12年弱の広報の仕事で常にそこにあったのは一体なんなのか?
神戸生まれ、神戸育ち。
経験ゼロの状態からとある企業の広報を担当することになり、12年弱。
試行錯誤に次ぐ試行錯誤で気づいたら「あれ?広報って結構おもろい仕事やな」と思えるようになったのは実は結構最近です。
ひとまず自己紹介がてらに、そういえば私はなんで今この仕事をしているんやっけ?というのを振り返りつつ、広報経験ゼロの状態からフリーランスとして独立しようと思うまでの道のりを綴りたいと思います。
すぐに使えるノウハウ系ではありませんので、30代をまるまる仕事に捧げた孤独な女の物語としてサラッとお楽しみいただければ幸いです。
知識ゼロの“場つなぎ広報”
20代最後の年。
「食べることが好き」
そんな理由だけで朝食が有名なとある神戸のホテルに転職した。
完全なる食いしん坊&ミーハー精神だけで、これといって自分自身がやりたいことはなく。
最初はホテルのショップ店員をして、
そのあと企画室に入り、オンラインショップの担当になった。
1年ほど経ったころ、当時の広報担当者の退職が決まった。
まだその時は他人事だった。
広報の経験者を募集するも全然決まらない。
入ってきても1週間ほどで無理だと辞めてしまう。
広報ってそんなに難しい仕事なのか?
よくわからないけどなかなか後任が決まらぬまま、前任の広報担当者の退職日が迫る。
当時は新店ラッシュが続いていて、取材依頼もどんどん入ってくる。
誰かがとりあえず場をつなぐ必要がでてきた。
その時とりあえず「一時的に」広報の仕事を引き継いだのが私である。
ちゃんとした広報が入ってくるまでの場つなぎとして。
広報の仕事はわからないなりに、ショップの運営をしていたおかげで自社商品の知識とかすかな愛情はあったので、とりあえずは何とかなりそうな気がした。
何をすればいいのかわからない右往左往な数年
前任からの引継ぎ期間は数週間だったように思う。
とても良い先輩で、優しく教えてくれた。
(今も大好きやし、良い関係が続いています)
でも、仕事の全容を把握するにはあまりにも引き継ぎ期間が短すぎた。
とにかく「発生する仕事を捌く」だけで、今考えると広報がやるべき仕事はなにもできていなかったように思う。
でも社内に聞ける人がいない。
孤独。
社内では「取材=通常業務に+αでふりかかるめんどくさいこと」そんな空気を感じた。
撮影の相談をしようにもシェフが怖くて近づけない。
厨房の隅っこでプルプル震える小鹿のような弱っちい広報だった。
私のやり方はあってるの?
誰かに教えてもらいたい。
助けてほしい。
社内で聞ける人がいない私は、同じホテル業界で広報をしている先輩たちの集まりに顔を出して、
「広報って何したらよろしいのん?」
と聞いて回った。
幸い関西でも有名な敏腕広報さんたちと知り合うことができ、やっとリアルに広報って何なのかを知る事ができた。
同業者からのインプット(ほとんど飲み会)でやっと自分がやるべきことが具体的見えてきた。
やるべきことが見えてくると、目標ができ、だんだんと仕事に楽しさを覚えるようになった。
と、同時に私の中に確かにあるものが芽生えていることに気づいた。
愛である。(ヒューヒューだよ!)
多分この瞬間にやっと広報としての何かがスタートした。(気がする。)
たった一度だけ恋をした
この会社で働いている間にたった一度だけ、彼氏ができた。
お相手はテレビのディレクターである。
もちろん仕事で出会ったのだ。
その時、広報の仕事をはじめて5年くらい。
やっと自分で仕事が分かってきた頃である。
面白い、仕事面白い。
イケイケの30代半ば。
その時に運よく気の合う男性と出会ったのだ。
はっきり言って、テレビのディレクターと付き合えば、広報の仕事に有利になるかもしれないという邪な気持ちがあった。
まーまー楽しかった。
「ドライブデートに行こう!」ってルンルンでついていったら台本を見せられ、「今からココのシーンを撮るための昭和な雰囲気の商店街を探しに行こう♪」
いや、、、おま、、、これロケハンやないか!(・・・と言いつつも楽しかった)
お付き合いをしていくうちに、だんだんとそんな邪な気持ちは薄れ、純粋にその人との将来を考えた。
テレビの仕事のハードさを身近で見ていてだんだん辛くなった。
ハードすぎる。
徹夜なんて当たり前。
こんなハードな仕事を支えられるわけが無い。
そう思った。
1年を待たずに終わってしまったたった一度の恋。
次がすぐ出来るかと思ったら、全然出来なかった。
そんなことよりも忙しすぎた。
人が辞める度に仕事が増えていった。
やってもやっても終わりが見えない。
でもやっぱり楽しかった。
社内でプルプル震えることもなくなり、心置きなくいろんなことにトライできるようになっていた。
プライベートで愛は失ったけど、仕事の方の愛は着実に育んでいた。
病気になった
その頃、一気に体重が5kg減った。
失恋のせいではない。
なぜか身体に力が入らない。
少し動いただけで息切れして、歩いても歩いても前に進めなかった。
一眼レフのカメラで料理撮影している時、手が震えてピントが合わない。
取材立ち会いしていても立っていられなくて、こっそり撮影の合間にトイレ立てこもってた。
心臓がバクバクして夜全然眠れない。
ストレスか?
