イスラム教に関して
イスラム教とは?
そもそも宗教とは絶大なるカリスマを持った教祖がおり、発展します。
その死後、衰退するか引き継がれる場合にはその引き継ぎを巡り実力か血統による引き継ぎで争いが起きたりします。また、新たな教えを紐解くとして新宗教が現れたりしますが、イスラム教ではそれはあり得ないような仕組みになっています。
ムハンマドが最後の預言者による最後の啓示
をしているので、それに反するという事で新たな教えは、即座に背教者であると認知される仕組みです。
これは教義の継続性という意味では強力な仕組みと言えます。但し諸刃の剣でもあり、ムハンマドの死後、教団を指導していく
権威が生まれにくい
という側面があります。
イスラム教ではムハンマドの死後に教団権力の継承者を決める際にいわゆる四代正統カリフ(指導者)というアブーバクル、ウマル、ウマスーン、アリーの4名に継承されたというのを正統とするのがイスラム教スンニ派です。
当然カリスマの死後であるから、この時代は陰謀と暗殺に揺れていた時代であったことは容易に想像がつきますね。
シーア派はこの時代の権力継承を正当と認めず、ムハンマドの直系の子孫にこそイスラム教団と国家を指導する権限が継承されるべきだっと信じ、その為の特殊な能力も備わっていたと信じます。
つまりシーア派はムハンマドが亡くなった時にアリーが後継者としてイスラム教団を継ぐべきだったと信じているわけです。
アリーはムハンマドの教団設立以来の腹心の部下であり、自分の娘婿にもなるわけで、養子と言っても良い存在です。
シーア派ではこれをイマームと呼び、アリーの後は息子のハサンとフセインが地位を継いだと信じています。
ただ、そもそものこの対立の根幹にはかなり
下世話とも言える人間的な話が深く影響
しています。
ムハンマドは最初の妻ハディーシャが死去後、多くの妻をもらったが、その中で1番愛したのがアーイシャであり、アーイシャはムハンマド後の最初のカリフであったアブーバクルの娘で結婚当時6歳という年齢であったこともあり、彼女はムハンマドの言行を語り継ぐ期間が長かったのです。
それでコーランに継ぐムハンマドのハディースという規範のテキストをアーイシャが実質上かなり支配することを可能にしたわけです。
このアーイシャとアリーが仲が悪かったのです。
これはアーイシャの不倫疑惑があったその時にムハンマドに離縁を勧めたのがアリーであった為、アーイシャとしてはアリー許さないとなったわけで。不倫があったかどうかはもはや分かりようもありませんが何れにしてもムハンマドはアーイシャを許しています。
最初のカリフにアーイシャの父であるアブーバクルがなり、ようやく4代目にアリーがカリフに就任するも、反乱に直面する。背後にはアーイシャの影があったと史実に残っています。
アリーが暗殺された後、アブー・バクルやその盟友のウマルが重用したウマイヤ家が世襲王朝を設立する、度々これに抵抗するアリー派勢力が繰り返し反乱を起こす、その度に反乱は鎮圧されたが最も大きく語られるのがアリーの次男のフセインの反乱で、反ウマイヤ朝の狼煙をあげたその勢力は、カルバラーの地で惨殺されました。
これを
カルバラーの悲劇
と言い、これを毎年行われるアーシュラーというシーア派の最大の祭典となっていくのです。
この日はシーア派の信徒達は自らの体を叩き、しばしば傷つけて血を流しながら街を練り歩き、フセインの死を嘆き、自分の無力を悔いる。
その後アルバイーンの巡礼でカルバラーのフサインモスクにみんなで巡礼する機会であり、シーア派の信徒が一体となる時間でもあります。
アリーを最初のイマーム(指導者)として長男のハサンを第二代イマーム、次男のフサインを第3代イマームとして継承が続いていくのがシーア派主流の12イマーム派であります。
この12人にどう継承されたかに諸説あり、その諸説がシーア派の中で更に分派を生むことになっているわけです。
そして12代イマームのムハンマド・ムンダザルが姿を消したとされ、それ以来終末の日に先だって最後のイマームが救世主として再臨するまで、
シーア派の考え方では正しいイマームの統治は行われない
とされます。
このようにスンニ派は実効支配の力を持つ有力者への権力承継を正統と認めるのに対し、シーア派は実際に行われなかったムハンマドの直系の血統への権力の継承の正当性を信じていると言えますり
つまり、
歴史の肯定と否定、優越感と劣等感の歴史背景を持ち、シーア派は虐げられた民
として自己認識を持つ。自分達は来世に褒章を受ける民と信じるのです。
ただ、イランでは既に多数派となっているシーア派が虐げられた民と言えるか?というと少し微妙な気もするが多数派として定着する地域も存在するようになっているのです。
続きはまた今度。