WEB3.0の真実
こちらのワードを最大公約数的に説明するならば
巨大ITの支配から脱却し、個人が解放されたインフラ、これをブロックチェーン技術とNFT技術を利用して行う
これが分かりやすいチープなまとめになるかと思います。
これから一般消費者に対してNFTとウェブ3.0は認知を迎えていくので、しばらくは続き、これが一部定着する。
しかしながらインターネットインフラ技術がブロックチェーンに置き換わるか?で言うと私は懐疑的です。
そもそもWEB3.0という言葉自体が人によって思想が入り混じり、何を言っているのかが同じ物でなかったりします。
さて、それではWEB3.0にたどり着くまでの変遷を少し見てみましょう。
まず、SNSなどに代表されるWEB2.0ではどのように謳われたのか?
振り返ってみますと、それは個が発信することができて、みんなキラキラできる、だったんですよね。
つまり、残念なことに、なんてことないのは、WEB3.0で謳われている概念と全く同じなのです。
結果的にWikipediaが2001年、mixiが2004年に、facebookが2004年に、YouTubeが2005年に、Twitterが2006年にニコニコ動画が2007年に創業されて、みんなこぞってサービスを利用しました。
個人の発信が世界中に届けることができる、この事に興奮をする人が意外にも多かったわけです。
しかしこれにより個人が力を持ったのか?
でいうと答えはノーであって、
プラットフォーマーが強大なる力を持ったに過ぎない
のです。
主役だったはずの個人は、ある意味ではプラットフォーマーを強大にするだけの奴隷になってしまったのです。奴隷という言い方は言い過ぎに感じるかもしれませんが、実際そうです。
本来有料で講演や演説をしていた人も無料のプラットフォームに取り込まれたわけです。その意味ではプラットフォーマーが作り出す鉄火場の中で一部の個人が確かに稼ぐことは出来たでしょうけども、それは圧倒的に少数であり、ほとんどはそれに憧れ収益にもならない投稿を繰り返すだけであります。
WEB1.0でもWEB2.0でもビッグテック企業からの脱却の為にそれが作られたということはWEB3.0で個人が解放されると躍起になって喧伝する方は考えておかなければならないわけです。
個人が輝けるという言葉とは裏腹に、超巨大な大量の資本や組織が無いとWEB3.0でもやはり負けます。
個人にもおこぼれがあって、YouTubeや Instagramのようにそれを持って個人の解放と言えばそうなるかもしれませんが、実際は監獄から抜け出す為に別の監獄に入っただけになってしまっていないか?
自分が稼げている、俺は支配から脱却したと考えている個人は、よく考える必要があるでしょう。
NFTに話を移していく前にそもそも論としてのデジタルデータのことを触れておきます。
デジタルデータは劣化無しにコピーできるというのが利点であり、その意味では唯一無二の物がないことが今のインターネットの活況にも繋がっている
わけです。
NFTは同じものはいっぱいあるけど、それに刻印を押し、これがオリジナルであると証明することにより成り立つという概念です。
ただ、その手の概念は昔から存在しています。それにブロックチェーン技術を使ったのがNFTであって、
全てはブロックチェーン技術の上に成り立っている
ものです。
しかしながら結局人は監視と管理体制における救済措置が欲しくなるのであって、
ある意味、自由を求めていないということが言えます。
どういうことか?というと、管理体制という意味ではブロックチェーンで補完できないところがあり、なんでもかんでも自由というと良いものに聞こえますが、責任が伴う世界を人は望むという点を忘れてはいけないわけです。
間違えて振り込んだけど、銀行に言ったら取り戻せる社会を人は求めるのであって、完全に
自己責任だから誰に何を言っても間違えた貴方が悪いという世界を人は求めていない
のです。
要するにルールが必要であって、そもそもルールを人は求めているという事への理解が必要なのです。ルールは中央集権的に政府が作る代わりにビッグプラットフォーマーが作るというのがWEB3.0の現実なわけであって、先行者利益の一部をかすめ取ろうとする方々も結局はほとんど負けて、その先の泡沫な社会の構成要員でしかなくなってしまいます。
ブロックチェーンやNFTは万能ではなく、過去にもあったデータ改竄が出来ない仕組みと「ブロックチェーンこそが、自由を求める我々の万能の神である」というように扱われる風潮が混ざっているという話です。
1番難しいと考えられるのが権利の非中央集権化です。
これについては後日書いていきたいと思います。