ナカノシマジャンクション#3
<水車町の練習場>
窓の外側では小雨がぱらついていた。マンションの中層階の窓際で太一はパソコンのモニターと向き合っている。旧式のデスクトップパソコンは筐体の中からハードディスクの駆動音が鳴り響いている。処理の遅さにはもう慣れていて操作しながら別な何かを考えているときには返ってちょうどよいくらいだった。ショウジン川沿いの緑地公園で集まってきた近所の園児達に即席で創作ダンスを披露した休日の昼下がりから5日ほど経っている。アルバイト先のシフト勤務を挟んで自宅か公共体育館内のジムで短めな基礎練習と筋トレをした以外に踊りらしい動きをしていない。まだ一週間と間を空けていないが踊り手としての繊細な感覚は徐々に遠ざかり始めていた。想定外のトラブル続きだったとはいえ、先週まで通い詰めていた舞台稽古が遠い日の思い出のように懐かしい。太一は踊り手としての身体の感触に飢えていた。その代わりに無意味なネットサーフィンに費やす時間と一緒につい手が伸びてしまうスナック菓子類の消費が捗る。事の次第が気になってSNSを開けて見たものの、あれほど紛糾していた熱い議論も今では跡形もなく静まり返って入れ替わりに内輪の些細な揉め事や他愛ない噂などで埋め尽くされていた。中途で頓挫したまま音沙汰のない今回の公演はすっかり過去の出来事のように忘れられてしまいそうだ。仲間内の間でも今回の案件は早々に見切りをつけて次に控えている別な公演を目指して準備を始める者もいそうだ。そうなればいくらマイペースな太一でもそうのんびりはしていられない。次の公演の出演枠は早い者勝ちに等しい。たとえ目立たない後列の端であっても出演さえできればプロの踊り手として実績が加算される。このままでは立ち消えそうな今回の公演が太一にとって格別だったのは主演の次に重要な主要な踊り手の一員として指名されているからだ。仲間内のSNSではすでに次の公演に向かって話題の中心が移行しようとしている。心の内では焦燥感に駆られそうになっていても今の太一には為すすべは殆ど無くただ見守っているしかない立場だった。結論が先送りされる程に募る不安や次々と沸き起こる疑念を振り払うために浪費する時間とともにスナック菓子の空き袋とジュースの空らボトルが増えそうだ。一縷の望みを託して残されている僅かな希望を見失わないでモチベーションを持ち続けるしかない。
アルバイトのシフト勤務に明け暮れて数日が経って曲がりなりにもプロフェッショナルの高みを目指していることさえ自意識から薄れかかっていた頃にごく親しいグループの仲間から連絡があった。
:ヤマモトカンスケ
こちらで失礼します。太一君へいろいろお知らせしたいことがあります。まず残念なお知らせからお話します。チームXYZのメンバーが今回の公演は不参加とすることが決まりました。これで主力となるメンバーが相当減ることになります。オレも個人的には引き止めるよう説得にあたっていましたが彼らが所属する事務所が決定したのでもうどうすることもできません。XYZのメンバーも残念がっていましたが仕方ありません。彼らの不参加によって演目の規模とかシナリオ内容の見直しは避けられない状況です。
まだ良い知らせとは言えませんが、まだオレ達として希望を持てるような話が聞こえています。これについてはまだ何とも言えない状況ですが、どうやら公演の中止だけはないようです。とはいえ大幅な見直しは必須でしょうから当分の間は延期か待機になると思われます。いずれにしても近いうちに正式な判断が下されるはずです。また情報が入り次第お知らせしますね。
:ミサワタイチ
