死亡宣告の際の心構え
救急の現場にいると、死亡宣告を行うことは特に珍しいことではない。自分なりの「型」のようなものも出来たが、それは今まで自分が見てきた上司・同僚のやり方がもとになっている。
今の医学生がどうかは分からないが、少なくとも自分が学生だったころに死亡宣告のやり方を学んだ記憶はない。ただ私は、「こういう死亡宣告はしたくない」という漠然としたイメージは学生の頃から持っていた。実際に死亡宣告の場に立ち会った経験があったからだ。
大学2年生の頃、祖母の看取りを経験した。
深夜の病室で、家族も集まり、涙を流しながら声をかけていた。
間もなくして、最期の時が訪れた。
心電図モニターはフラットになり、心静止を告げるアラームが鳴り響いた。程なくして、その日の当直医がやってきた。これまで担当してくれていた医師ではなく、初めて見る医師であった。
手短に、サラッと死亡宣告を行い、すぐに姿を消した。
この時の衝撃は、今でも忘れられない。
人が人生を終える最期の宣告は、こんなにもあっさりしているものなのか。何十年という歴史を、どこの誰だかわからないものにあんなにも雑に扱われるものなのかと、怒りすら感じた。
この医師の死亡宣告が、自分の反面教師となっている。
夜間のバイト先の病院で、お看取りだけを担当することは良くあることだ。
その日の晩に看取る可能性が高い時は、事前に申し送られることが多い。その時は家族が付き添っていることが多いため、できる限り一度病室に足を運び、家族に自己紹介と挨拶をして、家族が現状をどれだけ受け入れられているかを確認する。
それができずに、いきなり看護師から死亡確認の依頼の連絡が入ることもある。たくさんの家族がすでに集まり見守っている中に、丸腰で入り込むことができるはずもない。それができるトーク力やコミュ力も持ち合わせていない。
短い時間ではあるが必死にカルテを遡り、これまでどのような治療経過を辿ってきたのか、主治医とどんな面談を経てきたのか、家族の受け入れ状況はどうか、カルテだけではなく担当の看護師からも情報を得る。
それから、家族の前に姿を出す。
このような段階を踏んで、死亡確認に移るようにしている。医療者にとってはn分の1の死亡確認だが、患者本人・残された家族にとっては、1分の1なのであり、この時の記憶は私のように一生つきまとうのだ。適当でいいはずがない。
これは、死亡が予期された入院中の患者さんの場合をイメージしている。救急搬送された場合では、このような時間を十分取ることはできない。それでも、いきなり家族を呼び入れて死亡宣告をすることはない。事前に家族と別部屋で話をして、どれくらい現状把握できているのか、受け入れができているのかを確認する。中には、心肺停止状態だと理解していない(聞かされていない)家族もいるからだ。最初にここの認識を確認し、ずれがあれば補足する。その上で、死亡確認の話へと移っていく。
1人の患者さんへの死亡宣告は、たった一度きりしかない。患者本人にとっても、家族にとっても。
救急外来が忙しいとか、真夜中で疲れているからとか、こちらの都合で蔑ろにしてしまっていないか。あの時の医者と、同じことを自分もしてしまってはいないか。死亡宣告の時には、いつも自問自答している。