ナカノシマジャンクション#4

「お前が携えてきた喜びの炎を決して絶やすなよ」

 太一の耳の奥で知らない男のしゃがれた声がまだ微かにこだましていた。舞台の上に仰向けになって倒れ込んだまま天井の明かりを見ている内に次第に焦点が合わさると、それまで時間の経過を忘れて入り浸っていた観相の果てから急な衝撃とともに今ここにある現実に引き戻されていた。少し身体を持ち上げて振り向くと太一と同じくらいの背丈の灰白色のツナギを着ているあどけなさが若干残る精悍な顔立ちの青年が静かに見下ろしている。

「やあ、カンスケじゃないか」

「ここで何しているの」

 まるで寝起きドッキリのような寝ぼけた表情の太一に向かってカンスケは押し黙ったまま右手を差し伸べた。その手を掴んで立ち上がろうとするも中途でへたり込んでそのまま胡座をかいた。カンスケは太一の様子を見てやれやれという感じで困ったような表情をしながらどこか愉快そうだった。

「ここで何しているか尋ねられそうなのは太一くんの方ですよ」

「千鳥足でさまよい歩きながら突然静止したりまた動き出したり挙動不審者みたいに思われても仕方ないかもしれませんよ」

「通りすがりの何も知らない人たちが見たらちょっと怖い光景でしたね」

「薄暗い粗末な板張りの舞台上で何かよくわからない不思議な踊りを披露しているようにしか思えないかなあ」

「見る人が見るとまた別な感覚が湧いてくるかもしれませんけどね」

 カンスケはちょっとしたり顔になって太一が座っている辺りを見渡すとその場に腰を下ろして向かい合った。釈然としない顔をした太一の意表をつくように照明の明かりが届かない暗がりの奥の方を指差すとカンスケは訝しげにポツリと言った。

「マジで危なかったんですよ」

「そこの舞台の端っこは奈落の底みたいに深いから落ちたら怪我しちゃいますよ」

「ずっと傍で見てたんだろう」

「ひと声かけてくれたら良かったのに」

 太一は照れくさそうに言うとカンスケは意に返さず笑って頷いた。

「だって太一くんの一人踊り見てるとなんか面白いんですよ」

「なんというか独特の雰囲気があっていつも引き込まれるように見入ってしまうんですよね」

 カンスケは真面目な顔つきで太一に向き合って言った。太一はようやっと寝ぼけ眼からいつもの顔立ちに戻ると目の前で肩ひじをついて思案しているカンスケを見た。遅れてここに着いたカンスケは一人踊りながら瞑想にふける太一のあられのない姿を目撃していた。何か伝わるものがあった様子だ。

「最初はどことなく両手かざして阿波踊りっぽいかなって感じがしました」

「途中からアイソレーションが決まりすぎてウェーブしまくりでしたよ」

「それが段々と集中ゾーンに入ってきて心地いいリズム感が出てくると」

「どうも顔つきがいつもと違って気迫が増すと言うか」

「まるで別なものが憑依してきたような感じがしてきました」

 気のせいか太一の傍らへどこからともなく寒風が吹いてくるような気がした。カンスケは何かこの世のものならぬ異様な有り様を目にしたかのごとくやや深刻そうな顔をして話しだした。

「太一くんの背中の方に」

「何か変な白っぽい光が見えたんですよ」

「えっちょっと待ってよ」

「オレになにか取り憑いてたって言うのかい」

 カンスケはちょっと意外そうな顔をしながら慌てて何か問いただそうとする太一をまじまじと見つめた。

「何も覚えてないんですか」

「うん」

「踊ってる最中はトリップして頭の中は真っ白になってるから」

「それはちょっとやばくないですか」

「でも集中するとまるで別な異世界が見えてくるんだ」

「多分信じてくれないと思うけど」

「それは見ているうちに何となくわかりましたよ」

「俺なりに言い当ててみていいですか」

 上から仄暗い照明で照らされた範囲に二人は胡座をかいて向き合っていると広々とした舞台と周囲の暗さが際立った。太一は無意識のうちに深呼吸をした。カンスケは目を薄く閉じるといよいよ集中して言葉を選び取ろうとしている様子だった。

