ですが(世界三大悪妻の一人です)、この事を理解しているからこそソクラテスは、この奥さんと暮らしていたと筆者は考えています。
更に、これは理系の方に有りがちな思考パターンですが、「数学」などの純粋論理の世界は、実験等によって確認する必要も無く、多くの人が頭で思考する事によって検証できるので(実際には、高等数学などの世界は、世界で数人しか理解できない様な世界であり、これも確かでは無いのですが)、これが「究極の学問」であるかの如く主張する方もおられます。しかし、数学というのも、所詮は認識能力に限界を持つ「人間という存在」が生み出した概念をルール化した道具であり、これが究極の学問であると言う明確な根拠など、どこにもありません。勿論、物事を「予測」したり、「評価」したり、「効率化」したりする為には非常に便利な道具であるのは「事実」でしょう。しかし、これによって物事の究極の「真実」に到達できるというのは見当違いだと思います。何かの「真実」に近づく為に、先ず人間が「仮説」を立て、数学という道具を使って確かさを「確認」したに過ぎません。これは、冒頭でお話した「大学生の恋話」と同じで、「仮説」の検証に利用した「計算式」は「一つの事実」なのでしょう。しかし、それが、「究極の真実」を表しているのかどうかは、ある意味では「誰にも分からない」のです。そして、その「仮説」は、他の有力な「仮説」の登場によって、しばしば簡単に覆るものです。数学というのは、現実の世界に応用して初めて意義が出てくるものです。勿論、現時点で現実世界への応用方法が見つかっていない様な非常に高度なレベルの数学でも、将来の現実世界への応用の可能性を考慮すれば、価値は高いのでしょう。しかし、これが本当に数学の世界の中だけで自己完結するものであれば、無意味なものに終わってしまいます。本質的には、「数学自体」には価値は無いのです。まあ、それを研究した研究者の喜びには繋がるかも知れませんので、全く無意味とは言えないかも知れませんが。
また、筆者は、現在の数学教育には、ある種の悪意を感じています。数学教育というよりも子供への「算数教育」と言った方が適切かもしれません。現在の「算数教育」では、「数の概念」や「数式の意味」を殆ど教えずに、いきなり「数式」を解く「計算テクニック」を教える事から始めます。「習うより慣れろ」という言葉があります。これは、「人に教わったり本で学んだりするよりも、実際に自分でやってみて慣れた方が身につく」という考え方ですが、今の日本の「算数教育」は、この言葉にも該当しないと思います。今の「算数教育」のままでは、子供は、「数式を解く事」が「算数の本質」なのだと勘違いしてしまい、多くの子供が「算数」への興味を失い、「パズルの様に数式を解く」ということ自体に興味を持てる「その面の知能」に長けた子供のみが、「算数」への興味を維持できるやり方であると考えています。「数の概念」の本質の理解は、なかなか難しい面もありますが、「数式の意味」に関しては、ある程度、理解させる事ができると思います。例えば、「掛け算」や「指数」であれば、「物事の予測」に使えますよね。『一日に十円の「お小遣い」が貰えるとしたら、一年で幾らの「お小遣い」が貰える事になるでしょうか?』といった具合です。こういう問い掛け(設問)自体は見掛けますが、これが「予測」である事をキチンと説明しません。「割り算」であれば、物事の「評価」に使えます。『A君とB君の二人に対して100円の「お小遣い」を渡します。そうしたら、A君は幾ら貰えますか? B君は幾ら貰えますか?』という具合です。この問い掛けには、「物事の評価」と同時に、「数の概念」の本質(A君とB君は平等か)の理解に繫がる側面も含まれます。こういう事をじっくりと丁寧に教えずに、「数式を解く事」を偏重した教育を行う事は、工業製品を生産する道具(マンパワー)としての「使える馬鹿」の「選別と育成」には役立つのかも知れません。しかし、それでは、「物まね」は出来ても、「今の時代の流れの本質はどこにあるのか?」という事を見抜き、「本当に革新的な製品やサービス」を生み出す事には繋がらないでしょう。
