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この国の真実をもとめて ~稽古照今~

騎士 崚史朗(きし りょうしろう)  文化随筆家
大阪府出身 神戸市外国語大学大学院修了 大阪大学非常勤講師 関西大学非常勤講師などを経て公的機関における通訳翻訳官を務め退官

 騎士崚史朗(きし りょうしろう)と申します。どうぞよろしくお願い申し上げます。
 さてこのページでは「この国の真実をもとめて~稽古照今~」と題して、私たちの日本とはいかなる国であるのか、いかなる本質を持っている国であるのか、などを訪問記、読書体験記、等を通じて気軽にお話できればと存じます。またこの国の真実を探求しつつ、それを日本の様々な時代から近代の歴史にも敷衍させ、時空を超えた日本の歴史の考察を試みたいと思います。
 お付き合いいただき、ありがとうございます。

この国の“肇国”(ちょうこく) そこにいた方

肇国の地をおとずれて

 今年は令和6年(2024年)ですが、日本ではもともと使用されていた元号があり、それは「皇紀」と呼ばれています。その年号で今年をあらわすならば「皇紀2684年」となります。この「皇紀」という年号は戦前では日常に使用され、尋常小学校のアルバムなどで昭和15年発行のものの表紙には皇紀2600年と記されてあります。皇紀2600年とは100年単位の節目に当たりますのでこの年、盛大に祝われました。
 さてではこの「皇紀」の起源はどこにあるのでしょうか。
 今を遡ること2684年前に神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)が現在奈良県にある橿原神宮で神武天皇としてご即位になられ、この時が「皇紀」の年号の数え始めとなります。
 と同時にこの年が日本の肇国の年となります。
 この小節の小見出しを「肇国の地をおとずれて」としました。この「肇国」という言葉は「ちょうこく」と発音しますが、聞き慣れない言葉かも知れません。「建国」と言うと理解していただけると思います。通常、人工的に国が作り上げられること、あるいは植民地からある民族や地域が独立し、国となった際には「建国」が使用されます。日本の場合、そのような国々とはいささか事情が異なるのですが、「建国」という言葉を戦後はあえて使用されるようになっています。また日本では2月11日が「建国記念日」と定められており、この日は日本人ならば誰もが知っている国民の祝日ですね。とは言え、まことに残念なことに戦前に使われていた言葉、語彙は戦後、別の言葉に置き換えられ、それがあたかも正しいかのように今日にいたるまで思われてきました。ですが、どうでしょうか。日本の場合、人工的に「建国」がなされたというよりは、2684年前に神武天皇が「国を肇(はじ)められた」ために、それを「肇国」と言いあらわし、「建国」とは本来区別するべきものであると考えます。そして国を肇(はじ)められた場所が先にも記した大和の地、現在の橿原神宮でした。
 さて、いささか旧聞に属し、かつ私事になりますが、昨年、皇紀2683年の暮れ、久しぶりに橿原神宮を訪れてみました。

