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kishuの短編小説【夢幻の夏】

 
 雨が降っている。しとしと降り続ける鬱陶しい雨である。
 一級建築士の資格を持つ島本啓一は徹夜明けの疲れた身体をソファーに沈め、冷たくなったコーヒーを飲みながら、湿った窓の景色を眺めていた。
 視線の先には、啓一の好きな石造建築が昭和初期という時代を背負ったまま悠々と健在ぶりを誇っている。建築家になる夢を持っていた彼だが、建物を鑑賞している訳ではない。眼と頭は別々な働きをしていた。
 リビングテーブルの上には白い封筒が置いてある。三年前、失踪した妻からの手紙である。
(……私はあなたについて行くことは出来ません。建築家になる夢を捨てて下さいとは言いません。私はあなたの夢の犠牲者にはなりたくないのです。娘を置いて行くことは、とても心苦しいですが、新しい生活を始めるためにはやむを得ません。どうぞご理解下さい。 美香)
 何度も読み返した屈辱の文面が啓一の頭の中を駆け巡った。
 啓一は封筒を手に取ってアトリエにしている隣の部屋に行き、同封されている離婚届の用紙を取り出した。
 テーブルの上に置いてあるデジタル時計は7月1日6時35分と表示している。啓一は美香が失踪した三年前と同じ月日を待って離婚届に署名し捺印したのだった。しかし、心の中は外の天気と同様晴れてはいない。全てが一方的で理不尽なのに、一人親家庭の手当や税の減免を受けるために離婚届を提出せざるを得ない悔しさが、怒りと空しさの混じった靄(もや)となって、心の中に漂った。
 美香が失踪した日は、夏晴れの清々しい朝だった。啓一は、遠くに浮かぶ白い雲と透き通った青空に心躍る思いだった。
 美香は一段と美しく見えた。深紅のワンピースに身を包み、鏡の前に立つ姿は、外国映画に出て来る主演女優を思わせた。しかし、彼女は啓一と目が合わないようにしていたのだ。早朝からテキパキと家事をこなす主婦の姿に啓一は疑問を挟む余地など、そのときはなかった。だが、美香は新しい男との生活を夢見ながら最後の義務を果たしていたに違いないのだ。そう思うと頭から足の先まで屈辱感が走った。
 その日も徹夜明けだった。発注元の設計事務所に急かされていた図面もようやく描き終え、電子メールで送信したばかりだった。緊張していた心身も、久しぶりに心のゆとりを取り戻し、二歳になる娘を抱いて啓一は一時の平穏な朝を味わっていた。
 テレビは幼児番組を放送していた。娘の真希が毎朝見ていた番組である。
「じゃあ、真希ちゃんママ行くからね」
 総合病院の臨時職員として勤務する美香が娘に声を掛けた。
 いつもなら、テレビに目を向けたまま、
「ママ、行ってらっしゃい」と機嫌の良い舌足らずの声を返すのだが、その日に限って啓一の膝から飛び出し、美香の足にしがみついたのだ。
「マキ、マキも行く!」
 真希は母の顔を見上げ、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「あらあら、どうしたの? ママ、お仕事に行くのよ。いつものことでしょう。真希ちゃんはパパと保育園に行くんでしょう?」
 美香は、優しい声で娘に言ったが、真希は聞き入れようとはしなかった。
 美香は、優しい声とは裏腹に、力を込めて娘の手をほどき、うしろ向きにして夫の膝を目掛けて小さな背中を押した。娘はよろけながら啓一の膝に凭れ込みうずくまった。
 啓一は慌てて娘を抱き上げた。娘は声より先に大きな涙を流し、彼の胸ですすり泣いた。耳の奥には真希の泣く声がいまだに残っている。それは、二歳の子供とは思えぬ悲しい泣き声だった。思い返せば、あのとき幼い娘は本能的に母の失踪を察知したに違いない。いや、失踪というより、捨てられる自分を感じたのだろう。