筆者は、ここ数十年の日本経済の没落の要因の一つは、外部勢力からの「戦略的な封じ込め」を受けた部分も非常に大きいと思いますが、それと共に、「数学」に限らず、多くの「教育分野」で、「物事の意味」を教えずに、「暗記力」ばかりを問うような「異常な教育」が行われてきた事も大きな要因であると考えています。この事は、「分かっている人は分かっている筈」です。筆者は、ここには「明確な悪意」が存在していると思っています。
さて、話は変わりますが、日本は、第二次世界大戦で大きな敗北を喫しました。この敗因を分析する研究も、沢山存在しますよね。主要な分析としては、
・圧倒的な国力の差(工業力、科学技術力など)
・ロジスティックス(兵站)の軽視
・地政学的要因(石油不足など)
・前線の拡大による戦力の分散
・各戦線での戦術的な失敗
・先行した外交的な敗北(戦争突入への囲い込み)
・意思決定機構の問題(天皇制、御前会議など)
等があります。筆者は、これらのどれもが一面としては「正しい」と思っています。しかし、これらの事態に至った「真の敗因」を考えなければ、万一、次の戦争が起こった際に、上記の敗因の改善がなされても戦争には負けるでしょうし、そもそも「戦争の発生」を防ぐ事もできないと思っています。
筆者は、「真の敗因」を考える際には、先ず「日本が戦争に突入していった理由」を考え、以下の三つの角度(仮説)から分析する必要があると考えています。
①結果的に敗因となったこれらの問題(上記)の重大性に、事前に気付けなかったという仮説(無知説)
②これらの問題に気付いていても、それを受け入れて是正する文化的な基盤がなかったという仮説(精神文化的貧弱説)
③負けると分かっていて、やる気だったという仮説(「馬鹿じゃなければ分かる事」をやるのはわざと説)
筆者は、「日本が戦争に突入していった理由」は、基本的には、③(「馬鹿じゃなければ分かる事」をやるのはわざと説)であると考えていますが、それを防げなかったのは②(精神文化的貧弱説)が原因であるという説を採用しています。当時の日本でも、海軍の高官であった山本五十六を初め、一定の軍人や多くの外交官は、アメリカを含む欧米諸国への留学経験や駐在経験がありました。そして、有力な経済人の中にも、欧米滞在経験のある人々は一定数は存在しました。彼らは、欧米諸国の国力や科学技術力の「凄さ」や「深さ」を十分に分かっていた筈です。開戦直前に山本五十六は、当時の首相だった近衛文麿(若い頃、マルクス経済学に傾倒していた)に対して、「それは是非やれと云われば、初め半年か1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避するよう、極力御努力を願いたい。」と述べています。軍事のプロが、この様にアドバイスしていた訳です。また、軍の内部でも、有能な若手将校達はその事を認識しており、「日本の敗戦」を予測したレポートを上層部に提出したりしていました。それにも拘わらず、不利な条約の締結などによる「劣勢」を受け容れて「当面は凌ぐ」という方法を採用せずに、「壊滅的な敗北(外国による支配)」に繫がる可能性の高い方法を選択したのです。筆者は、当時の日本の政治的指導層が、日米の基本的な国力の差が分からない程にまでに愚かだったとは考えていません。しかし、結果的には、無謀な戦争に突入する選択をしたのです。そして、開戦当時の記録映像などを見ても分かる様に、「庶民」は簡単に開戦を賛美する方向に誘導されてしまいました。ここで「庶民」が徹底的に「反戦」を唱え、権力者達と闘っていれば、もう少し違った結果になっていたかも知れません。
当時、「大東亜共栄圏」という言葉が、国民を誘導するのに大きな役割を果たしました。この甘い香りの言葉は「アジアを欧米列強から解放する」という、一見すると「大義」にも見える言葉ですが、少し考えれば「ある国を他国から解放するからと言っても、自からが支配する権利も無いだろう!」と、すぐさま「ツッコミ」を入れたくなる言葉である事に気付きます。要するにこれは、典型的な「プロパガンダ」なのです。
