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すいか #1

  蒸し暑い部屋で健太は目覚めた。太陽は地球の放埒を叱りつけるように、人々を、木々を、コンクリートを照らしつけていた。季節感なく健太を包む毛布が剥がされた。階下へ降りる階段の途中まで、食べ物の臭いが立ち込めていた。
 健太は誰もいないキッチンに入った。テーブルの上のトーストは焦げが強く、冷めたスクランブルエッグに添えられたケチャップの酸味が健太の鼻を突いた。食欲は削がれ、健太はそれに手をつけることなく、また二階に上がった。
 二階には兄の部屋と健太の部屋がある。兄の部屋からはタバコと兄の体臭が混ざり合った臭いが漂ってくる。この夏の湿気で、臭気が健太を刺激した。まだ、健太はその日の空を見ていなかった。
 

 健太は畳の上に無造作に置かれた制服を着た。ズボンは丸みを帯び、ワイシャツの襟は汚れていた。母親に洗濯を頼むことはなかった。母親が促すこともなかった。
 レンズが少し曇ったメガネをかけた健太の髪の毛は整えられることなく、無造作に伸びていた。健太にとっては自分に張り付いた肉体全てがコンプレックスであった。顔、手、腹の贅肉、足の指…自分の肉体を削ぎとってしまいたい衝動に駆られることもあった。
 衣服は健太にとって、外に出るときに体を隠すための道具で、たとえ汚れていてもかまわない。何かを纏っていれば、それで安心するといった類のものであった。

 健太は玄関の鍵を掛け、ひとり学校へ向かって歩き出した。教科書すべてが押し込められている健太の学生カバンは重い。健太は次の日の時間割を見ることもなく、時間割さえ分からない。忘れ物を教師に叱咤されるのが嫌なわけではなかった。曜日の時間割通りに教科書を入れ替える感覚を持っていなかった。
 太陽は雲に隠されることなく真上にあった。重いカバンが健太の歩くスピードを一層遅くした。雲ひとつない空の下で、健太はふと家族を想った。

 家族といっても健太のほかには母と兄しかいない。母は朝早くから家を出て行き、家に帰るのは遅い。兄はほとんど外出することなく、一日中部屋に閉じこもっている。兄はその部屋の片隅で昼間でも、カーテンを閉めて部屋を薄暗くし、仄かに点ったパソコンにむかい、猫背でその画面を覗き込んでいる。一度入れられた電源は朝まで落とされることがなかった。真夜中に泣く蝉のようにキーボードを打っていた。

 商店街を抜け、路地を曲がり数分歩くと中学校が見えてきた。その建物はあまりに無機質で、コンクリートの塊が健太に恐怖心を与え、健太の足を止めようとしたが、健太は、のそのそと校門をくぐり、人気のないグラウンドを横切り校舎に入った。教室がある三階まで階段を登った。教室から教師の声が響いていた。教師の声の勢いとは対照的に、ぺたぺたと健太の足音が廊下に鳴った。
 D組の前に着くと、健太は少したじろいだ。そしていつものように教室の前のドアを恐る恐る開けて、存在を消すかのように、スルスルと足を滑らせ、自分の席に着いた。
 健太に声をかける生徒はいなかった。教師も淡々と授業を進めていた。
 重いカバンを机の上に置き、健太は辺りを見回した。ノートを取っている生徒もいれば、携帯電話を弄っている生徒もいる。黒板には英単語が書かれていたが、健太にはそれが何を意味するのか、分からなかった。教師はただ高らかに声を発し、声が発する文字に合わせて黒板に単語を書いていた。  
 健太はカバンから緩慢にノートを取り出し、筆箱から出したペンを持つと、ノートに授業とは関係のない、幾何学的な模様を書き始めた。
 小学生のころから、ほかの生徒が計算のプリントを解いているときも健太はノートに幾何学的な模様を書いていた。線と線をつなぎ、徐々に模様となる。それが左右対称になると健太はなぜか安心した。
 高校受験を控える学年だが、"apple"のスペルをかくことさえおぼつかない。健太にとって「apple 」という単語は文字が作り出すデザインであった。
 健太はノートを抱え込み、その中に幾何学的な模様を書いていていた。英語を教える高田は健太に気付き、授業を止め、机の前まで歩いてきた。高田の動きに数人の生徒の注目が集まった。
 高田は健太の頭上で激しく叱責した。
 高田はいつでも、教室では王様のように君臨して授業をしていた。声高らかに、文法を説明していた。しかし、生徒達の視線の多くは彼らの机にあった。それでも高田はそのことに気づく由もなかった。
 健太は高田の言葉になんと答えていいか分からず、黙っていた。
 無防備な顔がそこにはあった。
 耐えかねた高田は、
 「ノートを取りなさい」
 と大きな声が波立った。高田は無意識のうちに健太が座っている机を蹴った。机と椅子のパイプがぶつかった音が教室に響いた。蹴られた力によって動いた机のパイプが健太の足に当たった。鈍い痛みが伝わった。
 痛みを覚えるのと同時に、健太の体は強い離脱感に襲われ、吐き気に噎せた。脂っぽい汗が体に満ちた。高田は小刻みに震える健太に背を向け教壇に戻り、また文法の説明を始めた。
 健太はその後のことは覚えていない。給食も、午後の授業も、下校時に寄った本屋も。気付いたら自分の部屋で放心していた。

