ウマ娘周辺テキストファン、サラブレッドは誰のものか。という問いを考える(ふりをする)
仕事イヤイヤ期はツイートが増えるものですけど、noteのエントリも同じ仕組みで増殖するよね。と深い溜息をつく私、ゲーム音痴だしアニメもほとんど見ない競馬ファン。という立場からウマ娘の周辺テキストを楽しく読んでます、というnoteを一回書いたのにまた何か書きたくなるの巻。
昨日、通りすがりに見かけた文章が興味深かったので(その後エントリ消えてしまったようですが)反芻していたんです。そうだよ現実逃避だよ。
私個人の考え方は下のツイートに書いた通り、あなたの夢と私の夢は同床異夢、以上。に尽きるので、侵犯してくるんじゃない、という双方の気分を理解しつつも、現実のライスシャワーとウマ娘のライスシャワーとは別の存在だからなー。ってところから先にはあまり頭が動かない。
ただ、ライスシャワーの関係者がどう思うかによって今回の話の可否は定まる、という見方には異論がある。と考えていたら、ちょうどそういう事例を思い出しました。
原作者の意志が及ばないレベルにコンテンツがひとり歩きしてしまった悲劇において、私は原作者に同情する者ですが、同時に、「作者」が創作物の神としてふるまえる領域は作品が世に出るまで。という認識を長く持っている者としては、さもありなん。という感想も抱きます。
話を急いで競馬に戻すと、ライスシャワー(1989JPN、父リアルシャダイ母ライラックポイント母の父マルゼンスキー)は「一義的には」購買以降オーナーのものだけど、日本の競馬界というファンあっての世界においてはファンひとりひとりのものでもあるわけじゃないですか。
もの、という単語の座りはいちじるしく悪いけど、そこは措きます。
オーナーも生産者も厩舎スタッフも乗り役もファンも、同じ立場。それが競馬という世界を楽しむ際の私の出発点で、だからこそ(ウマ娘というコンテンツ以降に入った新参は各所への敬意を忘れないように)みたいな声にも、古参の競馬ファン一個人としては、それすらまあ自由だしな、という感想だったりします。
馬の名前を表記するとき、生産年・生産国、父名・母名・母の父名を書きたい気分の由来は、リアルシャダイ(1979USA、父Roberto母Desert Vixen母の父In Reality)が、ライラックポイント(1979JPN、父マルゼンスキー母クリカツラ母の父ティエポロ)がいなければ、ライスシャワーも存在するはずもなく、つまり連綿と続く血の流れの凝縮された姿が目の前の1頭のサラブレッドと思っているからで、ええ、血統クラスタにこういう話をさせると長引くからよくないよね。
何が言いたいかというと、ライスシャワーの関係者の思いは尊重されるべき、まったく異論はないけれど、彼らの意見とて、俺たち私たちの意見と同じ重みしか持てないので、そこに正解があるとは思わないほうがいいんじゃないか。それぐらいです。
ウマ娘を見てライスシャワーを知った方はこの記事でもっとライスシャワーを好きになってくれればと思います。
ライスシャワーをもっと先の世代の競馬ファンにも伝えていく為に僕としてはこれだけでウマ娘が生まれてくれてよかった。と思います。
ライスシャワーをヒール“役”に勝手に置いて、その中で語り評した当時の風潮への批判にも感じられる。第三者が勝手に役割を設定し、そのキャスティングでの物語化をしてしまった事への批判性だ。「ライスシャワーはヒールだったんじゃないだろ。勝利者だったんだろ」という見失われてしまった視点。競馬だけの話ではなく、もしかすると僕らはその他の多くのことに対して同じ事をしてしまっているのではないのかと考えさせられる。その反省、やってしまった事への救いも含めたものとして描かれるのがファンタジーたる仲間達からの賛辞だ。
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