葛藤に思いを馳せること
※この記事は cotree advent note 6月の23日目、通算で84日目の記事です。
先日、cotreeのCTO(Chief Tetsugaku(哲学) Officer)のべとりんさんのnoteを拝見しました。
この記事を読んで、自分自身もいろいろと思うところがあったので、べとりんさんのnoteを引用する形で、今回の当番の記事とさせてください。
「関わり」にまつわる苦しさと希望の語り
べとりんさんの原稿は、たぶん8000字以上ある、とても骨太な読み応えがあるものです。一つひとつ捉えるのは大変なのですが、自分はざっと下記のように読みとりました。
・関わりを求めながらも、関わりを拒絶してしまう"矛盾"と"葛藤"を抱えた存在として、「引きこもり」という困難を捉えている
・関わりにともなう苦しい影響や溢れ出てくる思いを、自分自身でも受け止めきれないときに、関わりを断ち切ってしまう
・一方、自分の世界に入ってきてくれる人、自分を受け入れてくれる人がいることで、関わりに喜びを見出し、孤独から歩き出すこともできる
世間一般には、家に閉じこもってしまうという現象を「引きこもり」と捉えることが多いようです。しかし、べとりんさんのように内側の心理プロセスを抽象化してみると、そこに現れる人との関わりにまつわる"矛盾"と
"葛藤"は、苦しさの渦中にある誰にも当てはめて考えることができるはず。
その意味で、べとりんさんの記事は、「関わり」にまつわる苦しさと希望に関する考察と、捉え直せるように感じました。
苦しさの中にある「矛盾」と「葛藤」を知る人たち
さて、話をcotree advent noteに戻します。
いつの間にか、advent noteにいろいろな方が寄稿されるようになっていて、属性や価値観や立場もバラバラな方が、いっぱいいる状態になっていたのには驚いています。書いてる内容もバラバラ。
ただ、それぞれのnoteを見ていると、cotreeに寄稿する人は「自分や周囲の人の苦しさに向き合った or (現在進行形で)向き合っている」という点ではとっても共通している人たちだなあと感じます。例えば、
・メンタルが苦しくなって潰れてしまった人
・燃え尽きるまで頑張ることをやめられなかった人
・身体的な病に苦しんだ人
・眼の前の人に寄り添いたいと願いながらも、どうしたらいいのかわからなかった人
・休職から復活した人
etc...
立場と属性と経緯こそ違えど、べとりんさんの記事にあるような、苦しさの渦中にあるときの心理的な矛盾と葛藤のプロセスを知っている人達。
だから、彼らは苦しさの渦中にあるときの「◯◯べき」とか「◯◯ねば」を押し付けられることの残酷さも知っているし、差し伸べられた手をはねのけてしまう気持ちも理解しているのでしょう。
人を支えるって、きっとそんな「向こう側」にある葛藤に思いを馳せることなのだろうから。(久しく日本橋に行っていないから、もしかしたら深読みしすぎかもしれないのだけれど。。。)
「人を助ける技術」を持った人と同じくらい、「心の葛藤を想像できる」人もきっとやさしい
たぶん、cotree advent noteやこの記事を読みに来てくださった方は、多かれ少なかれ「やさしくあろう」とする人たちだと思います。
そのためにとてつもない努力をされている方も、きっといらっしゃるでしょう。あるいは世間の空気的にもそうなりたいと願う人達もいらっしゃるかもしれません。
そんなとき、「人を助けるための技術」を持とうと頑張る方はいっぱいいらっしゃると思いますが、それと同じくらい「心の葛藤を想像できる」ことも持っていてほしいなと思います。
特に自分のような障害者は得てして、解決しづらい困難を抱えがちです。場合によっては、解決しないまま人生を歩まなきゃいけない。そんなときに、「助ける技術」を持った人の存在(ex.対人援助職のみなさん)はとてもありがたいです。
ただ、「助ける技術」を持っていなくても、「ああ、わからないけれど、この人はきっと今心のうちに葛藤や苦しさ、矛盾を抱えているんだな」と思いを馳せる人がいてくれるだけでも、自分には嬉しいし、十分にやさしさを感じます。
もしかすると、実際は解決されなくてもいいのかもしれません。自分が抱えている矛盾や葛藤に思いを馳せてくれた人が一人でもいてくれたというだけで、苦しさの沼からきっと歩きはじめることはできる。当事者性の有無は、きっと関係ありません。
「態度価値」というやさしさと支え合い
...と、偉そうに語る自分はどうなのか、というと、実際はそこまでできていません。恥ずかしい話ですが、そんな境地には1ミクロンも至っていません。
ただ、少なくともcotreeの皆さんは、そうあろうと常に戦い続けている人たちと思います。実際できているかはわからないですが、そうあろうというアティテュード(態度)は常に取り続けている人たち。ある種、ヴィクトール・フランクルが語った「態度価値」にも似ているかもしれません。
彼らのそんな姿から「やさしさでつながる社会をつくる」という姿も見えてきそうです。自分も居住まいを正さなきゃなととても思います。
たとえ心のプロであってもなくても、いつも葛藤を想像するのはとても難しいかもしれないです。
それでも、「支える人」も「支えられる人」も、「心の内の矛盾や葛藤」をちょっとだけでも想像し合う態度価値が少しずつ実現していったら、今よりもちょっとやさしい社会に前進しているかもしれません。
cotreeがかかげる「やさしさでつながる社会」は、そんな態度価値をとれる人が、あるいはそういう態度価値を選ぼうと頑張る人達が増えた集合体なのかもしれません。そんな社会だったら、冒頭に引用した記事でもあげた「関わり」にも希望が持てそうです。
自分はいろんな人に迷惑かけ通しだけれど、いつかそんな社会の仲間に入れているように、「人を助ける技術」はなくても、せめて態度くらいは精進したいと思います。
フランクルがそうであったように、態度はいつだって自由だから。(メンタルが辛い時はなかなかそうはなれないけれど、願いとして、ね。)
それでは、今日はこのへんで。
まとめ
・「関わり」にまつわる心の矛盾や葛藤は誰にでもきっと起こりうる
・この場に寄稿する人たちは、きっとそんな人の心の葛藤に思いを馳せることができる人たち
・「人を助ける技術」を持っていなくても、「葛藤を想像してくれた」というだけでも十分にやさしいと感じる
・といっても、それはとても難しいことだから、せめて心の内の矛盾や葛藤を想像するアティテュード(態度)は取れるようにがんばります
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