ナチスドイツは、国家や国民の「安全と利益の為」という名目で、比較的に裕福であったユダヤ人の「脅威」を煽り、貧しかったドイツ庶民の人気を集めて政権をとりました。つまりは、意図的に「敵」をつくり出し、国民の「恐怖と怒り」を煽って、「権力の奪取」に利用した訳です。これも、典型的な「プロパガンダ」ですよね。
米国の9△△事件の際には、「テ〇リスト」や「テ〇国家」の「脅威」が煽られ、「国家の安全」の為に、国民に対する様々な「規制」や「監視」が強化されました。※米国に渡航する航空機に搭乗する際、非常に厳しい荷物検査の影響を受けた皆様も多いのでは無いでしょうか。
今般の〇〇ナ騒動では、ウ〇〇〇に対する「恐怖」が煽られ、「大切な人の為にも」という名目で、マ〇〇や〇〇チ〇が「国家」により「積極的に推奨」されました。この「大切な他者の為にも」という美辞麗句は、「大東亜共栄圏」と同じ様に、「空気」を読み「偽善」を装う性質の強い日本人には、とても有効な言葉なのかも知れません。※「偽善」は、言い過ぎかも知れませんね。済みません。自虐の意味も込めてます。
お気付きかと思いますが、これはかなり昔から「一貫して続く手法」であり、結局の所、「国民の恐怖」を煽って、国による「監視」や「規制」を強める事を「正当化」する流れなのです。要するに、「社会主義化」を推進する流れです。
〇〇ナ騒動においては、世界的に見れば厳しい〇ックダ〇ンなどが行われた国もありますし、日本を含む世界中で、「テレワーク」が推進されました。筆者は、テレワークというのは、「プロパガンダ」を「浸透させる」には非常に有効な手段であると思っています。国民を「家」に閉じ込めれば、国民同士の「率直な対話」を「遮断」し、「テレビ」や「インターネット」に「釘付け」に出来ます。そこに「恐怖」を煽る情報を「洪水」の如く流せば、どうなるでしょうか。また、対面による対話では無く、「テレビ会議」や「スマホ」等での「対話」に追い込めば、インターネットを通じて国民の反応を分析する事も容易になるでしょう。
更に、「マ〇〇」や「飲食店の仕切り」などは、「恐怖を可視化」する事に、とても役立ちます。庶民の多くはサラリーマンですが、サラリーマンは、居酒屋などで「本音」を話します。「夜の酒場」は、厳しく規制されましたよね。「本音」ベースでの対話を遮断され、「テレビ」や「インターネット」で「恐怖の洪水」を浴びせられ、「リアルな世界」では「恐怖が可視化」された「マ〇〇」が見せつけられる。これがどういう効果を生むかは、「ご想像の通り」だと思います。
「恐怖」というのは、生物の持つ「感性」の中でも、生存に直結する最も「不可欠で根源的」なものである為に、悪意を持って「誘導」を行う際には、「非常に強力な手段」になり得るものなのです。「恐怖」を感じる能力がなければ、生物は、正に「怖いもの知らず」になり、直ぐに敵に襲われたり、危険な場所で傷付いたりして、簡単に死んでしまうでしょう。
その反面、知能の高い生物になる程、「恐怖」ばかりに追い立てられて生きていれば、「精神」が参って病んでしまう事になるでしょう。「精神病」になってしまうのも、知能が高い事の裏返しという事ですね。
知能の高い生物に「楽しい」とか「気持ちいい」という「感性」を天が与えたのは、「麻酔」や「お酒」などの様に、「恐怖」に追い立てられがちな精神を和らげる為の「ご褒美」なのだと筆者は理解しています。それが無いと、生物として上手く生き続けていけないのでしょう。
筆者は、天が人間に与えた「感性」の中でも、「美しい」と感じる「感性」が、人間が「高度な文明」を築いた上で、「決定的に重要な役割」を果たした可能性があるのでは無いかと考えています。「言葉を使う」といった様な能力は、「美しい」という感性までをも持ち、その複雑な感性によって高い知能を獲得した結果として、「鳴き声」の様なものからはじまり、徐々にそれを進化させてきたのだと考えています。
