パワースポット✴︎別府で一番古い八坂神社
地元でも意外と知られてない?!
別府で一番古い神社はここ!!
◯癒しと祈りのパワースポット
八坂神社(ヤサカジンジャ)
約1300年前に建てらた別府で一番古い神社です。
〜お祀りしている神様(御祭神)〜
スサノオノミコト・イナダヒメノミコト・スクナヒコナノミコト・イザナギノミコト・イザナミノミコト・タギツミメノミコト・タゴリヒメノミコト・イチキシマヒメのミコト・オオクニヌシノミコト
小さいですが、自然の豊かさと、地元の方に愛されているのが伝わります。
八坂神社の周辺の小道を歩くと昔の家の外壁がそのまま残っていたり、とても面白いですよ。
すぐ近くに川があり、川沿いの散策も楽しいスポットです。
〜アクセス〜
《最寄り駅》
別府駅から、徒歩約16分(1.3㎞)
《最寄りのバス停》
流川十六丁目 〜徒歩 約3分
流川十八丁目 〜徒歩 約4分
流川十四丁目 〜徒歩 約4分
◯ラクテンチ経由 鉄輪線
◯海岸経由 鉄輪•観海線
《駐車場》
境内に2台ほど駐車可能
※道がとても狭いので、徒歩、バス、タクシーがおすすめ
↓↓八坂神社の歴史とおもしろ豆知識です↓↓
◯八坂神社はなぜできた?
〜厄病退散の癒しと祈りのスポット〜
八坂神社(昔は祇園宮:ギオングウと呼ばれてました)
約1300年前(717年 ) 京都から、天皇からの命令(勅令:チョクレイ)で疫病退散の願いをこめ建てられました。
京都にある八坂神社から、神様の魂をわけて別府の地にうつしました。
京都の"祇園:ギオン"から、名前をとって祇園宮とよんでいました。名前が変わった今でも、地域の橋や温泉でも祇園の名前をみかけます。
◯祇園宮から八坂神社になんで名前が変わったの?
お釈迦様の生まれた土地を"祇園精舎:ギオンショウジャ"といいました。
この"精舎:ショウジャ"は、"寺院"という意味です。
もともと、お祀りしている厄病退散の神様は、お釈迦様の誕生した"土地の守り神"として青龍を祀っていました。この神様は、日本がつくった独自の神様です。
日本では、仏教(お寺)と神道(神社)で違う宗教が一緒にお祀りされてましたが、明治以降、別々にお祀りする事になりました(神仏混淆禁止令:シンブツコンゴウキンシレイ)
その為、名前が祇園宮だと、お寺の意味になってしまう為、八坂神社に変えました。
◯厄病退散の神様と青龍について
昔は、病気が流行っても、ウイルスが原因だとわかりませんでした。
厄病は死んだ者達の怨霊が原因だと考えられていた為、お祓いをしていました。
スサノオノミコト(素戔嗚尊)は、大変強い、そして怖い神様として知られています。
なので、この神様が怨霊を祓うのに良いとして、お祀りされています。
京都の八坂神社では、スサノオノミコトと、青龍をお祀りしています。
ここは、深い井戸があり、水の湧き出る大切な場所です。
水や風などの自然の気の流れを"龍"として、表現される事があります。
別府の土は、水がしみ込みやすい性質(伏流水)だったため、川などが少なく、現在のように広い範囲で人が住んでいませんでした。
八坂神社の朝見(アサミ)と呼ばれる地区は、昔から豊かな湧水がでる為、田んぼが沢山あり、八坂神社付近を中心として栄えていました。
貴重な水と龍と水脈と、京都の八坂神社との共通点があるのかもしれません。
※京都の八坂神社では、風水としても、方位で東は青龍が守るとされています。
◯この時代に疫病退散の神様をお祀りした時代背景
この時期、遣唐使( ケントウシ:中国の文化を学んでもってくる人)が仏教や芸術、科学技術を持ち帰りました。そのおかげで、日本独自の文化が発達しました。が!!同時に中国から天然痘などのウイルスももちこまれました。
特に、735〜737年は、天然痘の大流行で人口の3割がなくなりました。
◯八坂神社のおもしろ豆知識①
〜狛犬の製作者について〜
狛犬は、悪いものを追い払い神を守るためにあります。
八坂神社の狛犬は、『岩井大明:イワイタイミン』の作品。
岩井大明は、別府の神社の狛犬や仁王像などの石像を彫りました。
別府にある赤松安国寺(アカマツアンコクジ)跡にも、国と国民の平和をお祈りする為、天皇陛下の位牌(イハイ)をお祀りするための碑(ヒ:後世に伝える為に石に文字を掘って建てたもの)
岩井大明の作風は、柔らかいフォルムが多く見る人を和ませてくれます。
◯八坂神社のおもしろ豆知識②
〜別府に金山?金山と別府の意外な話〜
境内の入り口にある石柱には、『金山 山崎権市:ヤマザキゴンイチ』と刻まれています。
この方は、金の採掘をする技術者です。
明治時代、金山王と呼ばれていた東京の木村商事社長の『木村久太郎:キムラキュウタロウ』が台湾の金山でケガをして、別府の温泉に療養にやってきた際、「八坂神社神社近くの山に金鉱脈がある!」と思い試しに掘ったところ、質の良い金が採掘されました。
しばらくは、金の採掘していましたが、掘る途中に温泉の高温の蒸気が出るため、それ以上掘る事ができなくなりました。
社長は諦められず大正12年に、山崎権市を派遣し、もう一度採掘をしようとしました。
しかし、地元住民や市議会から温泉の水脈に影響がでて他の温泉がでなくなる!と大反対をうけ、鉱山の監督局(鉱山で働いている人の安全を守る機関)からも中止といわれ、現場の技術者として山崎権市は、会社に中止するよう説得しました。
金を掘らなくなった後、山崎権市は、せっかく別府を第二の故郷と決めたのだから、
何か町の役に立ちたいと、木村商事の持ち物であった土地を使い一大遊園地を作る!!!と計画をし、何度も交渉して、ラクテンチができました。
なお、山崎権市が住んでいた家は現在も残っています。
現在は、Cafe【moulin】として営業されています。
座敷の床の間の壁には、黒と赤の絨毯が塗り込まれた壁や、かつての旧邸の面影が見れますよ。
◯八坂神社おもしろ豆知識③
〜別府で一番巨万の富を得た?!有名な料亭の石柱〜
境内のまわり石柱には、ナルミ 高岸ナル オタフクなどの掘られています。
戦前から戦後に浮世小路(ウキヨコウジ)とよばれた飲食店が立ち並ぶエリアにあった別府で大変有名だった料亭(なるみ)と料亭(お多福)の名前です。
『なるみ』はフグ料理で有名だったそうです。
『なるみ』と『お多福』は兄弟店でした。
料亭『なるみ』は、別府の宣伝と公共事業にも貢献されました。
大変高級な料亭で、当時の公務員の一ヶ月分のお給料で食事ができる。そんな、別府の人なら一度は行ってみたい!と思うようなお店でした。
『なるみ』ほど、別府で巨万の富を稼いだ店はないと言われるほど繁盛していたようです。
しかし、『なるみ』のご亭主は、お金は貸しても借用書を作らない事で有名で、死後、一枚も貸金書が出てこなかったそうです。
そして、贅沢を好まず質素生活をされていたそうです。
残念ながら、『なるみ』は今はありませんが、『なるみ』最後の板前といわれた三根さんが、別府で日本懐石の『みね久』を営んでいらっしゃいます。
『みね久』に行かれる際は、ご予約をおすすめします。
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