近鉄南大阪線の「橿原神宮前駅」で下車、橿原神宮まで歩きます。
さていよいよ境内に入りますが、その前に神社の広大な敷地の様々な施設の案内があります。


ここで一礼して、鳥居をくぐり境内へと向かいます。


境内にこのように「紀元2683年」とかざしてありました。これは令和5年にあたります。
従って今年、令和6年は「紀元2684年」となります。      

 この「紀元」というのは日本人にとっての共通理解事項であると私は思うのですが、「紀元」をおおやけで使用しなくなった戦後においてはむしろこれを使う方がおかしい、という風潮が蔓延しています。
 以前、私が所属していた部署で、ある退職者への送辞を私が述べることになり、その締めとしてその日の日付を「紀元26✕✕年〇月○日」と声高らかに言いましたら、静寂の次に突然、笑いが起こりました。まさか笑いが起こるとは予測していなかった私は少々面喰いました。私は決して笑いを取ろうと受け狙いで「紀元」を使ったのではありません。日本人として同僚を送る際に厳粛な気持ちでそれをあらわしたに過ぎなかったのです。彼らの意外な反応にむしろ「紀元」がいかに戦後に看過されてきたかを思い知らされたのです。
  果たしてこういう状況でよいのでしょうか。私はよいとは思っていません。日常生活で我々が使用する年号は2つあり、1つは和暦であり、もう1つは西暦ですね。言うまでもなく和暦とは明治以降、天皇の御代が変わられるごとに付けられる日本独自の歴で、周知の通り、今から6年前、現在の天皇陛下が践祚(せんそ)なさいましたので、「平成」から今日の「令和」という年号に遷りました。もうひとつの歴、西暦は名の通り、西洋の歴で、今年2024年とはイエスキリストが死んでから2024年が経過したという「キリスト教の時間」を踏まえた歴となっています。ご存じの通り、日本はキリスト教の国家ではありません。ただ、世界的共通事項としてこの歴を使用しているにすぎないのです。


橿原神宮には広い境内が静寂を保ち、神韻縹渺とした雰囲気を漂わせていました。


実に広い境内です。この日、冬の一日で、雲が空を覆っていたものの、晴れ、境内は日の光で美しく輝いていました。


ここで一礼し、お参りをいたします。

 先にも述べましたように、昭和15年(1940)などは皇紀2600年という節目に当たっておりましたため、国を挙げて祝賀行事がおこなわれています。さらに遡り、江戸時代でもいわゆる尊皇家たちはこの「皇紀」を常に意識しており、例えば天保11年(1840)は皇紀2500年に当たっており、後期水戸学の尊皇家として名高い徳川斉昭は「紀元2500年祭」の実施を提案しています。
 さて以上からもうかがえますように、江戸時代といい、戦前といい、国民は常に「皇紀」を意識していたわけですが、この「皇紀」と「すめらみのみこと」すなわち「天皇」とは不可分の関係にあります。言うまでもなく、「皇紀」とは「天皇」の御代をあわらす我が国独自の年号にほかならないからです。この「皇紀」と白欧のキリスト教の時間をあわらす「西暦」を較べてみますと興味深い点に気がつきます。先にも指摘しました通り、「皇紀」とは初代の神武天皇が大和の橿原神宮で御即位された年をもって開始といたします。すなはちそれが日本の「肇国」であり、いわば国が生まれた日、国の誕生日となります。さて他方、「西暦」は白欧諸国が信仰するキリスト教のイエスキリストが処刑された、すなわち死んだ年をもって西暦の始まりとしています。国の始まりをもって年号の始まりとする日本、一方、キリストの死をもって年号の始まりとする白欧、非情に対極的な思考法が感じられます。戦後日本ではこの「皇紀」を使用する公の機関がなく、さらには例えば大学教員の採用書類ですら「和暦ではなく西暦でご記入ください」などとあり、「皇紀」はおろか、「和暦」すら払拭しようとしているふしがあります。日本文化より白欧文化を重んじようとしているのでしょうか。
 さて江戸期といい、戦前といい、国民は「皇紀」を意識し、ということは常に天皇と皇室に敬意を抱いていたことがわかります。
 その理由は、天皇と皇室の長久の歴史、さらには天皇こそが肇国以来の日本の君主であり、天皇は常に日本と国民の安寧を願われ、祈りを捧げてこられた仁恕と謙虚に見出されると思います。
 神武天皇が日本を平定されてから現在の奈良県の橿原で御即位なされた際に詔勅が発布されました。詔勅とは「しょうちょく」と読み、天皇の「おことば」のことですが、それは「六合(りくがふ)を兼ねて都を開き、八紘(はっこう)を掩ひて宇(いえ)と為さむこと、亦(また)可からずや」というものでした。ここから「八紘一宇」という日本国の肇国の理念が生まれました。「八紘」というのは4つの角、4つの隅で、世界中を意味し、「一宇」とは「一家」で、世界中の人々を一家の中の者のごとく相和する、と言う意味でこれが神武天皇肇国の理想にほかなりませんでした。
 つまり日本の肇国の理念とは「家」、則ち家族という互いに補い合う、相補性の関係で結ばれた人間関係の拡大による「家族主義体制」でした。
  周知の通り、先の大戦、大東亜戦争の武力戦の終結後、その翌年(昭和21年)から「東京裁判」が開始されました。この「東京裁判」というのはいわば連合軍の日本に対する“報復”ともいうべきもので、「平和を乱した罪」という戦争中なかった事後法で“戦争責任者”に仕立てられた人々が“戦犯”とされ、そのうちの“A級戦犯”に仕立て上げられた7名が処刑された“報復裁判”でした。また別の機会にこの「東京裁判」についてお話ししたいと存じますが、この裁判におきましては、先の「八紘一宇」という理念はなんら戦争とは関わりのない語彙であったにも関わらず、連合軍側はこの語彙は悪い言葉と考え、しかも裁判長であったウエッブという人物はこれこそが日本を侵略戦争にかりたてた世界征服思想であると信じ切っていました。
 誤解と偏見もはなはだしいと言わざるをえませんが、これに対して、東京裁判の時の清瀬一郎主任弁護士は「八紘一宇」は「世界同胞主義ユニバーサル・ブラザーフッド」という翻訳がすでになされている旨を主張しています。しかしこの語彙はアメリカ軍による占領期間には禁句(タブー)とされていました。それまで長く日本の歴史を通じて、使われていた語彙が他国によって禁止されました。本来、主権国家に起きてよい事態ではまったくありません。ところが、占領期間後も占領政策のあり方を継承する勢力が障害となって、この語彙は今日に至るまで正当な復活が果たされていません。
 昭和22年(1947)10月から昭和27年(1952)6月までNHKラジオで「日曜娯楽版」という番組が放送されていましたが、その中のコントで、次のようなものがありました。