「俺なりに想像力を交えて思いつくままに例えるなら」

「まるで太陽に照らされた明るい平原のような広大な風景が見えました」

「俺の爺さんがやっている牧場の風景とよく似た感じがしました」

「それからなんというか暖かくもあって同時に冷たい感じのする父親のような厳しさと母の包み込む優しさを併せ持った神々や女神が住んでいる教科書の中で見たことある厳かな神殿がある異国のようなイメージが見えてきました」

「そこで太一くんはたくさんの女神たちと戯れるように楽しそうに踊っているちょっと羨ましいような悩ましい光景が見える気がしました」

「その傍で赤々と燃える松明を掲げている男たちが控えていて」

「明るい松明の一本を太一くんが受け取ると厳かに天を仰いで高らかと掲げている、そんな風な感じです」

「それから太一くんは両手を高く持ち上げるとまるで大きく鳥が羽ばたくようにもっと高い場所を目指していました」

「その高い場所からの眺めはあまり心地良さそうには思えませんでした」

「大きく迷いを抱いているように定まらないまま地面に降りていくような不安定な体の動き方をし始めました」

「何となくイメージが伝わってきたのはそこまででした」

「覚束ない足取りで体の揺れ幅が大きくなって舞台の端に寄っていることがありました」

「何処かのタイミングで声をかけようかと思いました」

 カンスケは立ち上がると身振りを交えて垣間見た様子を再現しようとした。太一は俯いたまま押し黙って聞いている。

「そこから俺も思い切って舞台に上がりました」

「最初は少し遠目から分かるように合図を送ってみました」

「でも全く眼中に入らなかったようでガン無視でしたね」

 ここで太一は思わず照れ笑いした。

 カンスケはどこか楽しげに真剣な身振りを交えて熱の込もった説明を続けていた。

「あんまり太一くんが無我夢中になって自分の世界に入っているから」

「俺もその中に入りたくなったんです」

「どうすれば入れるか分からないからとりあえず太一くんの視界に入りそうなところで一緒に動き回ってみました」

「そうしたら太一くんも一緒に合わせて動くようになったんです」

「それがまた楽しくってしょうがなくなって」

「意地悪して太一くんの進路をわざと邪魔したり」

「それでも無意識のうちに太一くんは鋭い足さばきで難なくかわしてましたよ」

「まるでバスケットボールのポイントガードみたいな機敏な動き方でした」

 本当にカンスケは楽しそうに喋りながらその時と同じようにポイントガードのような素早いターンを真似していた。ここにバスケットボール一つとゴールがあれば楽しいハーフゲームができそうだ。カンスケが小刻みなステップを踏んでターンを繰り返す度にお気に入りのイニシャルがあしらわれたシューズのつま先からキュッキュと小気味よい音が鳴っている。

「ああ、何となく思い出してきた」

「途中から邪魔が入ってきて動きづらい感じがしていたよ」

「行く先々で進路が遮られてそのたびに足先を頻繁に切り返してた気がする」

「結局カンスケが瞑想中に割り込んできたんだ」

「ビンゴですよ」

「身体が後ろに大きくのけぞったと思ったら大胆に反り返して」

「なかなかエグい体幹バランスしてました」

「俺は舞台の上であそこまで自分を忘れるほど集中できたことなんて今まで一度もないですよ」

「でも太一くんを真似しながら一緒に動いていると何か特別なゾーンみたいなのに入れるような気がしたんです」

「だんだんと調子が上がってきて太一くんの背中越しの尖った感覚が俺にも乗り移ってきた気がして正直ゾクッとしました」

「そうすると太一くんが夢中になって目指している目的地が見えたんです」

 カンスケが少し奇妙なことを言い出しても太一は何事もないように落ち着いていた。常日頃から遠慮することなく本音で意見を言い合える数少ない仲間だ。少しくらい羽目を外してもお互い気にはしない。それが今日に限ってはカンスケも太一自身もどこか普段通りとは違った不思議なテンションの高さで対応している。それは自分たちにとって何か予想もしない良いことが起きる前触れのような気がする。太一は単純にそう思っていた。