詳しい状況を知らせてくれてありがとう。まだ公演続行の可能性があるだけで嬉しいよ。ここまで一緒に頑張ってきたんだからここで中止になったら本当に悔しい。XYZのメンバー達もある部分では俺達より一所懸命やってたから問答無用で中止命令はキツイよ。アイツらの悔しさが分かるから俺はまだ諦めたくはない。続行が決まったら俺はまた志願するよ。
:カンスケ
自分も太一君と同じ気持ちです。相当戦力は減ってしまいましたけど空いた穴は残ったメンバーでなんとかして埋めてみせますよ。ここで終わりになんてさせませんから。
山本カンスケは二歳年下であっても今このとき太一にとっては最も頼れる謂わば盟友と呼べる間柄だ。今回の公演ではカンスケは太一と並んで年少でありながらメインダンサーの一員として名前を連ねている。
:タイチ
もうあれから二週間以上経ったけれどすっかり身体がなまってきてフロアの感触を忘れそうだよ。
:カンスケ
同感ですね。仕事の合間見て鍛えてますけどステップはしばらく踏めていません。
ところで提案なんですけどいつもの練習場開けてみますか。
あの場所なら誰にも気兼ねなく自由に練習できますよ。
:タイチ
それ俺も今考えてた。
あそこなら家からも近いし街中のスタジオみたいに堅苦しくないし
それからお財布にも優しい。
:カンスケ
基本利用料はかかりませんからね、零細の兼業ダンサーにはうってつけの場所ですよね。
:タイチ
ただあそこに入るまでに一つ悩ましい懸念事項があるよね。
:カンスケ
それは太一先輩にお願いできますか、あの事務所の番犬ならぬ頑固爺とまともに交渉できるのは太一先輩しかいませんよ。
:タイチ
やっぱりそう来るのかい、分かったよ。そういつも上手く交渉がまとめられる保証はないけれどやっては見るよ。
:カンスケ
さすが太一先輩。いつも頼りになります。
:タイチ
いつも都合よくヨイショするよね。
:カンスケ
笑笑
太一はデスクトップパソコンをシャットダウンさせると早速外出の準備を始めた。窓の外は雨脚が弱まりつつあった。お気に入りの赤いトレーナーを着込んで大きなヘッドホンを首元にかけると後は詰め込んだバックを肩がけすると外出の準備はできた。マンションの外に出ると曇り空が垂れ込めているが雨は降り止んでいた。メインストリートを北上し10分ほど歩くと地下鉄の駅前を通過しそのまま北上し続けるとすぐにナカノシマの町境に達し隣の水車町に入った。見上げる先の空模様は相変わらず厚く垂れ込めた灰色の雲で覆われていて今にも雨粒が降ってきそうな嫌な気配がしていた。約束した場所へ向かう道すがらで自然と足早になった。メインストリートから左に外れて足元がおぼつかない古い歩道橋を登り降りすると静かな町並みをくぐり抜ける小さな路地に入り込んだ。水車町という風流な響きとは裏腹にかつてあったとされる水路は今では跡形もなくなっていてその僅かばかりの名残が小さな入り組んだ路地になっていた。昼間にも関わらず薄暗く心細くなりそうな小道を太一は顔色を変えず淡々とした歩みで奥へと進んだ。突き当りの曲がり角に何度か出くわすうちに方向感覚を失いそうになると今にも立ち枯れそうな不気味な枝ふりの木立に囲まれた小さな東屋がある広場に出た。陰鬱そうな雰囲気に息が詰まりそうになりながら何事もなく通り過ぎようとすると目前にコンクリートの大きな壁が立ち塞がった。太一は壁の前で思いがけずに立ち止まってそこにあるものに見入っていた。より正確に言うと壁一面に描きこまれた自己主張の強いアートグラフティと呼べるものなのか、合法か非合法なのか一見するだけでは定かではない意味不明な記号やアルファベットで埋め尽くされた壁画の中心部で最も際立っている女性の胸上を細密に浮かび上がらせた独特な佇まいに思わず目を奪われていた。