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入日本化なることばが表す精神とは

令和3年4月吉日付で公開された、大相撲の継承発展を考える有識者会議の提言書『大相撲の伝統と未来のために』について、当初読売新聞が報じた見出しは

外国出身力士に「入日本化」促す、有識者会議が提言…女性理事登用も

というものでした。
エラいものでこの文字列を見ただけで伝わってくる、お、これは何かアレなやつでは? という予感は外れることがなかった、という話を書こうと思うのですが、翌朝、つまり先ほど起きて記事をもう一度確認したら

見出しが変わってました。面白いんだからそのままにしとけばいいのに。というか、有識者会議の面々が信念に基づいて提言している内容をストレートに伝えた初報のほうが良いと思いますけどね。

私は日本相撲協会の公益性を信じない者なので(自己紹介乙)どうしても色眼鏡でモノを言うことになるのですが、以下の記述が提言書の「はじめに」にあります。

私たちの提言書では、大相撲の在り方を論じる時に、脱日本化やコスモポリタン化につながる暖昧な言葉としても使われる「国際化」という表現は最初から避けることにした。その代わりに多様な外国出身力士が活躍するようになった現状とその持続を「多国籍化」と呼ぶことにする。同時に、日本の大相撲の伝統と慣習の受け入れを「入日本」(にゅうにほん)または「入日本化」と表現する。これは脱日本化と反対の意味であるが、外国人固有の文化からの離脱を強制する意味をまったく持たない。また、外国人に日本文化を押し付ける意味と誤解されがちな日本への「同化」「日本化」という言葉との混同を避けるためである

言ってることにことさら異論はない、なのに俺の心になんだか黒い雲がかかる気がするのは何故。

たとえば、日本の相撲に似た格闘技として、土俵を持たないモンゴルのボフや、大きな円形土俵を持つセネガルのランプなどが挙げられる。
しかし、もしこれら外国の格闘技出身の力士が大相撲に入るなら、彼らは日本の大相撲の歴史と伝統に共感しながら自己変容を起こすことになろう。これを「入日本」「入日本化」と呼ぶのである。言い換えれば、彼らは「入日本」することで、モンゴルやジョージアなど外国に生まれながら日本の大相撲の力士になるのだ。出身国がどこであれ、日本の大相撲に入門することで(「日本化」「同化」ではなく)「入日本」をするのである。その結果、彼らは大銀杏や丁髷を結い、礼服として羽織袴、外出用日常服として着物を着用することが義務づけられる。
彼らが、過去に母国で大相撲に類似した格闘技の闘士だった場合、母国の国技やスポーツに愛国心や忠誠心を抱き、抱き続けるのは当然であろう。しかし同時に、日本の大相撲力士になろうとする限り、日本の歴史と伝統に培われた独自の勝負規則と慣習を身につけ、相撲道の上で「入日本化」するのは当然なのである。
-第1章 大相撲がめざすべき方向 3.大相撲における文化変容

ブラック企業だと世間からうしろゆび指されるにせよ、入社した以上は社の規範に従うべき。って言ってるのかな、と思いましたけど、まあ多かれ少なかれ、世の中とはそういうものかもしれん。と俺の中の濁った眼をしたゴーストが言うので先へ進みました。

もし、外国出身の親方・師匠が自分のアイデンティティ(自己同一性)の多重性、日本の伝統と風土にこだわらないコスモポリタン的な感覚を重視するなら、大相撲の心を十分に理解できず力士に「大相撲とは何か」「日本と大相撲の心とは何か」を十二分に教えられるとは限らない。
そして、日本という地に根をはって生きることを象徴的かつ実体的に表すのが日本国籍なのである。
-第1章 大相撲がめざすべき方向 5.大相撲がめざすべき方向

ああ、なんとなく理解しました。自分の中の、もやもやの理由を。
我が家の敷居をまたぐ者はすべからく我が家の方式にしたがうべき、我が家側はいっさい変わらない。そういうことですね?

出入国在留管理庁が公開している「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」という文書があります。(この辺を参照)

2018年12月決定から、翌年改訂後も引き継がれている文言なので、日本という国の公的な声明と認識していますが「外国人材の受入れ・共生のための総合的対応策」を説明して「外国人材を適正に受け入れ、共生社会の実現を図ることにより、日本人と外国人が安心して安全に暮らせる社会の実現に寄与するという目的を達成するため、外国人材の受入れ・共生に関して、目指すべき方向性を示すものである」と宣言。続けて、

政府としては、条約難民や第三国定住難民を含め、在留資格を有する全ての外国人を孤立させることなく、社会を構成する一員として受け入れていくという視点に立ち、外国人が日本人と同様に公共サービスを享受し安心して生活することができる環境を全力で整備していく。
その環境整備に当たっては、受け入れる側の日本人が、共生社会の実現について理解し協力するよう努めていくだけでなく、受け入れられる側の外国人もまた、共生の理念を理解し、日本の風土・文化を理解するよう努めていくことが重要であることも銘記されなければならない。

「在留資格を有する全ての外国人」って書きぶりがイヤラシイけど、私がこの文章を最初に見たとき、猛烈な反発を覚えたのは受け入れられる側の外国人もまた、共生の理念を理解し、日本の風土・文化を理解するよう努めていくことが重要という部分でした。

これ、誰に向けて書いたんだ。
書く必要あったのか「受け入れられる側の外国人もまた」云々。
この発想の根底にある、受け入れる側>受け入れられる側、という不等号は「共生」という精神から最も遠いところにあるものですよ。大丈夫ですかね。
ってなった、その記憶が昨日の「入日本化」なる珍フレーズで呼び起こされ、有識者会議の全文を読むことで、あらためて理解しました。
このひとたちにとって自分が変わることは負けを意味していて、決して越えてはならない一線なんだね。
教育だって子育てだってそうだと思うけど、教える側も(望むと望まざるとにかかわらず)変わるじゃないですか。「共生」だって自覚しないうちに変わるのでは。って私は思うんですけど。
いいや、俺は絶対に変わらない!
って言い張る彼は滑稽だと思うけど、それに対抗して「変わるんだよ!」って私が言い張れば、同レベルで滑稽なだけですし、時間が証明するんだろう。そう思うことにします。

日本社会が「共生社会」を実現していく、とうたいながら、でも俺は変わらない俺が考える「共生」はそういうことだから。とうそぶく罪深さに比べれば、日本相撲協会は好きにすれば。そう思いはするものの、よりによって王貞治と渡辺大五郎(元・高見山)を担ぎ出してにゅうにほんなんて言うのはやめてほしいんだが。
彼らの活躍に心を動かされた子どものころの俺(たち)の思い出が残念になったらどうしてくれるの、そう思うとPDFをスクロールする手がふるえてしまいましたが(=誇張)、提言書末尾に「参考 委員の意見」なる一節あり、そこで王貞治がイイコトを言っていたので-本人にそういう意図はたぶん無いんでしょうけど-安心しました。引用しておきます。

大相撲を未来に向けて継承発展させていくには、指導する側の親方が成長しなければいけない。親方が成長して変わっていかなければいけない。そうでなければ、大相撲は発展していかない。力士は変われないんですよ。

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