『最後の夜』
深々と頭を下げ、心を込めた本気の1曲を歌い上げる。
かつて、自分を社会人としての自覚が足りないと諭し、リスクが高い人物と評した上司からの別れの言葉に感慨深いものを感じた。
上役含む身の回りの全ての人間をしょうもないと評し、禁煙者のみの席で股をかっぴろげて煙草を吹かし、上役のマイクを奪って大声で熱唱したあの日の自分。
そして、上役が楽しそうに歌い、饒舌に酒を煽る姿を横目にマイクを譲り、煙草はポケットに入れたまま、自分なりの尊敬と敬愛を持って引き立てる今の自分。
私のこの数ヶ月は、本当に堕落したものだった。仕事に何一つ興が載らず、昼前に起き、高々1時間もあれば終わる仕事を丸1日かけて上へ投げていた体たらくな日々。その中で、自分は己の至らなさと、涼しげな顔の裏の膨大な努力と、落ちぶれた自分をそれでも見守る上役の愛を確かに感じていた。
その場に居合わせた全ての人に丁寧に頭を下げ、あの日の自分とは思えぬ腰の低さを持って店を後にする。
熱意や動機を見いだせない名も無き日々を、私はそれでも愛していた。
さあ、これで終わりではない。私にはもう1つ、これまで過ごした日々に向き合わなければならないことがある。
某駅周辺へとタクシーを走らせ、親切な運転手にできる限りの礼儀を尽くして湿った地表に降り立つ。
あの頃の自分のように、冷たい口調が君を突き刺す。
君を呼ぶ。
そうして間もなく君の姿を見た。
軽い会話を交わし、2人でホテルへ入る。経費で取った、1人用の喫煙部屋。
会う前と比べ、不思議なことにも冷たい感情が暖かく変わっていく自分がいる。
監視カメラだらけの館内。後でホテルから文句言われても2人分は経費落とせねぇな、なんて考えながら部屋に入る。
そうして君をベッドに座らせ、羽織っていた重いコートとスーツを脱ぐ。
君を手繰り寄せ、唇を重ねる。
申し訳程度に戯れ、唇に耳を這わせたあとに多少雑に服を脱がす。
それからは、互いの鬱憤や寂寥を吐きつけるかのように、薄暗い部屋で激しく求め合った。
静まり返る夜の街を横目に、窓際で煙草を咥える。
君はしばらく憔悴した後、下着を纏って対話の時間が訪れた。
穏やかな時間が流れる。だが、君はいつものように複雑な顔をしていた。
君が考えていることはよくわかる。
掴みどころのない私を前に、頭の中での諦めと、それでも燻る残り火をどうしようもなく抱えているのだと。
あまりに強がる君を前に、突き放す私の方が心なしか苦しくなる。
ほら、始まった。
君がそういう話をするとき、大体登場するのは"いいかんじの"男だ。
卒なく私見を述べる。
やや楽しそうに、それでいてどこか悩ましそうに君が語る。
納得感のある、背中を押すような言葉を君に贈る。
にもかかわらず、君は悩ましそうにしている。
少し顔色を変え、君が再び口を開く。
面白い。この時点で、君の考えてることは手に取るようにわかる。
私も本当に性格が悪い。君のすべてを手中に納めた上で、続けてこう返す。
君は納得しているようだが、それで終わらせない。
そう言うと、君は憎らしそうに笑っていた。
君はきっと、私に全てを見透かされていること、それでいてどうにも足掻きようがないことを痛いほどわかっているはずなのだ。
こういった会話をしていると、自分の中に流れた実際よりも長い時間の中で、自分が変遷してきたことを実感する。
君は本当に変わらない。こうして、俺の気を引きたい時にはいつも他の男を匂わせるのだ。
それで、あの頃の至らぬ私は毎回目の色を変えてしがみついたり、嫉妬に憤慨してきたものだった。
あの日の情けなく、どうしようもなく惨めで可愛らしい自分。あの自分に悟りを開かせ、物怖じしない男に仕上げてきたのは君だというのに。
わかっている。君にとって、今の私と肩を張れる男はいないのだと。だがそれと同時に、既に肩を張る必要も感じなくなった自分がいることにも時の流れを感じる。
君を抱きしめ、頭を撫でながら優しく諭す。
面白いものだ。かつてあれほどまでに醜く憎み、我をも忘れて振り回され、精神的に味わうこの上ない地獄の中に縛られ続けていた自分が、その元凶たる君に対して子を見るような優しさを持って接することができるというのが。
しかし、それもわかる。私はこの日々の中で、あらゆるものに対する愛というものを学んだ。愛とはなにか、愛はどのように与えるのか、生き様を持って我が身に諭してくれた人が世の中にはいた。他者への愛も、慈しみも、すべてその人から学んだ。
堕ちに堕ちた自分だが、せめて僅かでも、その人の在り方に倣いたいと思ったのだ。
恋愛の話は落ち着き、薄暗い部屋で君としばらく佇んでいた。自分をこの上なく傷付け、あしらった相手。もがき苦しみ続けた日々。
ふと窓の外に目をやると、東京とはやはり少し毛色の異なる市街が映る。あの日々も、君も、今となっては懐かしく、愛おしく思う自分がいる。
だが、この愛おしさ、懐かしみは決して後ろを振り返るためのものではない。
わかっている。だからこそ、私は今、自分にできる最善を持って目先の現実に向き合いたいのだ。
長い沈黙の後に、再び口を開く。
部屋を出る前、最後に君と抱擁を交わし、頭を撫で、唇を重ねた。
それから程なく、大通りにてタクシーを呼び止め、君を載せる。
言葉は多く要らない。
信号は青に変わり、君を乗せた黒のワゴン車は後を濁さず姿を消した。
そう、これでよかったのだ。私は長い時間の中での苦しみに己を腐らせ、触れたもの全てを殺めるかのように生きてきたが、すべてを受け入れた最後の時間に、その日々、その相手を赦すことができた。
人間、誰しも善人にも悪人にもなりうる儚き存在である。悪人に見える何者かにも、心の奥底に秘めた思いがあり、葛藤があり、上手く生きることのできない不器用さを抱えているもの。
それでも、この空蝉の世のもとで、仮にもそれが愛を分かちあった相手なら、最後の最後には苦労を労ってやりたいと思うのは人の良心というものである。
止めどなく流れゆく月日の中、全ては移りゆく理。
季節は代わり、かつて街を包んだ熱気をも木枯らしは掃き攫っていく。
いつの日か君が自分の居場所を見つけたとき。
自分で自分を正面から認められるようになったとき。
しがらみを脱ぎ去り、独り我が道をゆく私の姿を風の中に知ってください。
涼しい風が通り過ぎた、ホテル前の通り。
降り出した雨の中、白の装束を纏っていつまでも独り佇む。
吐き出した煙は色濃く、天高くどこかへ消えてゆく。
自分の中での長い時間がまた1つ、静かに終わりを迎えたのを感じた。
『最後の夜』(2024)