イオの観測
霧雨51号
作者:小桜明
分類:自由作品
生物は皆、イオと共に生きている。
全ての生物はイオを連れているし、全ての生命はイオによって守られている。
貴方も、私も、その例外ではない。私たちがイオを知覚できないだけで、イオは誰しもの隣にいるのである。
校舎の屋上に立つ私は、小学生の頃に先生から聞いた話を思い出していた。
これだけならば、少々思想の強い先生であったというだけだ。しかし、そうはなら無かった理由がある。
その話を聞いた数日後、同級生の一人が交通事故に遭った。彼女は自動車と接触する直前、咄嗟に体を投げだしたことで足の怪我だけで済んだ。その後、ギプスに松葉杖と言う痛々しい姿で学校に復帰した彼女は、クラスの全員の前でこう言った。
「私はイオを感じた、イオに助けられた」
その言葉が衝撃的過ぎて、彼女がその前後でどのようなことを語ったのかは覚えていない。ただその瞬間、イオは先生の子供騙しあるいは御伽話からクラスメイトの語る得体のしれない事実へと昇華した。
確かイオの話をした先生はその年に定年退職したはずだ。イオとは何なのか、終ぞ聞くことはできなかった。
そう、『終ぞ』聞くことはできなかったのである。
先生は多分まだご存命だ。私が今から死ぬのである。所謂、投身自殺というものを敢行しようと思っている。
理由はまあ、取り立てて言うほどのことでもない。単純に、生きるのが嫌になっただけの話だ。
私の身の上話など退屈極まりないと思うが、要点だけを話すと私には生きる価値がないのである。
私の両親は仲が悪かったらしい。離婚こそしないものの別居、私は父親一人に育てられた。父親には可愛がられていた自信がある。私も父のことは他の誰よりも好きであった。
だが、その父親は三年前、私が中学二年生の時に交通事故にて亡くなった。当然のように私は母親に引き取られる訳だが、父に育てられた私を、母は好まなかった。虐待などは無かった。ただ、お互いを意識しないように生活していたのである。
私は母に愛されなかったし、私も母を愛しなかった。
そんな家の状況は、私の性格にも影響を与えた。
学校などでも孤立した、ということだ。見た目に特徴がある訳ではない、成績は良い訳でも悪い訳でもでもない、人と関わろうともしない。そんな私に構う人間などただ一人として存在しなかったのである。
『人は忘れられた時、本当の意味で死ぬのである』
そんな言葉を真に受けるなら、誰も愛さず誰にも愛されていない私は既に死んでいるということになる。
なら生きている価値は無いではないか、と私は結論付けた。
そうして私は今、校舎の屋上に立っている。三階建ての校舎、高さは精々十メートルほどだ。
校舎から飛び降りたことのある人に問いたいのだが、人はこの程度の高さで死ねるのだろうか。もっと高いマンションなんかを探した方が良いのであろうか。
しかし今この瞬間を逃せば私は二度と自殺の機会を得られないという確信がある。なんということもない心情的な問題であるが。
深呼吸を一つ、私は屋上の縁に向かって歩き出す。
遺書はない。この死に意味がないから。誰かに伝えたい意思があるでもなく、そもそも伝える相手もいない。ただ、様式美として靴を揃えて置いておこう。他殺と間違えられても後の人の面倒になってしまうだろうから。
フェンスを乗り越えて、一身に風を受ける。今から飛び降りるのだなという実感をどこか能天気に持っていた。
ここまで来て、イオの話がまた頭を過ぎる。
『全ての生命はイオによって守られている』ならば、自殺をするような人間をイオは許すのだろうか。
ふと、背中を抜けるように寒気がした。
背後に気配を感じた気がして振り返るが、そこには何も居ない。揃えられた靴が寂し気に置いてあるだけだ。
いや、私は靴の踵側をこちらに向けただろうか。
自殺をするなら、つま先を落ちていく方向に向けるべきだ。そこから別の場所へ向かう意思を示すためにそう置くのが定石だ。だが、私の靴はその逆向きに置いてある。
まるで、何者かが私が死ぬことを許さないと言うかのように。
