理想と現実の距離と仮面(2)


理想と現実の距離を埋めるもの


第二部は「雲錦」。これは須磨(源氏物語で源氏の君が流されるあの須磨です)を舞台にした新創作舞とのこと。筋書きは、左遷中の在原業平っぽい貴公子(概念)と美女(概念)との悲恋といえばいいのか。
(概念)としたのは、仮面をつけるというのは、(概念)という記号なんだなぁというのが一番の感想だったから。理想と言い換えてもよいのかもしれないけれども、言うまでもなく理想の美女は、時代とともに定義が変わるので、時代を超えて、美女を表現するとなると、(概念)とするしかないのだなと思ったのだ。そして、「そうか、現実は現代の美しき人が演じていても、これはいにしえの理想の美しき人ですよという(概念)を示すために、仮面があるのか」と合点がいったからでもある。
仮面というのは、ものすごくよくできたシステムなのだな。だからこれほど長く愛好されてきたのかもしれない、と、能楽鑑賞のおもしろそうな部分をちょっとだけ発見できたような気がした。

抑えた動きなのに凝視してしまう


ところでわたしは、勝手なイメージで、「能って動きが少ない」と思っていた。だから飽きてしまうのではないか、という危惧もあったのだが。
確かに動きは削ぎ落とされていた。少ないのではなく、徹底して削ぎ落とされていた。あ、この感覚は水墨画と一緒だ、余白なんだ、と腑に落ちた。
時代が変わっても、人の心はそんなに変わらない。言葉も、実はそんなに変わらない。言葉遣いや意味合いは変わるけれど、シチュエーションだとか心情だとかをことばという、ある意味記号的なもので表現しているからだ。
だけど、習慣や服装や理想の姿のようなものは変わる。そこで、記号的な最低限にまでそぎ落とし、あとは想像で補うほうが普遍的な表現になるということなのだろう。
といっても、観ながらそこまで考えていたわけでなく、直感的になんとなく腑に落ちたな、というものを、今言語化しているだけなんだけれども、とにかく、「ああ、そうか。これはおもしろいな」という興味がむくむくと湧き上がってきて、その削ぎ落とした動きを凝視していた。
一方、ことばのほうは、情報盛りだくさんである。削ぎ落とされた動きを補うかのごとく、謠と歌が続く。イタリア語歌詞の歌も、パンフレットに和訳や曲解説が載っているので、感情の動きがよくわかる。

視覚的な情報は削ぎ落とし、言語的な情報はひたすらに盛る。その両面で、時代が変わっても面白さの部分は変わらぬように、普遍化している。そういうことなんだな、ということがよくわかった。だからこそ、オペラの歌唱や衣装と融合する余白もあるのだろう。なるほどなぁ。だから相性が良いのだ。

ハマるまではまだ行っていないが


と、いうわけで、ハマったとは言い難いが、「もっといろいろと能の舞台を観てみたくなった」というのが、今回の感想である。足を運ぶ前に思っていたよりも、難しくなかった。
でもさ、中学高校の芸術教室でも鑑賞の機会がなかったまま、ここまできてしまったので、すごく垣根が高くて難しそうだと思うじゃん。。。百聞は一見にしかずとは、こういうことなのね。

そして、まずは解説付きのポピュラーそうな演目を観てみようと検索するに至ったのである。
国立能楽堂で行なう演目は、学生料金(じつは今、二度目の大学生なのである)だとけっこうリーズナブルなこともわかり、来年は何度か足を運んでみようと思ったのだった。
まず、年内の国立能楽堂デビューは済ませたので、それについてはまた、書いてみたいと思う。


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