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喫茶野ざらし戦記(1)

コロナ禍終焉後の風景の中で。


2020年2月に開業した「喫茶野ざらし」は2022年6月一杯で閉店し、はや2年が経過した。今ではあれほど猛威をふるったコロナ禍も収束し、人の行き交う流れも元に戻り、休日の隅田公園のベンチに腰を下ろし、公園の賑わいを眺めると、当時を回想する事も多い。
昨年で会社も清算し私に残るのは「喫茶野ざらし」の商標登録だけとなった。
店舗物件は割安で立地も悪くないので、墨田区石原の「Yatoブックス」オーナーに話を持ち掛け、後を引き受けてもらえた。
現在、内装は大幅に改装し現在は「ORAND/OUET」として、今後が楽しみとなっている。
――もともと「シアター化構想」の際に「何か一緒にできませんか」と話を持ち掛けたのだが、閉店の判断になった時点で物件引継ぎの相談になった。ちょうどYatoとしても次の展開で飲食店を考えていたようで、タイミングも良かった。
全てが片付いた今。私が「もし、コロナ禍がおさまった今から喫茶野ざらしをオープンしていたら」と考えるのは自然なことであろうし「今だからこそ自分自身を含めて客観的に当時を描く事が出来るだろう」と思い、半ば自分の為にこれを敬愛する東浩紀氏の「ゲンロン戦記」からタイトル拝借し「喫茶野ざらし戦記」として記憶が薄れないうちに総て記してゆきたいと思う。

佐藤研吾との邂逅

2017年当時、facebookグループで「中央線呑み」というゆるめな集いがあった、津田大介さんも過去参加していたらしい。
このグループの管理人であるS君から紹介され、私は「中央線飲み」に参加した。このグループにはなぜかS君の流れからなのか、高学歴の若者が多かった。
――その場に佐藤研吾はやや遅れて来場した。アルタートバックを脇に置き着座した彼に興味を持ち、隣に尋ねると「建築家です」と言われた。私は席を立ち彼のそばに向かった。
――当時、新国立競技場の「ザハ案」を巡って議論が起こっており、私は建築関係者と聞くとそれに対しての見解を問うてまわっていた。
いつものように不躾に佐藤氏にも問うたが、彼の返答は、青年らしく権威や派閥、背景などに一切気兼ねすることもなく、しっかり自由闊達に自分の見解を語ってくれた。私にとってはそれが的を射ているかどうかは別として「自分の考えを自分の言葉でしっかり語ってくれた」ことに新鮮な感動があり納得もした。彼はどこかの誰かの言葉の引用ではなく「自分の言葉で語れる人物」だ。ホンモノに出会った気がした。
だが、彼は建築家で、私は総合IT企業に身を置くものとして、まず仕事で双方が関わることは考えにくい。それでも漠然と「いつか一緒に何かやってみたい」との思いがあった。
そしてある日、facebookのTLに麻布交差点の「SNOW Contemporary」で開催中の中島晴矢個展「麻布逍遥」が目に留まった。
興味が湧き、この個展に顔を出してみると、そこにはキュレーターで関わった青木彬もいて、しかもたまたま最終日のトークイベントで、ゲストは宮台真司であり。質疑もあったが、そこでの中島氏はじつに堂々としたもので、
「質問」というより「難癖」に近い問いかけ群をしっかり受け止めて返答している彼の姿に感服した。とくに、自分がわからない事に対して「あ、それは俺は知りませんでした」とごまかさず答える姿はこの世知辛い現代にあって清々しかった。「これからの時代はこんな若者が前面に出ていって欲しい」――と思った。
帰りには宮台氏も交えた宴席で親睦を深めた。この時に、初めて佐藤と中島は同じ麻布学園の同期で、宮台氏はそこのOBである関係を知った。そして、この個展に顔を出した同校の仲間たちは、一様に一流の企業や職域揃いであるのに、自己表現の道を選んだ中島氏には強い敬意を抱いている。この「麗しい」関係にもいたく感心した。ここでも「彼らとなにかやってみたい」と佐藤に加え、中島、青木の3人がイメージになった。

「中島晴矢のパトロン」構想と「FOOD」

ちょうどこの頃、ドキュメンタリー映画『ペギー・グッゲンハイム アートに恋した大富豪』を観た。彼女は近代美術史では多くの有望な芸術家と作品を戦火から守り、最大の功績としては「ジャクソン・ポロックを見出した」事が挙げられていた。
この映画に感化され「中島晴矢に投資してみようか」と考えた。要するにパトロンとして、まとまった生活費を彼に提供しアルバイトなど生活費かせぎから解放し創作活動に没頭してもらおうと。
この頃自分は会社を辞め、退職金を足掛かりに何か別な取り組みを模索していた。金額はそう多くはないが、何かしらの事業を起こすにはまずまずの金額が手にできる。
アートに関しては自分はあくまで趣味として好きであり、父親は芸術家を目指しながら結婚の為に建具屋となった人間で、その血もあるのかもしれない。
さて、問題は「何をするか」だった。ITの知見を活かして効率の良いスタートアップを始めるもいいが、それでは面白くない。なるべくユニークで、なにかしら社会に寄与する方向性がいいと思っていた。
個展から日を置かず中島と青木を招いて食事をするなかで「一緒に何かやりたい」意識は高まり続けた。そうして半ば「中島晴矢のパトロン」の決意が
固まってきたところで、少し俯瞰的な視点が欲しいと、渋谷で食事をしながら青木に意見を聞いた。
すると青木は「いいとは思いますが、それだと中島さん独りだけしかサポート出来ませんよね」という。続けてゴードン・マッタ=クラークの名をだして、「日本版の〝FOOD〟構想」を語りだした。
――ゴードン・マッタ=クラークはアメリカで1970年代に活躍し35才で早世したアーティストだが、彼はソーホーに「FOOD」というレストランを経営していた。そこで働く者は全員アーティストだった。そして「食事とアートは似ている」と考えたマッタ=クラークは「食」をテーマにしたアートイベントを定期的に開催したという。
その根底の部分を引用し、スタッフは全員アーティストで、拠点で活動する中で生計も立ていけるようなSEA(Socially Engaged Art)を実践する場を提案してきた。自分は「よくわからないが、面白そうだ」と感じた。
拠点と言えば流れからも青木も共通の知人である佐藤研吾に頼みたいし、全体をみる立場としてキュレーターの青木、そしてアーティストの立場で中島とポジションは簡単に決まった。
俺はと言えばオーナーで、経費をすべて負担し経営者として関わる事になった。これは私が申し出た事だった。「資金はすべて俺が持つ」と約束した事で3人が賛同したのだ。
――しかし後から振り返るに、ここは大きなポイントだった。今なら俺は「金は俺が出すから一緒にやろう、と持ち掛けて乗ってくる奴とは絶対一緒にやるな」と言いたい。
まあ、しかしこのように「FOOD PROJECT」は動き出したのだった。





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