壁画は曲面の折角を頂点にして女性のやや伏し目がちな横向き顔の静謐な佇まいを際立たせながら深い藍色をした目線の先には多少色褪せているが極彩色の日当たりの良い世界が広がり、右手のブロンドの髪が伸びた先には対象的なモノクローム調の世界がちょうどアンダーパスの影の下に潜り込むようにして暗がりの先の奥へと延びている。太一は僅かばかりの時間を描き手不詳の大作壁画の手前で過ごすと何事もなかったようにそうすることが当然のような顔つきで日当たりの良い方向へ歩き出した。
汚されたスラングで埋め尽くされた擁壁に沿って少し歩いたところで左手に塀で囲まれた広い敷地の入口に殺風景な鉄門が見えた。その前に立つと頑丈な鉄鎖で巻かれた南京錠で厳重に施錠されている。ひび割れた門構えには銘板がはめ込まれ「進堂興産豊平事業所」と記名されている。関係者以外の立ち入りをお断りしますと警告文が掲げられた鉄門を太一は片手で軽く押してみたが開かないことを確かめるとすぐに踵を返して別な方向を目指した。人気のない鉄門は時折強めの風に煽られてギシギシと軋み音を立てている。近くの河川敷から風が吹き込む度に地面の土埃が巻き上がり厚く垂れ込めた雲が幾重に重なり合った縞模様を成して淡い色をした西日を伴いながら水たまりの中をゆっくりと移ろいでいった。敷地を跨ぐ市道の高架橋の下をくぐり抜けて、その奥にある管理事務所から戻ってきた太一の姿があった。しばらく間をおいて鉄門の前に戻ってきた太一は手にした合鍵を迷うこと無く南京錠に差し込んで鉄鎖を解いた。トラックが出入りできるくらいの鉄門を人が通れるほど開いて敷地内に入るとひび割れたコンクリートで打ち固められた敷地が広がり放置された物品が所狭しと無造作に置かれている光景が目に入った。工事現場で使う資材が置かれた一角の奥には一棟の古びた倉庫があった。河川敷の擁壁のたもとに隠れるように建っている横長の倉庫は灰色のモルタル壁のごくありふれた出で立ちで相当な年季が入っているのが一目瞭然だった。うず高く積まれた資材の隙間を通り抜けて倉庫の手前までようやくたどり着くと、ここでも二組の大きな鉄門が立ちはだかるように固く閉じている。人一人の力で動かすには明らかに難しい開かずの鉄門を避けて、その横の不釣り合いなくらい真新しい銀色の通用門の前に立つと太一は用意していたカードキーを手にしてボックスを開いて現れた端末を慣れた手つきでボタンを操作し暗証ロックを解除した。重いドアを開いて一歩足を踏み入れると足元を除いて黒一色で埋め尽くされている。取り出したスマートフォンの明かりを頼りに壁際にあるはずの配電盤を探し出そうとした。
手元の僅かな明かりだけを頼りに壁伝いにスイッチを探し当ててオンにすると音響ブースを兼ねた控室に照明が灯った。続けて配電盤を探し当てて照明装置の電源を入れると控室の外側に広がる幅20m奥行き50m近い大きな空間が現れた。使われなくなった古い物流倉庫を改装した特設の練習スタジオは簡素な作りながら本番の劇場さながらの板張りで横長の舞台が備えられている。奥の方の壁際には練習用のミラーコーナーが設けられている。充分とまでは言えないが最小限の空調設備を備えた倉庫内は季節を通して適温に保たれ防音のための二重構造まで備えていた。学校の体育館を思わせる広々とした空間に設えられた本格的な舞台装置にたった一人で足を踏み入れるとその広さからか本番を思い起こさせる緊張感で少しだけ身震いした。太一は他の誰かしらに遠慮することなく舞台の中央で佇んでみると本番で自分が演じる姿をごく自然な気持ちでイメージし始めた。