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手代千吉、虎と春

「あら、どうしたの」
 風は止んだみたいだ。春は長屋の井戸で水を汲んでいる。
「どうしたのって、もうこの時間ですよ」 
 昨日遠くで火事があった。千吉はその場に駆け付けて、火消しの真似事をやった。
 それは大きな火事であった。折からの西風に煽られて、慣れない千吉は危なかった。無我夢中であまり覚えていないが、倒れてきた柱に当たるところを誰かに助けられた。
「今日も晴れてくれればいい」
 春が歌うように言った。千吉は火事の思いから離れられずに、あいまいな生返事でこれに答えた。

 千吉の歳は30少し過ぎ、島帰りだ。八丈に5年流されていたが、赦免されて戻って来た。
 元は江戸神田神保町に店を構える呉服屋の手代だ。腕利きだった。だが、そこの後継ぎである若旦那が偽作者として有名になり、千吉がこれを手助けして片腕となった。その頃から運が傾いた。
 千吉は生来の博打好きだ。それがたたった。負けがかさんで、とうとう若旦那の金を盗んだ。
 島から戻っては来たが、素性を知る者の多い江戸にはいられない。千吉は大坂に下り、長町の棟割長屋に住み着いた。そこで担い茶屋を始めた。 
 茶屋と言ったって、そんなに景気がいいものじゃない。だから、客を求めて場所を変えるが、主な舞台は住吉大社の境内だ。そして、そこに春がいた。

 千吉の知る春は謎が多い。
 蒲原春、それが春の名だ。歳は千吉より少し上かもしれないが、もう後家だ。どこぞのお武家に違いない。当人は隠しているようだが、隠しおおせない品がある。
 では、なぜ長屋なぞに住んでいるかだ。どうも御亭主が死んだらしい。それも自死、つまり切腹だ。当人は何も悪事を働かないのに、その科を身に受ける、つまりはめられたということだ。
 この時代、一族の不祥事が係累に及ぼす影響は著しい。ましてやその御亭主蒲原弥之助は惣領だった。畢竟一党は野に下り、それは妻たるもの、悔しいに違いない。夫の罪をそそいで、家の再興を願うのは当然だ。それだからか、時折長屋の春の家に、見慣れない浪人が訪ねてくる。何やら相談を重ねている。
 でも、その春だって、何もしないでは世を渡れない。普段は大きな神社の境内で楊弓場をやっている。住吉にも小屋をかける。そうやって糊口をしのいでいるのだ。
 偶然とは恐ろしい。春は千吉と同じ長屋に住んでいた。だから千吉も声をかける。春は自分の素性には触れたがらないが、そこは問わず語りで、何がしかのことが伝わってくる。お陰で千吉も、事の顛末を少しばかりは知り得たのである。
 
 その日、夫弥之助はいつものように奉行所に出仕した。そして二度と帰らなかった。
 要約すればそういうことだ。
 弥之助は町奉行所の同心だった。何か、土地取引の管轄に関する賄賂の証拠を掴んだみたいだ。しかし、賄賂を贈ったのは町人だが、受け取ったのは奉行所の役人、つまり身内だから、調べと言っても難しい。あと一歩まで追い詰めたが、どうやらその身内に気付かれて、反撃を受けたらしい。挙句の果てに、弥之助は逆にその罪を着せられた。ついには切腹の憂き目を見た。
 では、その身内とは誰なのか。賄賂を贈った業者とは何者なのか。ある意味、彼らは夫の仇だから、春にとってもこれは重要だ。でも、春はその事は喋らない。知っているのかもしれないが、それを口にすることは決してなかった。

「ああ」
 与力の梅田は机に肘を掛けてため息をついた。大坂、西奉行所の一室である。
 この所背筋が寒い。風邪を引いたのかもしれない。
「やりたくてやったのではないのだ。目付の芦辺様が・・」
 上役の意向、いや、正確には忖度だ。忖度して調書を改ざんした。そして、その調書の示す通りに、部下の弥之助が責めを受けた。
 そもそも、こんな大それたことになろうとは思ってなかった。
「切腹なんて。何ということだ」
 虎屋のあの、糊で固めたような顔を思い浮かべる。
「お前がはめたんだ」
 心が疼く。仕方のないことと自分をなだめる。
「そう言えば、弥之助にはつれあいがいた」
 確か春と言ったが、消えたそうだ。どうせ、頼りない夫に愛想を尽かしたのだろう。
 投げやるような笑みを浮かべた。火鉢に手をかざし、意味もなく炭をつついた。

 住吉の境内に大きな駕籠が入って来て、広場の中心に横付けされる。のっそりと大きな体が駕籠から出てくる。
 虎屋だ。大坂きっての口入れ屋だ。いや、日本一かもしれない。船場で大きな店を構える。その他、随所に広大な地所を持つ。
 すごい群衆だ。虎屋が何か声を上げる。人の群れがどっと湧く。
 虎屋は、物言いに特徴がある。口を極めて罵るのだ。
 ちょっと聞くだけでは理解不能だ。でも、段々と分かってくる。
「君たちだって、自分の好きなように生きたいだろう。私だってそうだ。だから、そのためには何でもする。手段は選ばない。邪魔なものはぶち壊す」
 一貫して唱えるのは土地の開放だ。土地が開放されれば、そこに活気が生まれる。経済は発展し民は潤う。このままではこの大坂は沈滞する。日本の未来だって暗い。このように虎屋は吠える。
 虎屋の言葉には仁義礼智信、そんなものはカケラもない。それでは賛同するものなど誰もいないと思いきや、どの世界にも心酔する者は必ずいる。親衛隊が現れる。
 虎屋は面白おかしくお上の悪口を言う。真偽の程はわからないが、その噂は街に広まる。お上だって無視はできない。それで失脚する役人も出てくるからだ。
 それでも、公儀の動きは鈍い。虎屋が奉行所の上役と繋がっているという噂もある。民はそれを面白がる。それで一層虎屋を囃し立てる。
 住吉で虎屋がまた声を上げる。
「開発だ」
「火つけでもなんでも、やればいい」
 そのときだ。
「お前がやったんだろ!」
 鋭い声が飛んだ。しかも女だ。
 反射的に虎屋は右の耳をふさいだ。呆けたように辺りを見回す。でも、誰の声か分からない。
 つかの間の静寂。虎屋は何事もなかったかのように、拳を振り上げて弁舌を再開した。