一般論として「理解していないものは評価できない」という事が良く言われますが、この「感性」と言うものが不思議で素晴らしいのは、「理解していない物を評価できてしまうところ」なのだと思います。美しい星空や大自然を見た時に、人間は、本当に感動を覚えます。しかし、なぜその様に感じるのかは、「上手く理由を説明できない」のではないでしょうか。人間以外の他の知能の高い生物を見ても、「楽しい」という感性を持つ動物は多い様に思います。以前に、インターネットで、チンパンジーが人間の手品を見せられて、その不思議さに喜んでいた動画を見た事があります。「不思議さに楽しさを感じる」という脳の働きは、やはり、チンパンジーの非常に高い知能を表しているのでしょうね。しかし、そのチンパンジーを持ってしても、何かの「美しさ」に心を奪われている様なシーンを見た記憶はありません。
ただ、生物の中には、人間が見て、非常に美しい姿をしたものもいます。特に、鳥類や魚類に多い様に思えますが、彼らが美しい姿をしているのは、「繁殖本能」と結びついていて、「美しさ」では無く、彼らにとっては「派手さ(目立つ)」を競っているのでしょう。鳥類や魚類に、そうした種が多いのは、「派手さ」によって敵に襲われても、退避能力(空間移動能力)が高い為に、繁殖の方を優先するメリットがあるからと考えられます。カエルなどの仲間には、「派手さ」を利用して逆に身を守っている種もいます。彼らの多くは、「毒」を持っていたり、「毒」を持った種を真似て身を守っていますが、これは、カエルの退避能力が余り高く無い為に、繁殖を目的とした「派手さ」はメリットよりもリスクが勝るのでしょう。動きの遅い彼らにとっては、「毒」を持って目立つ事が「敵に忌避させる(間違えて襲わせない)」という有効な生存戦略だったと考えられます。
これらの事から、「繁殖本能」等とは関係無く「美しい」と感じられる「美的感性」は、人間若しくはごく一部の生物に固有のものである可能性が高いのでは無いかと筆者は考えています。そして、人間が美しいと感じるのは、「光景」、「形」、「色」などの視覚情報に限らず、「友情」や「勇気」といった「抽象的な概念」にまで及ぶという性質を持っていると思います。しかし、それらの「抽象的な概念」に関しては、人間が生まれつき理解している訳でも無く、教育を通じてそれらの概念を理解した上で、教育や長い人生経験を通じて獲得していく「後天的なもの」であるという事なのでしょうね。人が歳を取ると涙もろくなるのは、生理的な側面だけでなく、こういう側面(腹に染み込む)もあるのだろうと思います。
ある研究によると、日本人は、「不安遺伝子」を持つ人の割合が高い様です。この遺伝子を持つ人は、脳の不安を和らげる役割を持つ「セロトニン」という脳内物質の不足に陥りやすくなります。そうなると、余計に「恐怖の感性」を「ブースト」してしまいそうですよね。日本人に「鬱」や「自殺」が多いのは、これが影響しているという説もあります。「恐怖」を感じやすい為に「自殺」をしてしまうというのは奇妙にも思えますが、「恐怖、不安、落ち込み」といったものから逃れる究極の方法は、「自殺」という事なのでしょう。
ここから分かるのは、日本人は、「恐怖」を煽られた場合に、他の民族よりも更に「誘導」されやすくなる危険性があるという事です。それに打ち勝つ一つの方法は、「情報」や「知識」を活用して、客観的、論理的に判断すると言う事が挙げられます。しかし、戦争の話に戻しますと、例えば、外国勢力や戦争を遂行したい為政者は、国民を誘導する為に、判断の材料となる「基礎データ」を「改竄」する可能性もあります。こうなってしまうと、逆に、「知識」があるが故に誤った判断をする事に繫がってしまう事になります。筆者は、そういう時に役に立つのが「美的感性」なのでは無いかと考えています。「美的感性」に基づいた嗅覚を日頃から研ぎ澄まして「情報」を集めていれば、「誰が言っているのか」、「何を言っているのか」、「どういう状況で伝えているのか」と言った事から、情報の「信頼度」が分かる様になり、何か不自然なものを感じれば、「この話には何か裏がありそうだ」というリスク回避の行動に繋げていける可能性が高まる様に思います。