太一はこの世界をまるで自分のモノにするように閉じた空間を眺め渡した。舞台の手前の観客席に相当する部分は奥行きが乏しく壁際に暗幕が無造作に張られている。舞台の中央から見渡す限り観客で埋め尽くされた満員の客席をイメージすると、そこから一身に注目を浴びつつ胸の内側から呼び覚まされる情熱を見えざる客席に座る見えない観客に向かって惜しみなく送り出す内観的な還流を思い起こした。太一はイメージの中で観客一人ひとりの顔立ちをまぶたの裏で想像すると言葉にならない思いの丈がまるで舞台に一人だけ孤独に佇んでいる自分自身に託されているような思いがして少し涙が出そうになった。無心になって舞台の端から端へ往復するとイメージの中の観客は消え去って代わりに無限に広がる静寂が心の内側を占めていた。
<舞台が見せる幻惑>
太一は大胆に飛躍して地球の大きさを思い起こした。宇宙に浮かび上がるよく目にする青く輝く球体の惑星が漆黒の闇のような宇宙に孤独に浮かんでいる光景が見えた。青い惑星の地表には無数の生き物たちと70億人を超える人々が住んでいるというよく知られた当たり前の知識をただ単に知っているだけのちっぽけな一人に過ぎない自分自身がこの大きな器と等しい壮大な意識を持てるという事実がにわかには信じがたい。それは言葉で知り頭で考えるよりは身体の五感を通してシンプルに感じ取れるものだと思える。太一はそのイメージをそのままに身体の動きに写し取りながら静かにゆっくりと波を打つように表現しようとした。自由に動き回る身体のリズム感覚にあわせてイメージは膨らみ続け青い惑星の表層を覆う波打つ海面まで滑らかな体重移動で急下降し飛びながら泳ぐイルカの群れと戯れた。遥か彼方に見える水平線を飛び超える間際まで一緒だったイルカたちは一頭一頭が思い思いの方角に別れていくと緑と土に覆われた大地に降り立った。ライオンとハイエナに追い立てられるシマウマとヌーの大群の隙間を縫うように太鼓を打つリズムで二転三転しながら掻い潜るとサバンナの夕日を背にして家路につこうとする狩猟種族の男たちの背中越しに紛れ込んだ。今日と明日以降の生き延びる糧となる仕留めたインパラの胴体を二人がかりで持ち上げて周囲を警戒しながら夜の帳が降りる前に森に隠れた家族が待つ安全な寝床まで辿り着けるだろうか。先頭を歩く二人の屈強な男たちはそれぞれかがり火を手にして警戒を怠らない。まぶたの裏側に赤い夕日をくっきりと宿しながら家路を急ぐ男たちが往く道をひたすら共に歩いた。留守を守る女と子どもが首を長くして男たちの帰りを待つ森の奥深くにある野営のための集いにたどり着くと宴が始まった。今まさに地平線の彼方に沈もうとする赤く燃え尽きる寸前の太陽に焦点を合わせ高らかと両手をかざして指先で丸く象った円で縁取ると額のあたりに据えた。獲物の肉を切りさばいて焚き火で焼き上がると香ばしい匂いを放つ煙を纏いながら男は踊り胸元を顕にした女は囃し饗して喜びの色を澄んだ瞳に浮かべ寛いだ。宴が終わるとたった一つのか細い炎を取り囲んで男と女と子どもは車座になって不安と恐怖が絶えることのない長い夜を耐え忍んでいた。かがり火の明かりが行き届いた僅かな安心の間と闇夜の境界に佇んでいると草わらの奥で息を潜めている凶暴な獣の群れからここで生きる人々の無辜の営みが日々守られるように大いなる守護者に祈りを捧げた。目を瞑ったまま森を離れて闇夜の荒野をたった一人で彷徨い歩く光景を思い浮かべると心の内側はいよいよ深遠さを増していくようだ。
鈍く光る板張りの舞台中央部を照らす一灯の照明をかがり火の神聖な灯に見立て仄暗い周縁部を境目として太一は丁寧な足取りで円弧を描くように一周すると身体の動きを静かに止めた。
