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ウマ娘周辺テキストファン、サラブレッドの死について考える(ふりをする)

ウマ娘をきっかけに競馬に興味を持つひとたちが「サラブレッドの死について真面目に考えていない」的な言説を目にすると、えー、サイレンススズカとライスシャワーが登場する世界で遊んでるひとたちに向かってそりゃ言いがかりでは。
とまずは思いながら、無数の屍の上でキレイゴトを言うのが競馬ってことをおまえはどれだけ知っていますか。と問われれば、まあ感傷という緩衝材がないとツライことは知ってる。そう答えますかね(=1989年のエリザベス女王杯ですら見返せないおじさん)。

ちょっと前に、ウマ娘のゲームにもアニメにも興味はないがウマ娘にハマっていますって文章を読むのが好きだ。というエントリを書いたのですが、そのとき伝説のサラブレッドを100頭ピックアップした書籍、山野浩一『伝説の名馬』全4巻のことを口走りました。
誰もが認める名著ながら入手困難になってからの歳月も長いので、ネットでもあまり内容にまで言及したコンテンツが無く、せっかくなので今日はそこで読める「サラブレッドの死」をいくつか紹介してみたいのです。
以下、その手の記述が続きますので苦手なひとはご注意を。

寒さの到来とともに...急に弱りだし、たちまち呼吸困難に陥っていった。ダービー伯はその姿を見ていることができず、館に閉じこもっていたが、間もなく場長がダービー伯には無断で安楽死させたことを告げにきた。ダービー伯はその気持ちに感謝の意を告げ、ウィンストン・チャーチル卿の来訪時に開けたブランデーをみんなで飲んだ。
/ ハイペリオン GB 1930-1960
牧場で膝を負傷し...かつての激しい気性を取り戻したように暴れ、痛むところを蹴り続けた。防具を当てて膝を保護しても...気性はおさまらず、やがて獣医もみるにみかねて安楽死の注射をうった。ザ・キングは王様のように自決した。
/ キングストンタウン AUS 1976-1991
しかし、この年の種付けシーズンが終ると今度は首に腫瘍が発達していた。すでにオーナー(は)...87歳のかくしゃくたる生を閉じており、この雄々しいスタリオンにさらに苦痛に耐えよと命ずるものがいなくなっていたので、1971年7月12日に安楽死の処置がとられた。
/ ボールドルーラー USA 1954-1971
その時、ヴァスケス騎手も、バエサ騎手もボキッという大きな音を聞いた。その瞬間レースは終わり...大観衆はここが競馬場かと思えるほど静まりかえっていた。
/ ラフィアン USA 1972-1975
引退してからもファンから愛され続け、毎年多くのクリスマスカードがナショナルスタッド気付で送られてきた。18歳で心臓発作のために急死すると、ナショナルスタッドの電話はずっと鳴りやむことがなかった。日本がこの偉大な戦士の血脈を発展させている唯一の国であることをわれわれは誇って良いだろう。
/ ミルリーフ USA 1968-1986
7歳時に脊髄の髄膜炎によって急死した。遺体は生まれ故郷のヒラヴィラ牧場に埋葬され「アメリカ競馬史上最も速く、最も果敢で、最も高潔な馬がここに眠る」という碑文が残された。
/ ドミノ USA 1891-1897
31歳の高齢まで生きて2代ウエストミンスター侯爵によってイートン牧場に手厚く埋葬された。ただですら貰い手のなかった醜い駱駝の子はサラブレッドの歴史に不滅の名声を残して天馬となった。
/ タッチストン GB 1831-1861
31歳の高齢まで生きた。最後の1年間は横たわったままで、すでに胴体が干からびてしまっていたにもかかわらず...ずっと生き続け、時々首を持ち上げて天使のような眼差しを人々に向けたという。おそらく本物の天使でなければそのように生きることは不可能であろう。
/ シリーン GB 1895-1925
サラブレッドの平均的寿命というべき23歳で死亡した。
/ ネアルコ ITY 1935-1957

書籍にまとまる前は、競馬場や場外馬券場でタダでもらえる「レーシング・プログラム」という冊子に連載されていたテキストなのですが、ご覧いただいた通り、ときに詩的に、ときに淡々と伝説の名馬の生涯を描いた内容。

