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夏の日〜壮年期〜short story
大学卒業から5年。
エッジの効いた物件ばかりを取り扱う不動産屋でサエは忙しく働いていた。まだ新人扱いではあったがだいぶ仕事も任されやりがいがあった。
そんな折に、東京の端っこの方にかつてカツジが沖縄で住んでいたような白いコンクリート造りの平屋の情報が入ってきた。
まだ自分の家を買うほどの貯金はなかったが、どうしてもこの目で見ておきたい。先輩に、その案件を担当したいと申し出てOKをもらい早速オーナーに会いにいくことになった。
残暑の西東京は祭りの日で、観光客を回しているせいか駅からタクシーがいっこうにつかまらない。
待ち合わせの時間より早くついて、外観だけでもゆっくり見ておきたい。駅から少し歩いた古びたレンタサイクル屋で自転車を借りて、目的地に向かった。
アップダウンがかなりあり、白いコンクリート造りの屋根が遠くから光って見えたあたりからサエは自転車を降りてゆっくりと進んだ。汗は滝のように流れ、白いシャツが白いのか半透明なのか分からなくなっていた。あとでジャケットを着ればいいや。サエは頭の隅で考えながら自転車を押した。
白い平屋は、近づくと少し薄汚れていてグレーに見えた。造りはカツジがかつて住んでいた沖縄のそれで、だけど胸の高さほどの塀は花ブロックのような穴は開いていない。なんだ…花ブロックじゃないのか。サエは残念な気持ちのまま塀に沿って裏手の庭まで回ることにした。家の窓が要所要所であいているところを見ると早くにオーナーが来て換気をしているのかもしれない。
だけど、とりあえずこの汗をもう少し引かせて、なんならシャツも乾かせたい。サエは人目につかないよう塀沿いに裏庭へ回った。
汗を拭こうと思った時「サエちゃん」と突然名前を呼ばれてサエは腰を抜かしそうになった。その声に聞き覚えがあったからだ。
手入れがされておらず雑草が生えた裏庭の塀越しにカツジが立っている。
熱中症からくる幻覚か。夢から醒めろとばかりに瞬きを何度もした。
だけど、目の前のカツジは消えない。
おじいちゃん…
カツジが差し出した手に吸い込まれるようにサエは手を重ねた。
シワシワで乾燥していて、節々が固く、ゴワついた温かいカツジの手。瞳が優しく笑っている。
綺麗な白髪だった髪の毛は染めたのか、前のカツジとは違って錆びついたような茶髪をしている。瞳も昔より茶色く見える。
この5年、位牌の前で手を合わせるたびに心の中で懺悔し、伝えたかった言葉たちが溢れ出た。
「おじいちゃん、わたしを1人にさせちゃダメだって思ってガマンして病院に行かなかったんでしょ?ごめんね。作ってくれたロールキャベツ、冷蔵庫の中でダメにしちゃった。ごめんね。作ってくれてありがとうって言わなくてごめんね。
渋谷とか原宿とかばっかり連れ出してごめんね。ごめんねばっかりでごめんね。あぁ、おじいちゃん、だけど、おじいちゃんのおかげで今、私ここにいるの。ありがとう。あの時、沖縄からきてくれてありがとう。一緒に住んでくれてありがとう。もう本当にたくさんたくさん笑ってくれてありがとう。」
勢いよくおじきをしたら涙がバッとグレーのコンクリートに落ちた。暑さですぐに涙の染みは消えていく。顔をゆっくりとあげたら握ったはずのカツジの手はコンクリートの白い塀で、そこにはもうカツジの姿はいなくなっていた。
「片桐さん?」
ビクッと振り返るとラフな格好のサエより少し年上かという男が心配そうな面持ちで立っている。「あ、僕オーナー代理の橘です。顔色悪いですけど大丈夫ですか?」
自転車で飛ばして来たことを汗(と涙)の言い訳にして、簡単な自己紹介をした。顔色の悪いサエを気遣いながら、橘はサエを家の中へ招いた。
玄関から長く先が見通せて、先ほどサエがいた裏庭が見える。平屋だが、半地下のようなスペースとロフトのような中2階。その造りにサエの胸は躍った。
「ごめんなさい、実は謝らなくていけないことがあって。この物件、僕の父が勝手に御社の社員さんに売り込んでしまったんだけど、オーナーさんが譲りたい人がすでにいて、売り物件として出せないんです。
せっかくこんな暑い日に自転車を飛ばしてくれたのに本当にすみません。」
ショックが隠せず目線を逸らして室内を見回した。室内には少量の持ち物が残っている。レコードやレコードプレイヤー。品がいい椅子、壁掛けの絵。
「あ、こちらオーナーが取りに来るそうです。
情報がごちゃごちゃしてしまい本当に申し訳なかったです。」
せっかくの白いコンクリート造りの物件。中の作りも面白く、手を加えたらさらに魅力のある物件になる。白い塀はいっそ花ブロックに変えてもいいんじゃないか。楽しい妄想が膨らんでいたのになんてタイミングの悪さだろう。サエは悔しくて残念で言葉が出なかった。
半地下部分にあるお勝手口のような小さなドアがガチャと開いて、恰幅のいい初老の男性が頭をかがめて入って来た。
「あ、白石さん。
すみません、父が勝手に売り物件として話を持ちかけてしまって不動産屋さんが…」
「サエ?」
突然、下の名前で呼ばれてサエは驚いたが、その声ははるか昔に聞いたことのある紛れもなく父タケルのそれであった。
「あれ?お知り合いですか?