さすがにおかしいと思い病院へ行った。
その時、更年期障害真っ只中の母と症状がよく似ていたので、若年性更年期障害やと思い婦人科へ行った。
婦人科で「うちじゃない、今すぐ、この足で甲状腺の専門病院へいけ」と紹介状を受け取り、その日のうちに病院をハシゴした。
バセドウ病だった。
今まで意識したこともない身体の一部分が暴走しているらしかった。
そこから地味に辛い闘病が始まった。
傍から見るとちょっと痩せてはいるものの健康そうに見えるので、辛くても理解が得られなかった。
ホルモンバランスが乱れるので一時的うつ状態にもなり、死にたいと病院内に併設された心療内科で涙を流したこともあった。
それでも仕事は続けた。
身体はしんどくても、休み過ぎると気持ちが病んでくるのでなるべくいつも通り仕事をした。
騙し騙しでもやっていけたのはやっぱりそこに愛があったからだ。
気づいたら支配人なっていた
体調が落ち着いた頃、会社の組織に大きな変化があった。
今まで数名いた部署が2つに分かれ、とうとう一人になった。
今まで複数名でやっていた仕事を一人でやっつけなければいけなくなり、気づけばただの「なんでも屋」になっていた。
目の前の仕事がとっちらかっていて自分でも何をやっているのかわからない。
広報の仕事は?できてる?私
人を補充してほしかったけど無理だった。
広報は直接的に売り上げを取れない部署なのだ。
サービスや料理人など、営業のオペレーションに直接関わる人材ではないので、人件費削減の一番の対象になる。
そうこうしているうちに部下も上司もいないのに「支配人」という肩書がついた。
一体何を支配しているというのか。
名刺交換するとき、
「支配されている人」略して「支配人」です。
という持ちネタができた。
まーまーウケたので支配人でもよかったかな。
それよりもうちのホテルは最高に居心地がいいし、ロビーはいい香りがするし、レストランは世界一美味しいし、ソムリエは美味しいワインを飲ませてくれる。
もうそれでええやん!
もはやそこには愛しかなかった。
11年目の冬、辞めることを決意
40代に突入した。
30代はいろんなことをできるようになればいいと思ってたけど、
そろそろスキルを深めて、仕事のクオリティを上げていきたい。
私にしかできない仕事をやっていきたい。
マーケティングやセールスライティングの勉強にも本腰を入れ始めた。(おそっ)
「40代になると学びたい欲求が強くなる」といつもお世話になっている某編集長がおっしゃっていて、ホンマにその通りだと思った。
勉強すればするほどいろんな技を試してみたくなる。
やりたいことがどんどん増える。
でも今の状態じゃできない。圧倒的に時間が足りない。
それどころかどんどん広報の仕事から遠ざかっているように思えた。
このまま流されていったとき、定年間近の私はどこに漂着しているのか?
10年前、軽い気持ちで引き継いだ「場つなぎ広報」がいつのまにか「これは天職では?」と思い始めている。
自分に向いてるかどうかは置いておいて、とりあえず10年がむしゃらにやってたら何でも「天職」になるかも説。
私はこの仕事を追求したくなり、大好きな場所を離れる決意をした。
でも、他のどこかに転職するのではなく、独立することを選んだ。
そうすれば自分の専門的なスキルを上げてまたこの場所に還元できるから。
実際に辞めるとどうなったか
心に穴が空いた。
ポッカリなんて言う生易しいもんじゃない。
よく仕事は恋人とか、結婚できない女が言うことがあるが、
それとは違う。
会社が恋人だったのだ。
長年連れ添った恋人と別れた感じ。
これ以上一緒にいてもきっとダメになると思ったので後悔はない。
でも今まで積み上げてきたものが一気になくなって更地になった寂しさは拭えない。
十数年ぶりに味わったGWは思った以上に長かった。
広報の原動力とは何か
知り合いのベテラン広報たちが口を揃えて言うのは
「広報は愛がないと出来ない」
あとは「勢い」と「テクニック」(笑)
数字として成果が見えづらいので、なかなか評価されにくい仕事やけど、世の中の広報担当者たちは、自社の商品やブランドに並々ならぬ愛情を注いでいる。
ベテラン広報ほどその愛は変態レベル。
あなたの会社に変態広報はいますか?
いたらぜひ大切にしてあげてください。
愛も時間をかけないと育たないし、テクニックも何度もトライ&エラーを繰り返してやっと使い物になってくる。
本当に広報が一人前になるまでには時間がかかるのです。
12年弱やってわかったこと。
広報の原動力は愛である。
もちろん愛だけでは無理やけど。
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