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イスラム教に関して第二稿

さて、昨日の続きです。

特にここで重要なのは1979年の

イラン革命

であります。

当時のパフラヴィー朝を打倒して、シーア派による独自の理念による政治体制を樹立したわなので。
この革命はシャーと言われる王による専制政治に対する自由主義的な反対運動の性質もあったわけですが、ウラマーというイスラム学者による統治を掲げるイスラム主義勢力が王政打倒後の権力闘争を勝ち抜いた革命だったわけで。

ここでこのイラン革命が衝撃的であるという点は4つ。

1 近代化、西洋化に対する否定

2 イスラム統治体制の樹立

3 スンニ派優位の中東でシーア派が権力を掌握したこと

4 反米路線への転換


元々イランの反体制運動は植民地主義の支配者であった英国に対するものであったが、これをアメリカに転換して、元々中東の憲兵の役割を担っていたイランが事あるごとに

「アメリカに死を」

を呼号して世界の反米の筆頭格に躍り出た事で国際情勢の構図は大きく変わったと言えます。

つまりこれはシーア派が屈辱的に抑えられてきたことからの思想的解放の敵視する先が米国に向くようになったわけで、一筋縄では解決しないことがよく分かります。

権力から疎外された非主流派であるシーア派が、本来なら権力を継承するはずだったアリーの子孫のイマーム達が次々と弾圧され、迫害に倒れた歴史の思想の悲劇を嘆く事がシーア派の信仰の中核にある、この教義に従えば国家を統治してというのは出来ないはずです。

終末が訪れるまでは、来世で救われるシーア派の教義としては。

しかしこれをイスラム教に精通した学者であるウマラーの中での更に高位のファキーフはする事ができると言うのを神秘主義への傾倒で乗り越えています。

修行を通じて神を垣間見て本来指導者であるイマームにしか出来ない信者の生死すら左右する行為(戦争に行かせるなど)を求道者が出来るという思考です。

さて、それでは元々スンニ派の中にも反米路線や西洋化に対する疑念というもの存在していました。
イラン革命以降、中東全域にこの動きが伸びるようにも思われたのです。元々はスンニ派のアラブ諸国にとってこの西洋化に反対は脅威ではなかったのです。
しかし、このイラン革命を模倣する動きが現れた時、社会の深いところにシーア派が疎外される権力構造にあったアラブ諸国ではイラン革命の共感はスンニ派からすると、恐れと脅威に変わったのです。

特にサウジアラビアでは各地の紛争に

スンニ派のジハード戦士を派遣

して支援していくことになります。

そして、1979年のイラン革命以降、サウジアラビアはワッハーブ派的解釈を取り入れて教科書の中でも自国民に一定数存在するシーア派が信奉する要素を異端と断じていくようになります。
人間に過ぎないイマーム(指導者)に超自然的な能力を認め崇拝するシーア派を異端と断じたのです。

しかし、これをイラン革命が全て悪いと断じるメディアは完全に操作されていると言っても過言ではないわけです。

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