片桐さんこちらがオーナーの白石さんですが…」
この家に入ってからまだ一言も発していないサエが口を開いた。
「ご無沙汰しております、お父さん。」
橘にこ複雑な状況を説明する煩わしさから、サエは一切の感情を排していつぶりか思い出せないぶりにタケルを「お父さん」と呼んだ。
ドラマのワンシーンに突然立たされた大根役者の自分はしかし、心に動揺もなくその場に立っていられた。きっとそれは先程のカツジのおかげだ。幽霊の次は、何年も会っていない父親か。こうなったらゾンビでもなんでも現れろ。サエは心の中で遊んでいた。
事情が飲み込めていない橘とは別れ、駅前まで戻りタケルと喫茶店に入った。
タケルはあの白い家について話し出した。
かつて沖縄に住んでいたカツジが、孫のサエに頻繁に会うために東京で家を探してほしいとタケルに申し出たのは、キサおばあちゃんが脳梗塞で亡くなって間も無くのことだったそうだ。
沖縄は明るい風土があるものの、内地の人間を完全に受け入れてくれるまでは時間がかかりそうで、やもめとなったカツジは一抹の不安と寂しさを抱えていたそうだ。
沖縄で買った白い平屋は海外赴任の地を思い出すこともできてカツジは大変気に入っていたそうだ。「コンクリート造りの白い平屋」限定で物件探しをタケルに依頼したそうだ。
ようやく西東京にめぼしい物件がみつかったのと、看護師が妊娠したのは同じ時期だった。
自分の不貞もあり、タケルはカツジに物件のことを話せずいたが、せっかく見つけた物件をいつかのためにとすぐに買い取ったそうだ。
その後、カツジがサキとサエと暮らしたと知った。白い平屋は何年かは賃貸物件として貸していたが、ここ数年はタケルの趣味の場所として倉庫のように使っていた。
サキからサエの近況をときおりもらうたびに、カツジが強く希望したこの家は、サエこそ持ち主になるべきだとタケルは思ったそうだ。
今日、そのサエが現れるのはタケルにとっても予想外だった。
「せめてもの罪滅ぼしにサエにあの家を譲りたいと思って、荷物の整理をしていたんだ。サエ、苦労をかけて本当にすまなかった」
おでこがテーブルにつくくらい頭を下げたタケルの髪の毛はフサフサで、サエは場違いにも「禿げない遺伝子か、いいじゃない」と思った。
「おじいちゃんが裏庭にいたんです。熱中症で朦朧としてたから、本当かどうかよくわらない。だけど、おじいちゃんが住みたかった家ならありえるかもしれない。わたしが住んだ後も化けて出るかもしれないさ〜」
ここで突然「さ〜」をつけてしまった自分にサエは大きく笑った。
カツジののように、サキのように。
私はもう大丈夫。玄関を出るたびにマントラのように唱えていた小学4年の自分に伝えた。
カツジとサキと、目の前のタケルにも温かい感謝の気持ちが胸の奥底から湧き上がって、笑う頬に涙がこぼれ落ちた。
ありがとうの涙。夏の涙。
了