次から次へと脳裏に浮かんでくるビジュアルキーと身体一つで対話を進めていくうちに時間の枠を超えた壮大な物語の中で今このときを一所懸命に生きている充実感が胸の内から込み上げてくるようだ。太一はそのままイメージの世界へ没頭した。まぶたの内側に刻まれた赤い太陽の残影と狩猟家族が暖を取りささやかな宴に興じていた焚き火の仄明かりが重なり合うとまばゆい光を見た気がした。その光は今にも消えかかりそうになりながら一時だけ大きく弾けるような閃光を放ちながら燃え上がる火柱のごとく高く舞い上がると荒野を上空から赤々と照らし出した。この神聖なかがり火を内に宿したまま今いるこの世界に持ち帰りその神々しさをまだ知らぬ人々にそっと知らせたい。そのために後どれくらいこの無人に等しい荒野を彷徨い続けるのだろうか。喉の乾きにも似た心の乾きを覚えながら思考の荒野を彷徨うと自分がいったいどこで生まれた何者だったのかさえ覚束なくなりそうだ。ただ踊ることの喜びだけを伝えよう。純粋な喜びを得るためにはいつかどこかで誰かの心の底に横たわる深い闇に光が差して明るい世界を目指して立ち上がって歩き出せるようにこの炎のかがり火が必要になるはずだ。だから喉が渇こうが心が寂しさで悲鳴を上げそうになってもこの炎さえ消えなければきっと大丈夫に違いない。悠久の時を過ごした無人の荒野はいつのまにか高層ビルが立ち並ぶ摩天楼の上層階から見下ろした縦横に入り組んだ巨大都市の陰鬱そうな路上に様変わりしていた。ひび割れたアスファルトの薄汚れた路上を灰色の服を着た人たちが掛け声一つ交わすことなくただ無表情ですれ違うだけだった。
「こんなにたくさんの人達が歩いているのに誰一人俺を知らない」
知らない異なる国の言葉で書かれた標識や看板が幾重にも立ち並ぶ見知らぬ都会の雑踏にたった一人で置き去りにされたある日の記憶のようにその場に佇んでいると色彩を失ったモノクロの壁画と化した人混みの波が今にも押し寄せてくるようだ。足元から白いスチームが立ち込めている黒ぐろと汚れた地面にぽっかりと口を開けた地下鉄の入口から灰色の人影がとめどなく吐き出されていた。どこからともなく四方から湧き出るように現れては通り去っていく雑踏に逆らうようにその場に立ち続けているとやがて方向を見失い意思に反して押し流されそうになった。
「とても長い月日をかけてここまで携えてきたのに誰に届ければいいのか」
取り留めもなく漂う時間と場所が不規則に交差する無意識のマトリックスを縦の方向に切り分けるようにして押し寄せてくる人混みの列をより分けて、つま先立ちするほどに足元が狭まるとその場に立ち止まることが困難になって不本意ながら歩き出した。背中越しに情け容赦なく押してくる意地悪そうな人を反射的に避けているうちに、次第に慣れて人の流れに乗せられて見知らぬ街角を漂流し始めた。バランスを崩して倒れ込みそうになると気を取り直してその場で即興のダンスを踊り始めるように崩れかけた体制を見事な足さばきで立ち回りながら持ち直そうとした。呆れるほど途切れることない見知らぬ人の波に何度も飲み込まれそうになりながら、決して心地よくない抑圧的なリズムに合わせて自分の足取りを工夫しながら雑踏をより分けて姿勢を低くしアスファルトの地面を大胆に横切っていった。慌ただしく横断歩道を渡る人混みの波から意を決して立ち止まり一人だけになって取り残された交差点の島からぐるりと一回転しながら辺りを見渡した。時間は目まぐるしく移り変わり白昼夢から一転し魅惑的な紫色を帯びた黄昏時に変わっていた。相変わらず四方を行き交う人混みの流れは途切れることはなく抑圧的だった昼間とは違い幾分緩やかになり穏やかな雰囲気の会話が聞こえてくる。