ウマ娘以降の(中略)ひとたちにお贈りする競馬ちょっといい話その4
競馬なんてただのギャンブル。って馬鹿にされてもあんまりコタえないのは、私の場合は次のような文章を読んできたから、かも。
人間以外の動物は追い詰められたとき以外は遺伝子にインプットされていることや経験的にわかっていること以外のものには手をださないもので、そのために生息圏は限定され、定まった食料だけを食べ、訳のわからないものに対しては近寄らず、そのように存在する現実だけを受け入れて生きてきていた。ホモサピエンスはわからないことを知ろうとして、そのためのさまざまな方法を試すようになった。その中には現在では科学と呼ばれているものも、宗教と呼ばれているものも、芸術と呼ばれているものもあるが、当時は科学といえるほど実証されたものではなく、宗教といえるほど確信を抱いていたものでもなく、芸術といえるような精神的なものでもなかった。それらを今日的にみればやはり占いというのが妥当であろう。
例えば議会主義というものは、多くの予言や占いから公正に賭を決める方法であり、後に育った選挙制度はオピニオンやシステムに対して市民が賭けるものである。株式制度は企業の将来に賭ける純然たる賭博で、初期には現在でも賭博としかいいようのないものがほとんどだった。
賭とは未知のものに対してある選択をすることで、その選択の的中に対して金銭的な報酬を得ること、それがシステム化されたものが現代における賭博である。一般に人間には賭博への欲求が本能のようにそなわっていて、それに溺れていくといわれているが、本能的な人間存在に結びつく欲求があるとすれば、それは賭博に対するものではなく、その元となる賭に対するものであろう。
シンプルに言うと、人類の発展はギャンブルをヨシとしてきたから、って主張です(=シンプルに言い過ぎた)。
ギャンブルを「未知のものに対する判断を自分でおこなう行為」ととらえ、それを「デモクラシーの思想の根源」とする筆者考察を知っておくと、知らずにおくよりは、ギャンブル即、悪。みたいなひとと接するとき、心が穏やかでいられますよ。
社会制度の発達とともに占いは族長の占有物となり、多くの人々は族長の占いに従わなければならなくなる。(中略)ガリレオが独自の観察によって地動説という占いをおこなって、それが極めて信頼性の高いものであっても、教皇側の占いが力で抹殺してしまうことになる。
ヨーロッパの辺境にあったイギリスでマグナカルタ以降に発展していくデモクラシーは、このような占いの権限を自らのものに取り戻す運動だったといえるだろう。
話を再び大昔に戻します。
類人猿から猿人への変化には道具の使用が大きな役割を果たしたかもしれないが、道具を使用するだけでは一万年たっても人間文明は産まれない。ネアンデルタールは頑強な身体を持ち、優れた道具を使っている優越した種族で、彼らに比較するとクロマニヨン人の体力は劣っており、道具もかなり粗野なものしか持っていなかった。しかし、クロマニヨン人はある点で明らかに旧人と違っていた。つまり彼らはスペキュレーションの能力を持っていたのである。
スペキュレーション=未知のものについて試行する、の意。
クロマニヨン人が何の経験的実証も持たないで占いというようなものをあてにして未知の世界に踏み込んでいった時には、もし当時に新聞でもあれば自殺行為に似た冒険とネアンデルタール人に笑われたのではないだろうか。
ホモサピエンス原初の光景を想像する図。
ただ、ここまでの論旨だと「ギャンブルの意義」を説いただけであって、それなら他の賭でも良いってことになりますよね。次回でそのあたりについての筆者持論を紹介して、おしまいに。
Texts quoted, all from the book shown above, except as otherwise noted.