……何を馬鹿な。単純に靴を家で脱ぐ感覚で揃えてしまっただけだろう。
フェンスの下から手を通して、靴の向きを直そうとする。
その時また、気配を感じた。
今度は、冷たく凍えるような、鋭く射貫くような、敵意にも似た意思を込めた恐ろしい視線である、と直感した。
そこに何かがいる。
突如、背中の内がじんわりと凍り付くような、心の底から吐き気が込み上げてくるような感覚が私を襲う。恐怖……いや、それよりもずっと大きな感情である。もっと根源的な、まるでこれまで見ていたものは全て──例えそれがどれだけ苦しく無駄な生活であっても──幸せな夢であって、そこから現実へと無理矢理引き戻されたような、言いようのない感情が心の内を真っ青に染めたのだ。
私は靴を触った体勢のままガラス細工のように固まり動けなくなる。
カチカチと、自分の顎が音を立てているのに気づいた。
──寒い。ひんやりとした空気が全身を取り囲んでいた。曲げた膝や靴を持つ手は意識の内から消えている。そんなことを認識する程、頭のリソースは残ってはいなかった。
脳の中はその感情で全て埋め尽くされてしまったのだ。
自分が今、一体何をしようとしていたのかも忘れてしまった。何か、とんでもなく恐ろしいことをしようとしていたような気もする。
──死してはならぬ。
何か、声のようなものが耳の内に木霊した。それはどこから聞こえるのだろうか。
────死してはならぬ。
その声が聞こえるほどに、私の脳は凍り付く。思考は剥奪され、ただ生きるという方向に意志が形作られる。それは身の内から生じたものか、あるいは何かに与えられたものか。
──────死してはならぬ。
否、そのような声は真実には存在していなかったのである。声は脳の錯覚より生じたもの。その存在は気配のみで、私に幻聴をも聴かせてみせたのだ。そんなものがこの世に存在するというのか。本当にこんな恐ろしいものが同級生の命を救ったイオの正体だというのか。
背中に嫌な汗が伝う。世界を包む空気の温度が下がったかのような気すらしてくる。
しかしそのヒヤリとした感触が、支配された私の脳に幾ばくかの空白を生み出した。
……その存在は本当に居るのだろうか、と。
私は未だ、五感情報としてその存在を捕らえてはいない。ならばこの感覚すらもイオを思う私の内心が生み出した幻に過ぎないのではないだろうか。顔を上げてもそこには何も居ないのではないか。
そんな思考が生まれた途端、恐怖はすっと薄まった。
そうして、恐る恐る私は顔を上げた。効果音をつけるならギギギ……と言ったところだろう。油をさし忘れたマシンのようにゆっくりと首を動かす。
その間も思考は止まらない。もしそこに何かが居たら、私はどうなってしまうのだろうか。そこに存在しているというだけでここまでの感情を生み出す存在だ。そんなものを目視して、私は正気で、私のままでいられるのだろうか。
首を上げるごとに気温が下がる。見てはならぬと私の根本にある何かが囁く。
だが、既に私は自身を止めるタイミングを捨てていた。遂に目線は大地に対して水平の位置まで上がる。
果たしてそこには────何も居なかった。
ふ、と安堵とも笑みとも取れる空気の流れが口から漏れる。私は存在しないものを恐れていたのだ。寒気を感じるほどの幻など、私も内心では死に対する恐怖があるということだろうか。
無いと言えばうそになるだろう。人が生物である以上、その恐怖は誰しもの内心に介在するのだから、無論私も例外ではないのである。
だが、ここで止まる気などさらさらない。生きる価値なく生きることほどの地獄を私は知らぬから、ここで終わってしまうべきだと心に確認する。
位置を直した靴から手を離し、数秒の瞠目のすえ、私は立ち上がり、再度屋上の縁に立つ。
いつの間にか夕方を迎えた空は赤く染まっていた。思いの外長い時間が経ってしまったが、ようやく私はこの生命に終止符を打つのだ。
そんなことを考えながら、なんとなしにこれから落ちる大地を覗き込んだ。
そして私は、初めてイオを観測した。