「話が飛びすぎて何が言いたいのかちょっとわからなくなりそうですね」

「今日は不思議とたくさんのイメージが湧いてきて纏まりがつきそうもないですが」

「太一くんの背中越しに光っている何かが見えたのは確かなんです」

「その光っている何かに向かって大勢の人が振り返り一斉に向かってくる様子まで見えました」

「それは俺達が目指している何かでもあると直感で気づいたんです」

 そこでカンスケの動きはピタリと止まった。

 太一は立ち上がってゆっくりと舞台の縁を半周するとポツリと言った。

「俺達が目指している目的ってなんだろうな」

「それは」

 カンスケは言いかけて押し黙っていた。

 太一は舞台の縁をギリギリのところでバランスを取りながら歩幅を確かめるように歩みを進めている。

「例えばこの暗がりの奥に潜んでいる思いがけない異物とか」

「この先に足の踏み場がどこにも無いことは分かっていたんだ」

「それでも向こう側まで飛び移る勇気を出してみたかった」

「飛び移ろうとした向こう側には怪しい希望の光が見えていた気がする」

「それがカンスケが言う本当の希望だったのか分からないけどね」

「俺が見っところ少なくともユーレイの類が取り付いていたわけではない気がします」

「それを聞いて一安心したよ」

「オレって、正直なところそういう話にめっぽう弱いほうだからさ」

 太一がはにかんで笑うとカンスケもつられて笑っていた。

「向こう側に希望があったのか確かめる前に俺は無理やり遮ってしまったんですね」

いいや、と太一は顔を横に振った。

「何が潜んでいるかは本番で確かめるしかないよ」

「本番の舞台では何が起きてもおかしくない」

「それにさ、カンスケがあのタイミングでこっちに引き戻してくれなかったら今頃あそこから落ちて怪我していたらそれどころじゃなかったよ」

 太一は舞台の縁に立つとそこから真っ暗になっている真下を覗き込んで思わず息を呑んだ。実際の深さは恐れる程ではないはずが舞台を照らす仄明るい照明の弱々しい光さえまったく届かない地べたの冷たい床は想像以上に底しれない深さを感じさせている。太一はここから飛び出そうとした瞬間を思い出すと身震いする気がした。それでも飛び出す直前まで何も恐れは感じていなかった。むしろ根拠のない自信に満ちた気持ちで一思いに飛び出せそうな危ういほどの勢いがあった。その思い切りの良さが緊張しながら本番に望むときの弱々しい自分自身に欲しかったのだろうか。度重なる制止を振り切って無謀にダイブしようとする太一を寸前で抑え込んで怪我をさせず舞台の上へ安全に着地させたのは目の前に佇むカンスケのお手柄だった。わざわざ言葉にはしなかったがタイミングよく居合わせてくれたカンスケに内心で感謝していた。

「俺は中学校まで柔道やってましたから受け身なら得意中の得意ってところですね」

「途中からどういうわけか悪っぽい友達に誘われてブレイクダンスにハマっちゃって」

「社会人そっちのけで夢中の最中ってところですよ」

 カンスケは素人っぽいラッパーのようなノリで謎の決めポーズを取って自己アピールしている。

「それはよく知ってるよ」

「ジュニア大会でカンスケとよく一緒にバトルしたよね」

「太一くんは2つ上のセンパイでしたけど」

「ダンスの腕前はほぼ互角でした」

「俺は太一くんとバトルするまでは負け知らずだったんですよ」

「それも何となく知ってる」

「というかメチャクチャ強かったよねカンスケは」

「特にフィジカル面は同年代に敵う相手は居なかったよ」

「太一くんとのバトルの決着はまだついてないっすよ」

「昔のことだけどよく覚えてるよね」

 太一はその頃の様子を脳裏に思い浮かべながら目の前にいるカンスケに向かった負けじとよりいっそう謎めいたノリでお気に入りのポーズを決めるとふと我に返った。しばらく間をおいてから足元の暗闇の奥深さを今一度まじまじと凝視すると記憶に残る印象深い言葉をいくつか思い出した。

 ”あえて暗闇と親しくなることで人間が持つ本来の創造性が発揮される”

 ”普通の人間が忌み嫌いながら恐れる暗闇が必ずしもネガティブなものであるとは限らない”