A 「標語を書くのに紙がないんでね、古いポスターの裏を使ったのはわかるがね、ちょっと驚いたね」
B 「ホホウ」
A 「民主主義!ってかいてあるウラにだね」
B 「何て書いてあった?」
A 「八紘一宇ってかいてあったよ」

 ここで爆笑が起こったことは想像に難くありません。日本の建国、すなわち「肇国」の理念であった「八紘一宇」があたかも“軍国主義”の残滓のごとく扱われ、笑いの対象となっていたのです。戦後からたかが数年で、我々の父祖にとって最も大切な理念がこのような誤解にまみれたものとなっていたことは笑って済まされる事ではないと思います。と同時に今一度、この「八紘一宇」の理念がいわゆる“軍国主義”とは何の関係もない、いや、逆に平和を求める日本の肇国以来の理念であったことに思いを馳せる共通認識がなんとしても復活されなければならないと思います。
 「八紘一宇」(あるいは“八紘宇為”)とは神武天皇による国の平定後の「家族主義」を基軸とした「平和宣言」であったことに戦後の私たちは思い至らねばならないのではないでしょうか。
 

橿原神宮地図
境内が大変広いのですが、古典の文藝評論家の重鎮である保田輿重郎氏は「橿原宮出土品が、橿原宮の歴史を二千年ないし四千年の間に想定せざるを得ざる」と述べ、橿原の歴史が実は日本の肇国よりずっと長いものであることを示唆しています。


令和二十二年は紀元二千七百年を迎えます、とあり、その節目の年はこの「紀元節」を国民が思い出し、大いに祝わなければならないのではないでしょうか。

 さて、神武天皇の橿原神宮での御即位をさらに遡り、天皇とその御先祖様について見て、日本にとってどういう意義があるのかを見て参りましょう。
 

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