 幼児番組を放送していたときの真希は落ち着きがなく、啓一の膝の上でもぞもぞと動いていた。それは自分の意志ではどうにもならない、もどかしい動きだった。だが、真希の本能はギリギリの所で母の足にしがみつくという行動を取った。しかし、母は既に母ではなかった。そこには、母性本能をどこかに置き忘れた一人の女が立っているだけだった。……
 
 アトリエと引き戸四枚で仕切られた寝室には、母に捨てられた娘が寝ている。三年の月日は子育てと仕事に追われる日々だった。だが、報酬の低い下請けといえども自宅で作業出来たことは啓一にとっては唯一の救いといえた。
 五歳になった真希が起きて来た。彼女はソファーに飛び乗るようにして啓一の隣に座った。
「パパ、また徹夜したの?」
 真希がリモコンでテレビのスイッチを入れながら聞いた。
「ああ。さて、ご飯作るか」
 テレビのアニメ番組を見ている真希を橫目に啓一は台所に立った。
 真希は十五分間のアニメ番組が終わると寝室に戻って着替えをした。そして、洗面室で顔を洗ってから食卓に着いた。
 食卓には千切りキャベツが二つの小さなガラスの器に盛り付けられ、ロールパンとハムエッグが白い皿に載っていた。
 真希がロールパンにジャムを塗ると、啓一は小さなコップに牛乳を注ぎ、白い皿の横に置いた。
「きょう、翔太君、来るかなあ?」
 真希がロールパンを一口食べてから言った。
「翔太君って?」
「お父さんのいない子よ。パパ、知らないの?」
「うん。知らないなあ。翔太君がどうしたの?」
「熱が出たんだって。ハナコ先生が言ってた。私、心配なんだあ」
 園児名簿には翔太という名の子は記されていなかった。啓一は途中入園して来た子供に違いないと思った。
「多分、風邪ひいたんだよ。夏風邪かな?」
「夏風邪ってなあに?」
 啓一は、五歳の子供にどう説明して良いのか分からなく、
「夏にひく風邪だよ」と文字通り答えた。
「ふうん……」
 真希は小首を傾げただけでそれ以上聞くことはなかった。
 娘との会話の難しさを感じた啓一だった。語(ご)彙(い)や文法などの理解が十分でない子供と話すときは、簡単な言葉を使わないと会話が続かない。だが、その簡単な言葉が見つからないのだ。
 朝食が終わると啓一は娘のショルダーバッグの中身を点検し、アイロンのかかったハンカチと取り替えた。その間、真希はトイレに行ってから歯を磨き、再び顔を洗って居間に戻りソファーに腰掛けていた。
 テレビはニュースを放送していた。啓一はニュースを橫目に真希の髪に櫛を入れ、手足の爪や服装を点検してからテレビを消した。
「さあ、行こうか」
 ショルダーバッグを肩に掛けた真希に啓一は声を掛けた。
「うん」
 真希は、返事よりも先にソファーから降りて玄関に向かった。ピンクの小さな靴と、くたびれた革靴が並んでいた。真希は靴を履くと雨上がりの湿った外に飛び出し、軽自動車の横に立って父を待った。
 玄関ドアに鍵を掛けた啓一が軽自動車の後方ドアを開けると、真希は素早く車に乗り込んだ。
 雲の切れ間から太陽の光が漏れていた。啓一が運転する軽自動車は真希を乗せて保育園へと向かった。
 保育園の駐車場に入ると、園舎の出入口に向かう数組の大人と子供のうしろ姿が見えた。
「あっ、翔太君だ!」
 車のエンジンが止まったとき真希が叫んだ。啓一が車から降りて後部座席のドアを開けると、娘は急ぐようにして車から降りて出入口に向かって走って行った。
 子供の足は意外と速い。啓一は急ぎ足で真希の背中を追った。だが、追いついたときは出入口の前だった。
 出入口には三人の保育士が待機して園児を迎え入れていた。
「翔太君!」
 真希が男の子に声を掛けた。園児の胸には『こたに しょうた』と書かれた名札が付いていた。
 真希を保育園に預けた啓一は、家に戻るとソファーの上に横になりブランケットを掛けて仮眠を取った。だが、目が覚めたのは午後四時過ぎだった。
 啓一は急いで離婚届の用紙が入った角封筒を持って市役所に向かった。 