また、目の前の話だけで無く、そもそも我々が、日頃から「美的感性」を大切にして、それを社会の隅々で実践していれば、「プロパガンダ」を流そうにも、それに協力する人間は圧倒的に減る筈です。また、例え流せたとしても「内部告発」する人間も出てくるでしょう。ごく僅かな人間による「口コミ」などでは、そんなものは威力を発揮できない訳です。また、「プロパガンダ」を流そうとする人間自体を生み出す確率を減じられる可能性もあります。場合によっては、人間は、それと気付かずに悪事に加担させられている事もあります。こういう場合でも、周りで「声」を上げている人が出てくる可能性がある訳です。「謙虚でいる」という「美的感性」を失い、己が一番正しいという「傲慢」に陥ったり、他者への「共感」を失った「無関心」に陥れば、そういう人間に耳を貸す事もなくなるでしょう。「声を上げる」という行動にも、「勇気」を美しいと感じる「美的感性」が必要になります。「価値」があると思うから、やれる訳ですよね。こういう事の積み上げがあれば、第二次世界大戦の結末は、もう少し違ったものになっていた様に思えます。
人類が長い歴史の中で、一見すると実利には繋がらない物も含めた「芸術」を脈々と受け継いできたのは、それが自らの「安全保障」や「健全な文明の発展」に役に立つという事を意識的にせよ、無意識的にせよ感じていたからなのでしょう。「美的感性(美しさに感動する心)」は、文字や口頭だけで伝承された「戒律」や「道徳」に従うような「自制の心」とも異なります。それには「情熱」が伴いません。自分の悪事を抑え付けるだけになってしまいがちです。それだけでは、自らは悪い事もしないが、必要な時に積極的に「声」を上げる事もしないという、為政者にとっては、とても都合の良い人々を生んでしまう可能性もあります。そうでは無くて、必要な時に「勇気」を持って「声」をあげたり、「勇気」ある人間を蔑むような言動する人をキチンと「非難」する事ができるのは、「勇気」をはじめとした「美的感性(美しさに感動する心)」を豊かに備えた人なのではないかと思います。これを持たない人は、結局、無関心であったり、様子見するだけの人になってしまうでしょう。そういう人が大多数であれば、結局、「プロパガンダ」によって作られた「空気」に流されてしまう事になると思います。
「勇気」などの抽象的な概念への「美的感性(美しさに感動する心)」は、後天的に獲得されると前述しました。これが完全に先天的なものであれば、運任せになってしましますが、後天的なものであれば、教育によってそういう人間を育んでいけそうです。では、そういう人間をどの様に育んでいけば良いのでしょうか。
何やら、「鬼滅の刃」とは無関係そうな話を延々と続けてきた様に見えますが、そんな事もありません。「鬼殺隊」のメンバーには、様々な人がいます。「鬼殺隊」には階級制度がありますので、末端の階級から頂点の「柱」まで強さも様々です。実力による階級制度ですから、頂点の「柱」まで行ける人はごく僅かです。「柱」には、性格的には非常に癖の強い変わった人物が多いのですが、彼らに共通している事は、皆が自分なりの「美学」を持ち、死を恐れずに自らを犠牲にして敵に立ち向かっていく「勇気」を持っているという事です。彼らは、ただ「部下」に命じている訳ではないのです。自分が優しい心を持っているだけでなく、他人にも優しくできる為には、時に「勇気」を必要とします。「白けムード(大人になれ)」が支配する現代では、具体的な被害は受けないにしても、単に「正義」を主張する事にさえ「勇気」を必要とする雰囲気があります。「恐怖」に対する感性は生物にとって非常に強いものであると述べました。その様な宿命の中にある我々ですが、その「恐怖」に「対抗」する概念こそが「勇気」であり、「勇気」があればこそ、他の「美的感性」も生きると言う側面がある訳です。ですから、「勇気」というのは、実は、非常に価値の高い「美的感性」なのです。ところが、現代では、この「勇気」は、時に「蛮勇(大人になれ)」として、寧ろ蔑まれる向きがあります。