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司馬遼太郎作品のフィクション性

 中年になってから幕末にはまったにわかの学習日記です。
 もともとは奈良~平安時代が好きな歴史オタクでした。
 装束もお墓もはっきりしていないのが当たり前な界隈にいたので、「幕末って持ち物やお墓が残っててすごい!」と日々感動しています。


司馬遼太郎への偏見

 実は幕末を好きになるまで、司馬遼太郎に対して偏見がありました。
『司馬史観』を信じる読者に対して、と言った方がいいかもしれません。

 具体的に言うと、司馬の書いた人物(斎藤道三や坂本龍馬など)を素晴らしいと持ち上げ、司馬の小説を史実だと信じているタイプの人たちです。
 自分なりの史料批判もせずに司馬の書いたことをまるっと鵜呑みにする様が、歴史好きとしては少しいただけないな、と……。

(中学時代、梅原猛『隠された十字架』にハマって、いまだに法隆寺夢殿の救世くせ観音のミニチュアを見るのが怖い私もあまり人のことは言えませんが……一応今では「ちょっと思い込みの強い論理立てだったな」と思ってるから許されたいです……)

 そんな『司馬信者』のせいで、ご本尊まで煙たく思っていましたが、幕末に触れて少し考えを改めました。
 司馬は自分の書いた作品のフィクション性を自覚していたであろうと気づいたからです。

刀匠の名跡『和泉守兼定』

 司馬は代表作のひとつ『燃えよ剣』で圧倒的な土方歳三ブームを巻き起こしました。

 現在、東京都日野市の土方歳三資料館には、土方の佩刀はいとうである『和泉守兼定いずみのかみかねさだ』が残されています。

 美濃の関(現在の岐阜県関市)では戦国時代から作刀が盛んでしたが、和泉守兼定は美濃の刀匠の中でも頭一つ抜きん出た名跡みょうせきとして知られ、特に二代と十一代が有名です。

 二代目(通称之定のさだ)は戦国時代に活動した人物で、代表作に細川忠興ただおきの『歌仙兼定かせんかねさだ』や森長可ながよしの『人間無骨にんげんむこつ』があります。
 刀が現役で使われていた時代、之定は多くの刀を打ちました。

 十一代目は会津藩(現在の福島県会津若松市)に仕えていたことから会津兼定とも呼ばれ、維新後の1892年(明治25年)に皇太子(後の大正天皇)へ刀を献納したことで知られています。
 新選組が会津藩の部下だった影響もあって、土方の刀を打ったのは会津兼定だとされています(兼定がいつ土方のもとに渡ったのかという記録は見つかっておらず、実は十二代目が打ったなどと諸説あります)。

わかりやすい『之定』の銘

 私は土方の兼定を2022年5月に土方資料館で一度、同じ年の9月に会津で開かれた『新選組展』でもう一度見ました。
 また歌仙兼定を2023年4月に東京都文京区の永青文庫えいせいぶんこで、もう一振りの之定を2024年7月に千葉県佐倉市の塚本美術館で見ることができました。

 之定は『字が達者でない』ことで知られていて、之定という通称も、なかご(剣の柄に差される根元の部分)に記される銘の『定』の字が『うかんむりに之』に見えるので呼ばれた名前です。

例:之定の短刀

 実際に歌仙兼定ともう一振りの之定を見て、「之定ほんまに之定や……」と大変感動しました。

関鍛冶伝承館で彫っていただいた『之定』風の銘切)

『燃えよ剣』の土方と兼定

『燃えよ剣』は、百姓出身ながら武士よりも武士らしく生きた男・土方歳三をとにかくかっこよく描いた話です。

 新選組という組織を守るためなら芹沢鴨・山南敬助やまなみけいすけ・伊東甲子太郎かしたろうなどの反乱分子をためらわず粛清し、京で出逢った女絵師のお雪と深く愛し合いつつも武士の誇りを貫くいくさに赴くため別れを告げる、という『最後の侍』『男の中の男』と言うにふさわしいキャラクターとなっています。

 この土方が持っている和泉守兼定は、之定の作という設定です。

 日野の土方資料館へ兼定を見に行った時、前に並んでいた男性から「之定らしさはどこですかね?」といったことを話しかけられました。
 その頃は今よりももっと幕末にわかでしたが、当時は引退していた『刀剣乱舞』のおぼろげな知識で『兼さん(後述)は之定ではないのでは?』と思ったものの、にわかゆえに自信がなく「そうですね……」などとゴニョゴニョ答えるに留めました。

(いわゆる『美術館ナンパ』の類かと一瞬警戒したのですが、その後特にアクションがなかったので、単に之定の話をしたかっただけだったようです)

司馬遼太郎の意志

 私は当初、土方が之定を持っているのは司馬の思い違いではないかと考えていました。
 ですが実際に土方の兼定を見ると、茎の銘は読みやすく(特に『和泉』の字が綺麗)、明らかに之定ではありません。

(商品画像の刀身はちょっと見づらいですが、拡大するとなんとか読めます)

 まだまだ刃文の見方などを勉強中の私にすらわかるのですから、執筆前に土方家を取材した司馬がわからなかったはずはありません。

 それを踏まえると、司馬は本物の土方の兼定が之定でないことを承知の上で『燃えよ剣』の土方に之定を持たせていたのではないか、と考えることができます。
 侍のための刀を多く打っていた之定を持たせることで、土方の『最後の侍』としてのカリスマ性を高める効果を狙っていたのではないでしょうか。

 史実とあえて違うことを描いて己の意志を貫くほど、司馬は自作のフィクション性に自覚的だったかもしれない……と考えると、司馬遼太郎という作家や司馬作品への見方が変わりそうです。

(資料館で私が会った男性のような方もそれなりにいますが……) 

おまけ

 日野の資料館で和泉守兼定の赤い鞘を見て、反射的に「兼さんだ!」と思ってしまいました。

『刀剣乱舞』というゲームは、下の記事で紹介した通り、刀剣の逸話や伝説をもとにした付喪神が人の形を取って戦うという設定です。

『刀剣乱舞』の土方の兼定は、同じく土方の脇差・堀川国広(現存せず)がしきりに「兼さん」と呼ぶことから、自然にファンからも「兼さん」と呼ばれています。

関鍛冶伝承館にて。上から時計回りに孫六兼元まごろくかねもと・歌仙兼定・人間無骨・和泉守兼定

 兼さんは「かっこよくてつよーい、最近流行りの刀」と自称するだけあって、赤い単衣ひとえと白袴の上に浅葱だんだらの羽織をまとい、際立った装束の粋さ、美しさがわかります。
 その上、木村良平さんの荒々しくも端正な声が、『鬼の副長の愛刀』らしい力強さを引き出しています。

 兼さんのイメージはこの赤い鞘からも着想を得ている……と実地で見て、やっぱり何でも生で見るものだなと強く思いました。

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