 市民課には数人の市民が訪れていた。受付係は書類を受け取ると事務的に内容を確認したあと、離婚届け出の受理証明書を啓一に差し出し、
「届け出は完了です。何か質問はありますか?」と聞いた。
「いえ……」
 美香と話し合いも出来ずに離婚届が受理されたことで、啓一は一種の憤りを覚えた。しかし、心の中に漂う怒りと空しさの混じった靄(もや)は徐々に薄れて行った。
 市役所を出ると、太陽が雲の間から顔を出していた。啓一は軽自動車の運転席に座ると、エンジンを始動させずに雲が動く空をしばらく眺めていた。
 何分ほど眺めていただろうか? ふと、我に返った啓一は車のエンジンを始動させると、ショッピングモールへと向かい、食料品や日用品を買ってから保育園に向かった。
 出入口では、園児達を迎えに来た保護者や代理人である祖父母達が子供が来るのを待っていた。
 保育士が啓一の顔を見ると、
「真希ちゃん!」と開け放された遊戯室に向かって叫んだ。すると、真希は小さなショルダーバッグを持って啓一を目掛けて飛んで来た。
 二人が出入口を出ると、園庭では保護者達に見守られた数人の園児達が遊具で遊んでいた。
「あっ、翔太君のお母さんだ!」
 啓一の前を歩いていた真希がメガネを掛けた女性を見上げて叫んだ。啓一の目と彼女の目が合った。二人はすれ違いざまに会釈を交わし遠ざかって行った。
 車に乗ると真希は歩道を歩く園児達を見ながら、
「みんな、お母さんがいるからいいなあ」と独り言のように言った。
 啓一は言葉を失い胸が締め付けられる思いがした。しかし、無理もないと思った。家事や育児は何とか出来ても母親のような世話や愛情を注ぐことは男親には不可能だと思ったからだ。
 自宅に戻ると啓一は真希のショルダーバッグを開けて連絡帳を取り出した。すると、四つ折りになった二枚のプリントがパラリとテーブルの上に落ちた。
 啓一は何だろうと思いながら一枚目のプリントを開くと、見出しに『親子遠足のご案内』と印字されていた。
(もう遠足の時期になったか……)
 親子遠足は弁当持参の年中と年長クラスの行事である。昨年はプラスチックの容器にコンビニで買った巻き寿司と惣菜を詰めただけで手作りのものは何もなかった。だが、今年は何か作って見ようと思いながら、もう一枚のプリントを開いた。新しい園児名簿だった。翔太の保護者欄には『小谷晴奈』と記されていた。だが、個人情報保護法の関係からか、住所や電話番号は記載されていなかった。
 
 親子遠足の貸し切りバスが森林公園に着いた。バスを降りると自然の香りと鳥のさえずりが園児と保護者達を包んだ。
 青空の下、子供達は林の中に点在する遊具を見て歓声を上げていた。真希と翔太はいつも一緒だった。二人は滑り台は勿論のことジャングルジムやスプリング遊具で楽しそうに遊んでいた。
 子供が楽しそうに遊んでいる姿は、見ている大人も楽しくなる。啓一は子供達が危険な行動を取らないように見張りながらも、気持ちは彼らと共に遊んでいた。
 翔太が1メートル幅のロープネットを昇っていた。真希は既に昇り終えゴールの柵の中で立っている。
「助けてー!」
 突然、翔太が叫んだ。特に危険な様子はない。片足をロープから踏み外し恐怖心に捕らわれたのだ。
 啓一は、直ぐに飛んで行って翔太を抱え上げた。すると真希が、
「翔太君、大丈夫?」と柵の中から心配そうに見下ろしていた。
「大丈夫だよ。ちょっとビックリしただけさ」
 啓一が真希に向かってそう言いながら、翔太を地上に降ろすと、
「すみません」と翔太の母が駆け寄って来た。
「足を踏み外して驚いたのでしょう。心配するほどのことではありませんよ」
 啓一が晴奈にそう話していると、翔太は再びロープネットを昇り始めた。
「あっ!」
 晴奈が翔太を止めに行こうとした。すると啓一が、
「止めない! 止めないで!」と彼女を制した。
 翔太は慎重に足を運び、遂にはゴールの柵の中に真希と共に立った。