 ”暗闇が深まる場所にあえて身を置けばそこに差し込むポジティブな本物の光を身近に感じ取れるようになる”

 これらは先人からの受け売り文句だ。太一にはそれらの難解そうな真意をまだ自分の未熟な見識では完全に掴みきれてはいなかった。太一はこれらの言葉をまっちゃんから教えられた。まっちゃんは親しみを込めた仲間うちのニックネームでそう呼ばれている。まっちゃんは太一や他の仲間より常に三歩先を進んでいる。三歩どころか五歩も六歩も七歩も先の先を目指して普通の人たちには最早理解不能な境地を目指しているのかもしれない。そのまっちゃんが半ば人生をかけてと言えばやや大袈裟に聞こえるが、根っこからの芸術家肌で哲学家でもある彼が文字通り全身全霊をかけて完成させようとしている未完成のオリジナル戯曲から一部を抜粋して構成し直したシナリオが今回の公演の台本になっている。一見すると温厚なだけのまっちゃんが内に抱く静かでいて激しい創作への尽きない意欲と並外れて豊かな表現力に対して太一は最初に出会ったその時から畏敬の念を抱きながら尊敬していた。そのまっちゃんから教わった数々の言葉から永遠に解けそうもない難しい課題をいくつも託されているような気がしていた。太一はカンスケがいる方へ振り返ると何か言おうとしてそのことを忘れてしまった。

「俺、今まですごく悩んでいたんだよね」

「まっちゃんが生半可でない意気込みで取り組んでいるのに」

「それについて行けてない気がしてさ」

「何ていうか疑心暗鬼になっていたんだと思う」

 カンスケは太一の率直な打ち明け話に一応相槌を打ちながら背中を向けて静かに座っていた。訝しげに太一はカンスケに近寄って背中越しに懐を覗き込むとビクっとしながらこちらを向いた。

「あっ、ここ飲食禁止なのに買い食いしてる」

「うえっ」

 カンスケは咽び込んで太一に何か言い返そうとしている。すかさず太一はカンスケの前へ回り込み懐に抱え込んでいる買い物袋を目ざとく見つけると指さした。カンスケの手には食いかけの菓子パンが握られ傍らに飲みかけのペットボトルが置いてあった。空腹に耐えかねていた太一は思わずため息が出かかった。

「あーいけないんだ」

「買い食いしたら罰金取られるんだぞ」

「ちょっと待ってください」

「仕事帰りで腹空いてたもんですから」

「これよかったらどうぞ」

 そう言うとカンスケは大事そうに抱えこんでいたビニール袋から何か取り出して太一に手渡した。とっさに受け取ると紅鮭入りのおにぎりだった。それからカンスケは自分が食べている菓子パンと同じものと飲みかけではない小さなペットボトルを一緒に手渡した。

「これくれるのかい」

「はい」

「めっちゃ気が利くじゃん」

「先日のカラオケの件のお礼です」

「ああそうだ、まっちゃんを慰める会で最後まで残ったのオレ一人だったもんね」

「あのときの夜は次の日朝一で仕事だったから助かりました」

「さっき一汗かいて小腹空いてるから遠慮なく頂くとするよ」

「どうぞ」

「共犯関係成立ですね」

「これは後々コンプライアンス問題になりかねませんね」

「構うもんか、どうせ二人だけだし」

「もしバレても背に腹は代えられないよ」

 軽い冗談を言い合いながらおにぎり一つと菓子パン一個を頬張ると、それだけで空腹は満たされない。それを見越していたようにカンスケは袋の底からもう一つ心惹かれる品物を取り出した。

「それはひとくちドーナツじゃないか」

「俺らの地元、豊平区の銘菓です」

「この界隈では知る人ぞ知るおなじみの名物だよね」

 創業以来変わらない老舗で売っている手頃な値段の銘菓だった。白い砂糖をまぶしたスポンジ生地の中にみっちりあんが詰まったゴルフボール大の菓子が一包のパッケージに8つほど入っている。一口か二口で召し上がるのにちょうどよい大きさの茶色い玉を手にして頬張ると砂糖とあんの甘さが程よい歯ごたえとともに口のなかに広がっていく。