本当にただの「蛮勇(愚かで無鉄砲な考え)」であれば確かに問題がありますが、昨今に使われる「大人になれ」は、単に「同調」に引き込む為の卑怯な「用語」として使われがちです。これは、実在する「陰謀」を「陰謀論」として一般化してラベリング(頭のおかしい人の考え)する便利なやり方と同じ類のものです。筆者個人としては、戦後の日本においては、特に「勇気の育成に繫がる教育」が、排除される方向に強く仕向けられてきたと感じています。これが、非常に価値のあるものだからです。「勇気の教育」には「スポーツ」があるでは無いかという方もおられるかも知れませんが、どうでしょう。元々「スポーツ」をやっていた筆者としては、それは逆に、「主従関係」と「空気を読んで忍耐する事」を刷り込む為のシステムにしか思えませんでした。「勇気の重視」が疎かになる一方で、「勇気」を持つ事を「諦め」させる「空気を読めない(KY)」などと言った、言い回しとしては先に述べた「陰謀論」という言葉と同類の「用語」が、マスコミを通じて意図的に拡散されていると考えています。※勿論、中には、「勇気」を大切にした教育を心掛けている方々もおられると思います。筆者が述べているのは、国全体としての空気です。
さて、「鬼滅の刃」の「柱」の中で、視聴者を特に感動させたのは「煉獄杏寿郎」ではないかと筆者は個人的に思っています。彼の見せた、軽々しい口先によらず「自ら」が率先して命を懸け、「信念を貫く姿を後輩に示し、鼓舞する」というやり方に、我々は学ぶところは大きいのでは無いでしょうか。悪に染まる人間が、皆、子供の頃から根本的に「ワル」だったという事でも無いでしょう。何らかの社会の不条理に揉まれて、目に見えた「ワル」に傾いたり、目先の「打算」に傾いたりしてしまうケースも多い筈です。しかし、「煉獄杏寿郎」の様な「大人(特に親)」の姿を見ている子供は、多少の不条理に揉まれても、簡単に悪に傾いていってしまう事は無くなるのではないでしょうか。こういう姿勢(勇気、正義感、責任感、思いやり、自己犠牲)を我々大人が子供達や後輩の前で「真剣に自ら示す事」が、次の世代により良き文明を引き継ぐ為には不可欠であると思えます。子供だって、「馬鹿」ではありません。「口先だけの大人」を信用する事は無いでしょう。いつの時代も、どこの国でも「近頃の若者は」と大人が嘆くのが常である様ですが、本当に嘆かわしのは、結局口先だけで行動しない我々「大人たち」だったのでしょう。
また、「カタルシス」という言葉があります。これは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが、著書の『詩学』中に記した言葉で、「浄化」を意味します。アリストテレスは著書の中で、「悲劇が観客の心に怖れ(ポボス)と憐み(エレオス)の感情を呼び起こす事により精神を浄化する効果」として説明しています。人間は、本能的にも、「恐れ(恐怖)」が、どれほど人間にとって「苦痛」であるのか分かっている筈です。だから天は、人間に対して、「恐れ(恐怖)を抱く他者に対して自らは憐みを抱く」という「感性」を与え、それによる「互助」が結果的に集団を守り、ひいては、それが個人の「利益(生存)」にも還元されるという「仕組み」を与えたのでしょう。「情けは人の為ならず」という言葉がありますが、この言葉は、「鬼滅の刃」の中にも登場します。この言葉は、一般的に、「人に情けを掛ける事は、巡り巡って自分に還ってくるのだから損は無い」という様な打算的な意味に解釈される事が多い様に思えます。最終的には、確かにそういう事なのでしょうが、元々の意味は、「人に情けを掛ける事で自分の心が豊かになる部分があるのだから、それ以上は望むまい」という事を伝えているものと思います。これは正に、この天が与えた不思議な「仕組み」を表しているのでしょう。この不思議な「仕組み」は、人間だけでなく、一定の知性を持つ生物には組み込まれている様です。筆者は、インターネットで、堀に落ちたカラスを熊が助ける行動を取る動画や、食料として人間に首を刎ねられそうになったアヒルを犬が助ける動画を見た事があります。