 広い邸内は音が絶えている。2月の寒さを遮るためか、障子が堅く閉められる。部屋の隅に置かれた行燈の光にほのかに横顔を照らされて、6尺を超える体躯を誇る男が座っている。それは、先程まで住吉で聴衆の前にいた、虎屋道三その人であった。
「梅田をいかが致しますか」
 虎屋が尋ねた。
 梅田とは、大坂西奉行所の与力、梅田市之丞である。 
「もう、いいかもしれんな。蒲原の件ではよく働いたが」
 床の間を背にして座る初老の男が苦々しく答えた。この屋敷の主、目付けの芦辺新五右衛門である。
「か奴は知っていますぞ」
 虎屋が重ねて尋ねる。
「それはまかせておけ。それより・・醤油屋だな」
 芦辺が続ける。
「分かっております」
 虎屋が手をついた。一瞬を置いて庭に気配が走った。だが、虎屋は眉も上げない。目は畳の一点を見つめて動かなかった。

 半鐘の音が響いた。
「大きいぞ」
 折からの北西風が吹いている。火元は長屋の風上だ。
「これは道頓堀だな」
 当たりを付けてどっと駆け出す。何のあてがあるわけでもない。知り合いなぞ誰もいない。
「ここか」
 駆けつけた千吉は息を飲んだ。大坂では外様の自分だってよく知っている。ここは多くの口入れ屋が狙っている場所だ。喉から手が出る格好の繁華の地だ。転売して高く売るのだ。
 千吉はあの住吉大社の虎屋を思い出した。あの人もここを狙うのか。
 でも、ここには一徹な醤油屋がいる。甘い誘いに乗らないと評判の大店だ。
 その醤油屋が燃えている。造り醤油屋は敷地が広いが、その全体を火の手が覆う。
 辺りに醤油独特の匂いと、焦げた匂いが入り混じる。火の粉を避けながら炎を見やると、手の届くところに逃げ惑う人が沢山いる。千吉は一瞬躊躇したが、何かに突き動かされるように、心を決めて中に入った。
 何ができるということもない。文字通り手を差し伸べて、逃げる先を導くくらいだ。そうして何人を助けたか。だが、そこに燃えた柱が倒れてくる。
「危ない!」
 と叫んだかどうか。千吉はあまり覚えていない。あわやという時、誰か、細身の人が現れた。総身黒ずくめで顔も隠している。男か女かも分からない。千吉の右手を強く引いた。
「こっちへ!」
 女だ。それに声音にも聞き覚えが・・だが、そんな考えもあればこそ、千吉はあわやの危機から救われた。

 長屋の井戸。千吉は改めてあたりを見やる。昨日の騒ぎが嘘のようだ。
 いつのまにか春は水を汲み終わっている。
「アレ、どうしたんです?」
 春の腕に包帯がある。だが、春はそれには答えない。
「今度江戸に行くんですよ」
 そう言えば、あの黒装束は誰だったか。それに、あいまいな記憶をたどってみると、怪しげな格好をした者は他にもいた。彼らはあそこで何をしていたのか。そもそも彼らは何者なのか。
 虎屋の仲間とも思えない。もしそうなら、火付けはしそうだが、人を助けたりすることはない。
 あれは春だったのか。火付けの証拠を掴んだのか。それともそれを取り逃がしたのか。
「またすぐ戻って来ますよ」
 春は笑ってこちらを向いた。
「あなたはあそこで何をしていたのですか」
 千吉はそう尋ねたかった。だが、その言葉をぐっと飲み込んだ。
 間もなく春は長屋から消えた。

 住吉大社。何事もなかったように虎屋が現れる。いつもの大ぶりな体。だが、右の耳の絆創膏が目を引く。
 今日は話に一層の力が入る。虎屋の主張からすると、土地の開発は人々の未来を約束する。ひいては大坂の将来もだ。偉大な大坂を取り戻すのだ。ここで聴衆はドッと盛り上がる。
 もうヤジは飛ばない。先日の火事の影響だろうか。
 あの醤油屋は壊滅状態だ。土地は更地になるという噂だ。誰の手に入るのか、そして誰に売られるのか。いずれ、口入れ屋には莫大な富が入るだろう。
 そんな声を知ってか知らずか、虎屋が両手を上げて歓呼に答える。そして、ゆっくりと引き上げる。

 そして丸1年の月日が過ぎた。だが、春は一向に現れない。長屋の春が居た部屋の戸は閉まったままで、住吉の境内にも姿はなかった。
 その住吉には今日も虎屋が来ている。民は競ってそれを迎える。より一層盛り上がっている。それは何とも暗い日常で、この現実を誰も変えられない。
「春は負けたのか」
 不吉な考えが湧いてきた。千吉は思わずたじろいて、東の空を仰ぎ見る。春の声を聞こうとするが、それは虚しい願いであった。
「虎屋か・・」
 何をどうすべきか分からないし、何ができるという宛もなかった。でも、何かしなければならない、と千吉は思った。
「虎屋め・・」
 千吉は思わず声を発した。そして、挑むように顔を上げた。

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