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『最後の夜』

「短い間、本当にありがとうございました。丁寧に面倒を見ていただいて本当お世話になりました。」

深々と頭を下げ、心を込めた本気の1曲を歌い上げる。

「本気で困ったらさ、俺かあいつにすぐ相談してくれ。お前くらいの立ち位置ならどうにでもしてやれるから。」

かつて、自分を社会人としての自覚が足りないと諭し、リスクが高い人物と評した上司からの別れの言葉に感慨深いものを感じた。

上役含む身の回りの全ての人間をしょうもないと評し、禁煙者のみの席で股をかっぴろげて煙草を吹かし、上役のマイクを奪って大声で熱唱したあの日の自分。
そして、上役が楽しそうに歌い、饒舌に酒を煽る姿を横目にマイクを譲り、煙草はポケットに入れたまま、自分なりの尊敬と敬愛を持って引き立てる今の自分。

私のこの数ヶ月は、本当に堕落したものだった。仕事に何一つ興が載らず、昼前に起き、高々1時間もあれば終わる仕事を丸1日かけて上へ投げていた体たらくな日々。その中で、自分は己の至らなさと、涼しげな顔の裏の膨大な努力と、落ちぶれた自分をそれでも見守る上役の愛を確かに感じていた。

その場に居合わせた全ての人に丁寧に頭を下げ、あの日の自分とは思えぬ腰の低さを持って店を後にする。
熱意や動機を見いだせない名も無き日々を、私はそれでも愛していた。

さあ、これで終わりではない。私にはもう1つ、これまで過ごした日々に向き合わなければならないことがある。
某駅周辺へとタクシーを走らせ、親切な運転手にできる限りの礼儀を尽くして湿った地表に降り立つ。

「ホテルの前まで来たぞ。明日から、俺はどこにいるかわからない。会うなら今日にしよう。」

あの頃の自分のように、冷たい口調が君を突き刺す。

今、駅前で解散したよ。あと2分くらいで着くけど、わたし終電が近いからあんまり長く会えないと思う。」
「終電なんて考えなくていい。」

君を呼ぶ。

「あと2分くらいで着く。」

そうして間もなく君の姿を見た。

「髪伸びたね。エクステ?」
「そう。」
「だと思った、そんな短期間で伸びるもんじゃないしな。」

軽い会話を交わし、2人でホテルへ入る。経費で取った、1人用の喫煙部屋。
会う前と比べ、不思議なことにも冷たい感情が暖かく変わっていく自分がいる。
監視カメラだらけの館内。後でホテルから文句言われても2人分は経費落とせねぇな、なんて考えながら部屋に入る。

「まあそこでゆっくり休んでくれ。」

そうして君をベッドに座らせ、羽織っていた重いコートとスーツを脱ぐ。

「1ヶ月ぶり。俺に会いたかったんでしょ?どうしても。」

君を手繰り寄せ、唇を重ねる。
申し訳程度に戯れ、唇に耳を這わせたあとに多少雑に服を脱がす。

「回りくどいの要らないでしょ?脱いで。」

それからは、互いの鬱憤や寂寥を吐きつけるかのように、薄暗い部屋で激しく求め合った。


静まり返る夜の街を横目に、窓際で煙草を咥える。
君はしばらく憔悴した後、下着を纏って対話の時間が訪れた。

「人間関係に疲れた。女まじでめんどくさい。いまはただ、自分一人で休日にポルシェを走らせ、買い物に行き、片手間でスタバを飲むような日々が最高に心地いいのよね。」

「それは素晴らしいこと。あなたが現実に満足して過ごせているのが何よりだよ。」

穏やかな時間が流れる。だが、君はいつものように複雑な顔をしていた。
君が考えていることはよくわかる。
掴みどころのない私を前に、頭の中での諦めと、それでも燻る残り火をどうしようもなく抱えているのだと。

「今、本当に恋愛をしたくない。今年はもう1人で過ごすつもりでいる。自分の中で生み出せるものと向き合う日々の方が、今の俺には遥かに幸せなんだよね。」

「それは素敵。私は何もあなたに執着しようだの、何か仕掛けようだのもう思っていないから安心していい。」

あまりに強がる君を前に、突き放す私の方が心なしか苦しくなる。

「人間関係や友人に疲れたって言ってる人に、なんて言葉をかけてやるのが正解なんだろうね。」

「それって俺のこと?笑」

「違うよ笑 周りにいるんだよね。」

ほら、始まった。
君がそういう話をするとき、大体登場するのは"いいかんじの"男だ。
卒なく私見を述べる。

「それはどういう文脈かにもよるな。どんな流れでその発言が出た?」

「今度東京から離れたこの地でご飯でも行こうという話になった時、行きたい、仕事や友人に疲れたって言い出したんよね。どういう意味なのかわからない。その人は陽キャで、仕事も友人関係も上手くこなしているような人。だからそれに対して、私が何を返してやるべきかわからないのよ。」

やや楽しそうに、それでいてどこか悩ましそうに君が語る。

「それはね、俺は仕事も友人関係も上手くいってるモテそうな人間に見えるかもしれないけど、俺にはそういうの要らないんだ、俺は疲れたから癒しが欲しい、君といると癒されるんだ、ってのを暗に伝えたいんだよ。ポジティブに捉えていい。」

納得感のある、背中を押すような言葉を君に贈る。
にもかかわらず、君は悩ましそうにしている。
少し顔色を変え、君が再び口を開く。

「疲れているのもわかるんだけど、それを伝えられてどうしてほしいのかわからないのよね。知ってると思うけど私は冷たい人間だし、そんなの私も皆も同じだよ、としか思えないのよ。」