「そうそうこの香ばしい甘さは子供の頃から変わってない」

「ありがとう」

「これで疲れも吹き飛んだよ」

「それにしても今日はなんでも用意が良いね」

「今日はたまたま、と言いたいところですが」

「例の守衛の頑固じいさん対策ですよ」

「ああ、ここの鍵を預かっている岡田さんのこと」

「いつも俺が行くと小言ばかり言うんです」

「どうも俺達のことを不審者か何かと誤解しているようで」

「正規のIDカードを見せても中々信用してくれないから」

「それで差し入れでもして説得しようと思って持参していたんですよ」

「それにしても岡田さん相手に顔パスで通るなんて太一くんは流石ですね」

「いやあ、まあ、そこそこ顔は広いしそれで通る方だからさ」

「そういえばさっき太一くんが言ってた悩みってなんですか」

「俺で良ければ話してくださいよ」

「いや、いいんだ大したことじゃないからさ」

「そうですか」

「無理しないでくださいよ」

「また次回も楽しい話聞かせてくださいね」

「うん、妄想と空想だけなら尽きないほうだからね」

 二人だけでささやかな宴会のような休息時間を過ごすと二人は個別に練習に取り組んでいた。本番の舞台には魔物が潜んでいるという。それは大昔から数多の表現者たちが実際に体験したことに基づいて異口同音に語り継いできたものだ。また、魔物は希望の裏返しであるという。魔物を見ないで済めば恐ろしい思いをしなくてよいが同時に大いなる希望は見いだせない。魔物は希望を抱いた選ばれし者がそこに立ったときだけ姿を見せるという。選ばれし者とはどういうことだろうか。単純に一番優れた者という意味なら分かり易い話だ。太一は今自分が置かれた立場をなるべく冷静に振り返ろうとしている。大いなる希望と呼べる立派な志のような高尚な思いを持てたことはない。ダンスの実力に至っては公演に参加しているメンバーに限ればギリギリ上位5番目以内には入っているだろうか。自分より上手い誰かの背中をいつも追いかけている挑戦者の立場にいると思えば間違いはなさそうだ。それでも太一は魔物を一度ならず何度か見かけたことがある。舞台の上での魔物はいつも太一から離れることはない。魔物は太一にとって古の言い伝え通り心に抱いている大きな希望の裏返しなのだろうか。太一はこの魔物から目を離す気になれない。いつかそれは自分自身が成長した暁に大いなる希望の担い主として祝福をもたらす奇跡の担い手に変わる気がするからだ。太一はこの暗闇から出でるすべての予測困難な不協和音から巧みに身を翻しながら、たった一つしかない約束された目的地を目指す為に、他の誰彼の言い分には惑わされず揺るぎようのない方向感覚を心に定めようとしていた。

 太一は壁一面に張られた鏡の前に場所を移すと基本となるルーティンをひたすら繰り返して時間を溶かしていた。いくら追い払おうとしても次々と湧いて出てくる理由のない不安はひたすら練習に打ち込むうちに忘れるしかないものだ。太一はダンスから離れて久しく忘れかけていた足先の感覚を取り戻すために基礎となるルーティンを入念に何セットも繰り返した。基礎を繰り返す内にだんだん様になっていくような気がした。鏡に映る自分の姿がすぐに様変わりするというわけではないが見た目の印象が整ってくると少しずつ自信が持ち始めた。基礎に自信が持てると少し応用を利かせた難易度の高いルーティンを取り入れ始める。公演用の振り付けを用いたセットが程よい感じだ。以前は明らかに精彩さを欠いていた足先の運びは今ではごく自然な流れでこなせるようになっていた。ブランクの期間もセルフイメージを欠かさなかったことが早くも功を奏していることが実感できるくらいの出来栄えだ。気持ちに余裕が出てきたところで鏡越しに辺りを見渡すと反対側の端のほうでカンスケが同じように練習に励む様子が見えた。背中越しに意識しながら互いに声を掛け合うことはなかった。