 晴奈はホッとした様子で、
「うちの子に再挑戦する勇気があったなんて思いも寄りませんでしたわ。男の子ってそういう所があるのですね」と胸を撫で下ろしていた。
「子供は好奇心の塊ですからね。翔太君は昇りたい気持ちが強く働いたのでしょう」
「そのようですね。うちは母一人子一人の家庭ですのでどうしても安全を優先してしまいます。弱々しい男の子にならなければ良いのですが……」
「うちは逆です。おてんば娘になったのは父子家庭のせいだと思っていますよ」
 啓一は苦笑いを浮かべながら言った。
「あら、他にお子さんはおられないのですか?」
「はい。妻とは娘が二歳のときに離婚しましたので……」
「すみません。余計なことをお聞きしましたわ」
「いいんです。隠すことではありませんので」
 二人が立ち話をしていると、真希と翔太は階段や滑り台、更には大小のトンネルが組み合わされた複合遊具に向かっていた。
 
 日曜日の朝、啓一は麦わら帽子を被せた真希を連れて散歩に出掛けた。
 平日は軽自動車で通り過ぎる街並みは雑多な表情を見せている。立派な門構えのある家もあれば、今にも朽ちそうな家もある。電柱が大手をふって立ち並び、商店の看板が自己主張を繰り広げていた。
 児童公園が見えて来た。親子遠足で行った森林公園とは違い、申し訳程度に遊具やベンチが点在し、隣接した広場では小学生が数人集まってサッカーボールを蹴っていた。
 児童公園は自宅と保育園の中間に位置し、小谷親子が住むアパートも道路を挟んで建っている。啓一と真希は木陰のベンチに腰掛け小学生達が蹴ったボールを目で追っていた。
「真希ちゃーん!」
 翔太の声が横から聞こえた。二人が声の方向に目を向けると麦わら帽子を被った小谷親子が歩いて来た。
「おはようございます。おはよう、真希ちゃん」
 親子遠足のあと、啓一と晴奈はSNSの友達登録したこともあってか、行動を共にすることが多くなっていた。
 動物園にも行った。ショッピングモールにも行った。ファミリーレストランで食事もした。……
「きょうは、河川敷を歩いて見ましょう。森林公園のような遊具はありませんが、ここよりも揃っていますし、彫刻も点在しています」
 啓一が晴奈に提案した。すると、二人の会話を聞いていた真希が、
「コンビニにも行くんでしょう?」と聞いた。
「勿論さ。飲み物とおやつを買って行こう」
「わーい!」
 四人で歩いている姿は、はたから見たら微笑ましい家族に見えたに違いない。コンビニから出て来た年配の女性が、
「あら、お揃いの麦わら帽子。可愛いわね。年子かしら?」と連れの男に聞いた。
「私達、夫婦に見えるのかしら?」
 晴奈が聞いた。
「さあ……」
 啓一は曖昧な返事をしたが、顔はほころんでいた。
 希望に満ちた日が続いた。啓一は新しい四人家族が出来ることを夢見て仕事に励み、真希は翔太と血の繋がった姉弟と思われるほど仲が良く、互いに行き来して絵を描いたりゲームを楽しんだりしていた。そんな日々が続く中、晴奈から啓一にメールが入った。
(私、再婚することになり、引っ越し致しました。短い間でしたが、島本さんには大変お世話になりました。心より御礼申し上げます。お体に気を付けてお仕事に励み、目的を達成されますことをお祈り致します)
「嘘!」
 啓一は思わず叫んだ。
 家族のように過ごした日々が次から次へと啓一の頭の中を駆け巡った。
 啓一は家を飛び出し晴奈と翔太が住んでいたアパートの前に立った。
 青天の霹靂だった。小谷親子の部屋はカーテンが外され、窓には不動産会社の入居者募集のポスターが貼られていた。
                       了

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kishu
ありがとうございます。 『世のため・人のため』をモットーに あらゆることに挑戦して行きたいと思っております。