面白い。この時点で、君の考えてることは手に取るようにわかる。
私も本当に性格が悪い。君のすべてを手中に納めた上で、続けてこう返す。

「この人なにを伝えたいの、どういう意図なのって思うのはよくあるかもしれない。けど、この人の為に、自分は何をしてあげられるのだろうと思うのならそれはこちら側に気持ちがあるってことだと思うよ。自分の側に気持ちがあるなら、その人に行ってみて損はないよ。その人のことがわからないのなら、時間をかけて知っていくことが大きな意味を齎す。」

君は納得しているようだが、それで終わらせない。

「けどね、そのためには自分の気持ちをはっきりさせないといけないよ。こうして釣れない、気持ちの読めない俺にいつまでも気を取られていては、本気になるべきものにもその気になれないだろうね笑」

そう言うと、君は憎らしそうに笑っていた。
君はきっと、私に全てを見透かされていること、それでいてどうにも足掻きようがないことを痛いほどわかっているはずなのだ。

こういった会話をしていると、自分の中に流れた実際よりも長い時間の中で、自分が変遷してきたことを実感する。
君は本当に変わらない。こうして、俺の気を引きたい時にはいつも他の男を匂わせるのだ。
それで、あの頃の至らぬ私は毎回目の色を変えてしがみついたり、嫉妬に憤慨してきたものだった。

あの日の情けなく、どうしようもなく惨めで可愛らしい自分。あの自分に悟りを開かせ、物怖じしない男に仕上げてきたのは君だというのに。

わかっている。君にとって、今の私と肩を張れる男はいないのだと。だがそれと同時に、既に肩を張る必要も感じなくなった自分がいることにも時の流れを感じる。

「変わらないなぁ君は。そうやっていつも強がってるんだよね。ほらおいで、寂しいんでしょ?人間、自分の気持ちに正直であることは大切。でもね、強がる中でこそ得られるものもあるし、前に進めることもある。」

君を抱きしめ、頭を撫でながら優しく諭す。

「今はそれでいいんだよ。強がっても、足掻いても、気を紛らそうとしても、何をしてもいい。俺もそうだけど、何をしても、決して消えることのない蟠りというものもある。だが今は苦しくても、いつの日かそれを自分を前に進める土台にできる時が必ず来る。その時まで、進み続ければいいんだ。」

面白いものだ。かつてあれほどまでに醜く憎み、我をも忘れて振り回され、精神的に味わうこの上ない地獄の中に縛られ続けていた自分が、その元凶たる君に対して子を見るような優しさを持って接することができるというのが。

しかし、それもわかる。私はこの日々の中で、あらゆるものに対する愛というものを学んだ。愛とはなにか、愛はどのように与えるのか、生き様を持って我が身に諭してくれた人が世の中にはいた。他者への愛も、慈しみも、すべてその人から学んだ。
堕ちに堕ちた自分だが、せめて僅かでも、その人の在り方に倣いたいと思ったのだ。

恋愛の話は落ち着き、薄暗い部屋で君としばらく佇んでいた。自分をこの上なく傷付け、あしらった相手。もがき苦しみ続けた日々。
ふと窓の外に目をやると、東京とはやはり少し毛色の異なる市街が映る。あの日々も、君も、今となっては懐かしく、愛おしく思う自分がいる。

だが、この愛おしさ、懐かしみは決して後ろを振り返るためのものではない。
わかっている。だからこそ、私は今、自分にできる最善を持って目先の現実に向き合いたいのだ。
長い沈黙の後に、再び口を開く。

「俺はもうしばらく、誰にも捕まらないよ。誰かに執着したり、何かを求めるのではなく、自分1人にできる範疇で好きなことをしてみたい。心の赴く方向へ進みたい。だから次はいつ会えるかわからないよ。いつかまた、どこかで会おう。
今が苦しくても、しんどくても、気分が晴れなかったとしても。
それでも、自分の好きなように、思うがままに生きてみろ。
その経験とその中で得るものは必ず、自分をまだ見ぬどこかへ導いてくれる。
自分を曲げるな。好きなように生きろ。」

部屋を出る前、最後に君と抱擁を交わし、頭を撫で、唇を重ねた。
それから程なく、大通りにてタクシーを呼び止め、君を載せる。

「料金は後で教えてくれ。
ありがとう。いつかまた、どこかでね。」

言葉は多く要らない。
信号は青に変わり、君を乗せた黒のワゴン車は後を濁さず姿を消した。

そう、これでよかったのだ。私は長い時間の中での苦しみに己を腐らせ、触れたもの全てを殺めるかのように生きてきたが、すべてを受け入れた最後の時間に、その日々、その相手を赦すことができた。

人間、誰しも善人にも悪人にもなりうる儚き存在である。悪人に見える何者かにも、心の奥底に秘めた思いがあり、葛藤があり、上手く生きることのできない不器用さを抱えているもの。
それでも、この空蝉の世のもとで、仮にもそれが愛を分かちあった相手なら、最後の最後には苦労を労ってやりたいと思うのは人の良心というものである。

止めどなく流れゆく月日の中、全ては移りゆく理。
季節は代わり、かつて街を包んだ熱気をも木枯らしは掃き攫っていく。
いつの日か君が自分の居場所を見つけたとき。
自分で自分を正面から認められるようになったとき。
しがらみを脱ぎ去り、独り我が道をゆく私の姿を風の中に知ってください。


涼しい風が通り過ぎた、ホテル前の通り。
降り出した雨の中、白の装束を纏っていつまでも独り佇む。
吐き出した煙は色濃く、天高くどこかへ消えてゆく。
自分の中での長い時間がまた1つ、静かに終わりを迎えたのを感じた。


『最後の夜』(2024)


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