 健太の父は、健太が「パパ」という言葉を覚えたころ、忽然と家からいなくなった。おぼろげながら父と一緒に風呂に入った記憶や高く抱き上げられた記憶があった。父がいなくなった理由を健太は母から聞かされていなかった。
 ちょうどその頃、母は働き出した。仕事を掛け持ちし、家族を養った。時には深夜に帰ることもあった。しかし、時おり母が話す携帯電話からは見知らぬ男の声が漏れ聞こえることがあった。声の主が健太の父ではないことは明らかだった。缶ビールを空け、タバコを吹かし続け、その電話は深夜までつづけられることもあった。リビングから聞こえてくる母の声をベッドの上で毛布に包まれながら、掻い摘んで聞いていた。

 夕焼けが窓を赤らめたころ、健太は現に返った。曇りガラスを通過したオレンジ色の光が満ちる部屋の、暖かい空気の中で、健太は部屋のベッドに腰を下ろしたとき、教室の自分の席の前に座る女生徒を思い出した。その女生徒のブラウスには白い下着が映っていた。健太は同時にその下着の中にあるものを想った。未知の柔らかさを想像し、同時に健太は自分の性器が動くのを感じた。欲望に駆られても健太は自分を慰めることを知らない。健太の妄想が加速度を増すと、放たれない欲求の塊の余りがむなしく健太の下着に付着した。

 玄関のドアが荒々しく開けられた。靴を放り出すように脱いだ音が聞こえ、玄関から金属的な母の声がした。
 「健太、洗濯物を入れてないじゃない。冷たくなっちゃうでしょ」
 その声は、二階まで届いた。
 母は無造作に玄関に買い物袋を放り、二階へ駆け上がった。母の足音が近づくにつれて、健太に怯えが襲う。ノックもせず健太の部屋のドアを開けると、
 「洗濯物ぐらい入れておいてよ。あんた、それぐらいしかできないじゃない」
 と言い足早にベランダに向かった。
 ベランダから、一日中干されて強張った洗濯物が次々と投げ込まれた。母の下着が健太の顔に当たった。
 「ごはん、まだなんでしょ」
 と、母はベランダから健太の部屋に戻った。
 健太は山積みにされた洗濯物の脇で
 「まだ」
 とだけ返した。
 小走りで階段を降りていく母を健太はゆっくりと追った。
 母は買い物袋から弁当とインスタントラーメンを取り出し、キッチンのテーブルの上に置いた。
 「忙しかったから、今日はこれね。ジュースは冷蔵庫から出して…」
 と言い、テレビを付けた。健太はやかんに水を入れ、コンロの火をつけた。

 テレビには、一見筋書きのないような番組が映されている。台本によって次回の展開が約束されているドキュメンタリーバラエティー番組に母は目を寄せる。巧みな演出効果に母は心躍らされているように見えた。
 母は、テレビの画面に目を向けたまま、
 「勉強してるの?」
 と素っ気なく言った。
 母が健太に投げかける言葉は極めて少なかった。
 「宿題はやったよ」
 と健太は嘘をついたが、母にはそれで十分であった。母はそれ以上問うこともなく、テレビに視線を向け続けた。
 健太もいつものように母の言葉を流し、インスタントラーメンを割り箸で啜った。飲み慣れた塩気の濃い汁が健太の喉を焼く。しばらく二人の間に沈黙が続いた。テレビ画面の光が母の顔を照らした。テレビから流れ出る音の狭間に蝉の声が聞こえた。 
 沈黙の答えは健太の言葉だった。心が健太の口を動かせた言葉だった。
 「僕、勉強が分からないんだ…」
 母は一瞬、健太に目を向けたが、
 「お前はバカなんだから、先生の言うことをちゃんと聞いてなさい。そうすれば分かるようになるわよ」
 と言った。
 健太は答えを求めたわけではないが、健太の心が発したサイレンは消された。
 また、沈黙が戻る。母のその沈黙を気にすることもなく、テレビのリモコンを取り当てもなく次々に押していった。余りに容易に造られた世界が次々と映し出されていた。画面の下のテロップによって、想像力は低下していった。

 健太が無言で弁当とインスタントラーメンを食べ終わると、容器をごみ箱に捨て、二階に上がった。同時に母は携帯電話を手に取った。
 昼間の暑さの名残りがある部屋で健太は扇風機のスイッチを入れた。モーターが回る音がし、埃が着いた羽が回り埃が宙を舞った。徐々に夜の温度に近くなった部屋で健太は、階下で笑う母の声を聞いた。健太と話していたときとは違う艶やかな声だった。しばらく、電話は続いたが、最後で母は、おやすみと囁いていたようだ。
 健太の部屋に闇が訪れたが、健太は部屋に佇んでいた。
 家という空間の中に母と兄、そして健太を結ぶ三角形ができていた。父がいなくなってから長く続いたこの三角形は、健太の成長に影響を及ぼしたのは明らかだった。

 小学生のころから、学校から帰ると母の帰宅を待ち続けた。何をするわけでもなく、当てもなく待った。兄は自分の部屋で架空の世界に耽ってしまって、健太との会話は皆無だった。兄には話し相手は多数いたが、顔は見たことがない。本当の名前も知らなかった。コンピュータの中での会話に耽っていた。兄は自分が尊敬する人物を捩ったハンドルネームで、近くにいるかも知れない誰かと語らっていた。廊下を隔てて一番近くにいる健太は、兄のアドレスブックにはなかった。


つづく



「すいか」の1回目の投稿です。
読んでいただいて、どうもありがとうございます。
次週、続きを投稿いたします。

どうぞ、お楽しみに。

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