ですから、「憐み(慈悲)」は、一定の知性を有する生物に与えられた先天的で非常に強い「感性」なのだと考えています。人が本当に「勇気」を奮い立たせる事ができるのは、自分自身の為や単なる掟の為では無く、「他の誰かの為」なのではないでしょうか。アリストテレスが言う様に、演劇などによる「悲劇」の鑑賞でも、人は「魂」を揺さぶられます。ですから、特に子供の頃に、優れた「悲劇」を鑑賞しておく事は、非常に重要な「体験」であると筆者は考えています。これは、「人が指導して教える(狭義の教育)」というよりも「感じて貰う(体験)」と表現した方が適切であろうと思います。この点、最近の子供向けのアニメなどでは、「教育的配慮?」から「悲劇」を伴うシーンが削除されがちで、非常に残念に思っています。もしかすると、ここにも、何らかの「悪意の影」があるのかも知れません。その点、「鬼滅の刃」は、「悲劇」のシーンもキチンと描写されており、本当に素晴らしい作品だと「感じて」います。
皆様は、『アルジャーノンに花束を』という小説をご存じでしょうか。筆者は、この小説が、人間のそうした心の素晴らしさに迫り、かつ、読んだ人の魂を揺さぶる非常に優れた作品であると感じています。まだ読まれていない方には、是非、お勧めです。米国の作家ダニエル・キイスさんの作品ですが、日本では、早川書房さんから日本語版が出版されています。
但し、「憐み(慈悲)」の「感性」を大切にする一方で、それを「邪(よこしま)」な心を持つ勢力が「悪用」する可能性がある事には十分に注意しなければならないと思います。前述した「大東亜共栄圏」という「プロパガンダ」と同じ手法ですね。最近のユーラシア大陸の某軍事大国とNATOを後ろ盾にもつ小国の間の戦争に、筆者は、正にこの構図を感じています。当該小国には、世界中から膨大な支援金が寄せられましたね。「憐み(慈悲)」の「感性」を大切にする一方で、全ての「美的感性」や「知識」を総動員して、それが「迫真の悲劇」では無いのかどうかを見抜き、「憐み(慈悲)」の後に続く「行動」には、余程の「慎重を期す」必要があると思います。ご存じ無い方は、「ナイラの涙」という言葉をインターネットで調べてみて下さい。筆者の伝えたい意図がご理解いただけると思います。「憐み(慈悲)」に基づく「行動」によって、自ら「別の悲劇」を引き起こすという「喜劇」ほど、笑えないものはありません。この様な事を仕組む勢力は、「真に邪悪」な勢力であると思います。
さて、先に述べました日本の「教育の異常性」に関しても、皆がもっと強く「声」を上げれば、変えられる可能性もあった筈です。そして、その異常性に気付くのも、「待てよ。こういうやり方だと、普通に考えても、こういう人は不利になるよね。」などと言った、自分の立場だけに囚われない「思いやり(憐み、慈悲)」という先天的な「感性」から出発した「公正」という「正義」に係る後天的な「美的感性」があればこそでしょう。ひいては、それが「健全な産業の発展」にも繋がっていくという事ですよね。
我々日本人が「恐怖」に流されやすいという特徴があるのであれば、なおさら「美的感性」を大切に育んでいかなければならないのでは無いでしょうか。こういう大切なものを、何やら「裏」のあるかも知れない「道徳教科書」や「絵画や音楽の授業」などとして形骸化した形で子供達に放り投げるのでは無く、どうやったら子供達の「腹」に染み込ませる事ができるのか、我々は、本当に真剣に再考しなければならない局面にきていると思います。この事は、学校教育だけでなく、「家庭教育」では尚更重要になってくると思われます。