競馬ファンたる者、自分たちの遊び場が死と隣り合わせだということぐらい、毎週のように起きる落馬事故、競走中止、抹消馬消息などを見聞きしてりゃ、あっという間に理解するものじゃないですか。
だから「そもそも競馬なんか存在しないに越したことはない」などと言われればハイ解散! 以外の返事の持ち合わせはなく、そういうクリシェにはたしかにうんざりするわけですけれど、それ以上に、過去の名馬たちの(おおむね幸福なエピソードにいろどられた)(しかし例外なく死は訪れる)物語を摂取してこれたことによる喜びのほうが大きくて。
競馬という数百年の営みの文化史的側面への認識が養われたのは、こうした先人たちのテキスト群のおかげで、隙あらば自分語りおじさんとしては咄嗟にどうだい良い時代だろう、とじまんげに紹介してしまう。

さて、そろそろ今日これだけは覚えて帰ってくれ、という説明に移りますがよろしいか。バードキャッチャー。現代サラブレッドすべての血統表に名前がある、アイルランド生まれの1頭です。

コニンガム・ロッジの向かい側の砂場に穴を掘らせ、その縁に...連れて来て警官に銃殺を命じた。警官はすぐに発砲し...馬体は穴の中にどさっと崩れ落ちた。おそらく偉大な競走馬で偉大な種牡馬としてサラブレッドの歴史に語られる馬としては最もあっけなく、冷酷な死であっただろう。

え。ってなったんですよね、あっけないというか……命の軽さに。

このバードキャッチャーの死について報道されるとイギリス人たちは一斉にディズニー氏を非難した。馬の銃殺そのものは珍しくなく、特に軍馬などの場合はこのように合理的で簡便な方法をとるのが普通である。
(中略)
ではなぜそのように問題となったかというと...イギリスでは偉大な競走馬はただの馬ではなく、大きな名誉と歴史的価値を背負った存在である。しかし、アイルランドではまだ、サラブレッドもただの産業動物でしかなかった。また、農耕民族のイギリス人には馬を特別視する傾向があり、擬人化して考えやすい存在であったが、多少とも騎馬民族の影響を受けて、馬の扱いが日常化していたケルト人のアイルランドでは馬は珍しいものではなく、実用家畜として処分する対象でしかなかった。今も騎馬民族のハンガリーや、騎馬民族の影響の強いドイツやイタリアと、農耕民族のイギリス、フランスでは馬への感傷的な愛情に大きな相違がある。
/ バードキャッチャー IRE [in GB] 1833-1860

平均的「日本の競馬ファン」の自分が、1頭の「処刑された馬」に受ける衝撃。その気持ちが19世紀イギリスの競馬ファン各位と近いこと。そして(筆者、山野いうところの)騎馬民族的な心情と遠くかけ離れているらしいこと。
サラブレッドとヒトが共に生きた歴史を知ることが、競馬を娯楽として楽しめてしまう業の深さを理解する一助になるような・ならんような。それはともかく、ここにあるのは深い沼だな-昨今のことばにすればそんなことを、あらためて思った記憶。ちなみに当該原稿初出は1994年3月、ナリタブライアン3冠キャンペーンの年ですね。ということは雪のなか府中まで出向いたら中止だった、あの冬か。

闘犬闘牛闘鶏を喜んで見に行きたいとは思わない、ドッグレース? 興味ない、競艇競輪パチンコ? んーやらない。でも競馬だけは興味が尽きない、それは-私の場合は-サラブレッドという種を介しているから(だから繋駕競走にも実はあまり関心が持てないし、生産をともなわない香港競馬への関心は比較すると薄かったり)。
繰り返しますが、彼らの生「だけ」を楽しむ、楽しみ逃げは不可能なんですよ。どうしたって生と死の両方を、見ざるを得ない。死を司る傲慢、背徳の中のよろこび、競馬ってそういうモノとわかったうえで、30年以上続けているので言えることですが、ウマ娘から競馬に興味を持つようになったみなさんも、さぞかし雑音がたくさん耳に入ってくることではありましょう。
無理のない範囲で競馬のいろんな側面をまずは知るといいと思うのです。深い沼のそばで立ち尽くして待ってるおじさんからは、以上です。

あと、やっぱり山野浩一『伝説の名馬』(中央競馬ピーアール・センター)、復刊するなら今だと思うよね。
Birdcatcher, with jockey up by Samuel Spode

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