もう一度あたりを見渡すと大小さまざまな電飾広告が高層ビルの壁面を埋め尽くすほど張り巡らされ点滅を繰り返す無数の白熱電球と派手な発光色をしたネオン管の時代がかった趣のある取り合わせが行き交う人々の欲望を刺激し続けている。どこか記憶に残るタイトルの映画や見覚えのある俳優の髭をたくわえた横顔が描かれた巨大な看板に目を奪われているうちに吸い込まれるようにして一つの劇場の入口に辿り着こうとしたが、交差点の島からは前も後ろからも激しく渋滞する自動車の長い行列に阻まれてこれ以上先に進むことができない。行く手を阻んでいる自動車の多くはネオンの怪しく輝く光に照らされてひときわ目立つ黄一色のタクシーばかりだった。そこら中からクラクションがけたたましく鳴り響く車道の隙間を掻い潜って何度それを繰り返しても一向に道を渡り終えることができない。やがて一台のイエローキャブが目の前に止まり運転席の窓が降りた。毛深そうな腕ひじをさらして身を乗り出してきた見るからに気だるそうな冴えない中年男の運転手が聞き覚えのある異国の言語で畳み掛けるように何か言い寄ってきた。
「空港へ行くなら後ろの客席にどうぞ」
「この街に未来はない」
「空港へ行くなら後ろの客席にどうぞ」
アクセントに強い訛りがある中年男のタクシー運転手は同じことを二度繰り返し言った。言葉が通じ合わないはずだったが意味だけは汲み取れた。首を横にふると運転手はふてぶてしい態度で口に含んだ汚い言葉を吐き捨てるように発車しようとするが生憎前後左右が他の車に塞がれていて全く身動きが取れそうもない。運転手は諦め顔で一転して愛想のいい笑みを浮かべながらこちらに振り向くとまた同じような言葉をかけてきた。後ろのドアはすでに開いていた。
「この街に未来はないのだから空港へ行くなら後ろの席へカモン」
「大人しく空港に行くならそこからひとっ飛びでここに来る前に居た手つかずの荒野に尻尾を巻いて逃げ帰るのは自由だ」
「それはお前さん次第なんだぜ」
「この街に未来なんて無いんだ」
「ここから未来に進み出たいなら」
「お前が随分と大事そうに携えてきたそれは」
運転手が言いたいことを話し終わるより早く、黄色いタクシーの開け放たれていた後ろドアの中の黒いレザーシートへ勢いよく上半身から滑り込ませる勢いで飛び出すと、くるっと身を翻し周辺の電飾が歪んで映り込んだトランクに背中を乗せるとそのままの勢いで車の反対側へ飛び移った。一つ車線を越えてまた次の車線を越えて人々が集まる人気の劇場がある縁石の向こう側へ渡ろうとすると、その先にあるはずだった車道と歩道の境目から先の地面が急に見えなくなっていた。ストンと身体ごと落ちるように地面から引き離されると周囲がスローモーションになって無重力状態でしばらく宙を舞っていた。ネオン管の怪しいピンク色の光と電球色の明かりは視界を覆い尽くすベールのように幾重に連なる縦筋の雫となって、それらが足元から上空へと尾を引いていく幻想的な光景を空中に浮かんだまま虚ろな視野の中で眺めている合間に急に背後から腰のあたりを強い力で抑え込まれる感触があった。有無を言わさぬ力強さで水平に引き戻されると地面に尻餅をついていた。
「あぶなかった」
「危機一髪、間に合いましたね」
「今日はどこの世界に飛んでいたんですか」
自分の他には誰も居ないはずの倉庫内に溌剌とした声が響き渡った。気がつくと冷たい舞台の木の床に仰向けになって倒れ込んでいた。木組みの天井からぶら下がっている古びた一灯の照明に照らし出されて思わず眩しさを避けようとして真横を向くと視界の端にありふれたNバランスシューズのつま先が見えた。