どう綴れば良いのか

言葉や文章は複数の意味や背景をもち、読んだ人の心のプリズムによって多種多様に煌めいて欲しいものであるが、どのように綴っても誤解されるような予感がする。どう綴れば良いのか、どう話せば伝わるのか、自分の琴線を見せればわかってくれるか、うんぬん、かんぬん、そうか何も書かなくても世界は回る。何かを書いている人、喋っている人、動いている人は総じて自分のことを世界の救世主だと勘違いするナルシストなのだね?というとこれはニヒリズムになってしまい、そういうものは書くに値しないほどありふれていて、ではなぜまだ文章を綴っているのかというと、さっき見たもの、今まで見たもの、物とは作品や文章のことね。そういう見たものからの反動、押されて押し出されたような状態。つまりはボールで、石ころで、ローリングストーン、転がっていきましょう。目標や計画、構造物の構築、真理のようなものは、個人的なノウハウとして、言葉にしたりできないものも含めてぼんやりと眺めておればよくて、それでもどこかに自分と同じ言語を喋る他者をずっと探していて、協力したい気持ちが山々なのだけれどなかなかね。よい音楽とは何かをよくよく議論したらよくって、その議論、勝とうとしたら勝てても、勝敗のある音楽は良いものではないなぁ。そうでなくて、まず一人で分身の術を使って、最高のものを作ってみてさ。きっとできないけどできたとして、その中身でなく構造を把握して棚に飾るのね。次は実在の相方と最高のものを、できないけどできたとして、その具体でなく抽象や構成、成り行きみたいなものを棚に飾るのさ。最高のものってのはもちろん最高の勝利ではないのよ?打ちのめしてどうするのさ。あけすけにいうとだね、あけすけにいえばさ、誤解されるから言わなかったのですよ。仲良くしたいとか、連帯したいとか。支配はしたくないとか、命令でなく提案したいとか。そんなことは、誤解されなかった試しがないから、きたかみさんの照れ隠し。わかりにくいことをわかりにくく喋って、ほら、境界面とか集合論のような話。はぁ。どうしても、その、愛してるって言っても伝わらないのね、むしろ逆で、愛してることにしたら有利になるとか問題を先送りにできるとか、そういう風に捉えられてしまってね。よくないのですよ。なぜわざわざ言葉にしたのか。と。私は善人ですとわざわざ発言するのはなぜ?と。連帯したいというのはなぜなのかと。わざわざ言うと詐欺師に見えてしまう。言葉は、言葉それ自体は、言葉の指し示す実態、"愛や協力"とは、違うもの。言葉は言葉で、何でもない。そう。心なんかどうでもいい。温度のほうがよっぽど大事!測って!部屋の温度!寒くないですか?!食料の方が大事でしょ。畑ってどのくらいありますん?もしかして、畑だけで食べ物ができると思っていませんか?あなた。そこのあなた。あなたの心はあなたの中にあるもの。それはそれで大事にしつつね。別の、いろんな、シャボン玉があるのですよ。だから、あなたの心を見るときもあって良いのね。体もみて。気温もみて、お花も見て。全部個別に見て。真理とか歴史とかも、そういう個別のものとして可愛がって楽しんで。その上でだれかとお話しするときには、ゆっくりでいいから、精一杯説明して、同時に精一杯聞くの。そういうことが誰一人できなくなっている気がして、勝ちたい人ばっかりになっている気がして、だからね、一緒にメソメソしてくれたらきたかみさんは嬉しい気持ちになります。あいらぶゆーそーまっち。泣いてからなら笑えるから、そうなりたいな。

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