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完成の先の完成
そこそこ煩わしく感じる数の迷惑メールが届きます。
でも、不審な文字列のアドレス、発信者を偽装、読み始めるまでもなく、すぐ迷惑メールとわかるものが9割。開封することなく、即ゴミ箱行きです。
残り1割は、第一関門は突破して本文を読み進めると、ヘッダーのロゴが解像度不足、簡体字の混入、妙な“てにをは”など、どんなに偽装しても、迷惑メールであることは、何かしらの違和感で察知できます。
一方で、迷惑メールと同じくらいの数、企業やブランドからのDMも届きます。今の自分にあまり必要ではない情報が書かれているのに、特に迷惑だとは感じない迷惑メール未満の「不要メール」です。
迷惑メールと不要メール、どちらも虎視眈々と読者のクリックやアクションを手招いている。という点では同じなのに、メール発信の動機に「何者かになりすまして騙そうとする邪悪な気持ち」があるか、ないか、温度感のないデジタルデータになっても、その違いは不思議と瞬時に感じ取れてしまいます。
デザインの面で見ていくと、迷惑メールは、どこかに必ず隙があり、全くデザインされていません。デザインにきちんとした投資とエネルギーを注いでいる企業やブランドからのDMは、美しいビジュアル、明瞭なコピーライティング、隙のない完璧な仕立てのものが多い。
ところが最近、数は少ないですが、迷惑メールの中に、まずまず精巧にデザインされたものが混ざるようになりました。ただ、それでもやはり、完璧には半歩及ばず、必ず隙や穴が見つけられます。
この違いは少し禅問答みたいな言い方になりますが、デザインされていることすら気づかない『完成の先の完成』が、あるのだと思います。