 乾いた土に水が染み渡るような充足感で満たされた時間はあっという間に過ぎていった。前回の案件で失いかけていた自信も取り戻しつつある。確かな理由と根拠はないがやはり気のおけない仲間がただ一人傍らに居てくれるだけで見違えるほど気分が良くなっている。自分が選択したこの道がいったいどこまで続いているのか太一には見当がつかない。そうであってなお約束された保障すらないにも関わらず、絶えることない不安を抱え込みながら心に適う道を進んでこれたのは単にカンスケの存在が太一にとっては大きかった。未来は依然として白紙だった。何年か先の白紙の将来どころか明日急に道が閉ざされてしまうことだってあり得る状況だ。それでも今はこうして熱の込もった自主練習に励んで明日以降も変わらず自分が選んだ道を歩み続ける気がしてならないのはどうしてなのか、詳しく説明はできないけれど何故か一度閉ざされかけた事態が急に開けていく良い意味の予感がしてならない。今はまだ諦めるべきときではない。どこの誰であってもたとえ神様のような万能の力を持っているように思える途方もなく偉い人物であっても明日を思い通りにすることはできないのだから。鏡で覆われた壁に向かってひたすらルーティンを繰り返している汗だくの背中をただじっと後から見つめているカンスケの視線があることに太一はまったく気づいていなかった。

 太一はこれでよしという手応えを感じながら身体の動きを止めてみた。願わくばここまで整った状態をキープして次の本番に望みたい。それまでには調子の浮き沈みがあるので今この身体の感覚を意識的に記憶しておかなければならない。太一は静かに額を持ち上げると真正面を見据えた。そこにはすっきりとした面持ちの自分自身の姿が佇んでいるだけで恐れを抱かせる魔物の姿はどこかへ消えていた。

「いい感じに仕上がってましたよ」

「どういうふうにいい感じだった」

「奥行きがあって悠々としていて何となくいい雰囲気でしたよ」

「その何となくがいいと思うな」

「何となくいいっていう感触が大事なんだよ」

 頃合いを見計らったようにカンスケが話しながら近づいてくると太一に時計の時刻をそっと告げた。太一は驚きはせずその時刻を確認した。古い倉庫を改装した練習用の舞台は相変わらず仄明るい白熱灯だけで照らされているために時間の感覚が判らなくなっていた。どちらとも言わず太一とカンスケは慣れた手つきで後片付けを始めると5分とかからず帰り支度ができた。電源を落として戸締まりを確認すると重いステンレスの扉を閉めた。また通い慣れた練習場に集うことを心に誓いながら屋外に出ると、これまで居た倉庫内の纏わりつくような生暖かい空気とは打って変わって肌寒さを覚える冷たい外気に晒されると二人は揃って思わず身震いしそうになった。夜の帳が下り始めてからはより一層不気味さが増している廃車や建築用の資材などが無造作に放置された怪しい一角を足早に通り抜けて詰め所の既定の場所に合鍵を戻してから錆びついた鉄門の外に出るとようやく一息つくことができた。二人は街灯がぼんやりと灯る薄暗い夜道を脇目を振らずにスタスタ歩き出した。

「いつものことながらすっかり夜になってたね」

「このあたりは昼間からちょっと怪しい雰囲気がしますけど」

「真っ暗になるとほんとに気味が悪い感じがしますね」

「あんまりよそ見しないほうがいいかもしれない」

「どこに何が潜んでるか分からない物騒な世間だよ」

「マジでヤバいヤツがいそうだから気をつけないとね」

「ところで太一くんはユーレイとか見たことありますか」

「なんでそんなこと聞くの」

「急に言われてもどう言えばいいかわからないよ」

「俺の弟のトモダチから聞いた話ですけど」

「このあたりの路地裏でタクシードライバー風の青白い幽霊が深夜の丑三つ時になると出るらしいです」

「おつりと売上金が合わないとかぶつぶつ言いながらすれ違うと」

「向こう側にある廃車置場に向かってゆっくりと歩いていくそうです」

「えっマジでやめてよ」

「オレそういう怪談話めっちゃ苦手だって前から言ってあるでしょう」

「嘘かホントか知りませんけどやっぱり出るみたいですよ」

「ねえお願いだから地下鉄の駅がある明るい場所まで一緒に行こうね」

「途中まで帰る方向一緒だから別に構いませんけど」

「太一くんに一つ貸しが増えますね」

「今度はオレが何か美味しいもの奢るからよろしくね」

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