明治維新以降、我々日本人は、「産業化」に関しては一定の成果を出したのでしょう。しかし、その半面、庶民は、職場での「仕事」や「人間関係」に関する思考で殆どの時間を奪われ、自身にとって「大切な事」を思考したり、子供達にとって必要な事を教えたりする時間的余裕そして精神的余裕を失ってきたと思います。一方、「農業」などの仕事は、大きな目で見れば「非常に奥の深い仕事」であるものの、個別の作業自体は比較的に単調であり(肉体的にはハードな作業は勿論多いです)、作業をしながら考える「心の余裕」を持てます。筆者も家庭菜園程度ですが、農作業をしていますので、その事は良く分かります。と言いますか、寧ろ、農作業をしている時に非常に良いアイデアが湧いてくる事が多いのです。散歩中に良いアイデアが浮かぶ人も多いですが、身体と脳の繫がりから、そういう事は起きるのでしょうね。そういう意味では、庶民の大部分が農民であった維新以前の時代の方が、庶民は「内省する時間」を持て、精神的には余裕のある側面もあったと思えます。但し、不作による飢餓や貧困といったの別の大きな苦痛は、勿論あったでしょう。
これまで延々と述べてきた内容を手短に表現すれば、明治以降の日本人は、「産業化」の流れの中で、次第にお金の奴隷になっていき、政治、経済、教育などの広い分野で社会をリードしていくべき階層を含む多くの国民が「精神文化的に貧弱な状態(つまり、美的感性の弱体化です)」になってしまった事が、戦争と敗戦を初め、現在でも多くの問題の「真因」になっていると纏めたいと思います。
だとすると、更に遡って「精神文化的な貧弱」の原因ともなった「産業化」を抑制すれば解決するのか?という問題に突き当たります。「産業化」は、労働者にとって生活に必要な賃金を与えてくれるのは勿論ですし、それによってもたらされる工業製品やサービスは、我々を苦役(重労働)や面倒から解放し、生活を楽にしてくれる側面もある為、どちら(抑制 or 促進)を優先するのが良いのかというジレンマも出てきます。この点は、「産業化」の基礎となる「貨幣制度」に大きく関わる問題であり、別の記事で論じていく予定ですが、何れにしても現時点では、この仕組みの中に囚われている以上、それに耐える方法を模索しながら、「精神文化的な復興(美的感性の回復)」を目指していく他に無いと思います。「貨幣制度」の問題の解決への道も、そこから出てくる事になるでしょう。「鶏が先か、卵が先か」の様な水掛け論では無く、「牢獄に囚われており、釈放(天から降ってくる)が期待できない以上、牢獄を住みやすい住居に変えるか、牢獄を破壊して脱出をする以外に無い」と言う事です。
正直に告白すると筆者は、日本人が「全体」として「精神文化的な復興(美的感性の回復)」を遂げていくのは、もはや無理であり、近い将来に大きな破綻に陥るのは避けられないだろうと思っています。しかし、破綻に陥るにしても、その陥り方があり、少しでもマシな方向(ハードクラッシュでは無く軟着陸)に繫がればと思い、記事を書いています。
我々人間は、自分と同じ様な価値観の人の中で「ぬるま湯」に浸かっている方が、心地よいものです。かなり年長になっても、その事のもつ危険な側面が良く分かっていない人が多い様に感じます。筆者自身も、そういう側面から逃れられない部分はあると思います。しかし、上に立つ者が、「軽々しい口先」を使って「自分のコピー」の様な部下や子供を育成し、それによって「自らの楽園」や「保身の牙城」を築く事にかまけていては、日本の未来は、第二次世界大戦の頃と余り変わらないものになってしまうでしょう。「淡成甘壊」という言葉が有ります。これは、中国の古典の『礼記』の有名な「君子の交わりは淡きこと水の如し」という一節に由来する言葉ですが、筆者は、この言葉を大学の卒業時に恩師から贈られました。当時のとても若かった筆者は、この意味を、「多忙で偉大な先生なので、卒業生して間もない未熟な存在を相手にしている暇は無いという事だろう」と、とても軽々しく考えていました。しかし、自らが老いてきた今頃になって、この言葉の持つ本当に深い「意味」を噛みしめています。
最後まで読んで下さった皆様に、「鬼束ちひろ」さんの曲を捧げます。
https://www.youtube.com/watch?v=iyw6-KVmgow
(終わり)
「鬼滅の刃」、「刀鍛冶の里編」
#鬼滅の刃 、 #時透無一郎、#エッセイ
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