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ドールズ 《7》

 自宅で眠りについたレイチェルが次に目を開けると、遠くからやってくる人物を、目を見開いて確認しようとするノーマの横顔が目に入った。

 ああ、またこの夢だ。

 レイチェルは苦い気持ちになる。この夢は嫌だ。すぐに目を覚ました方が良い。

 気持ちとは裏腹に、ノーマは血相を変えて近くにいたレイチェルとキワを呼び寄せ、敷物を剥がすと食料を備蓄するための床下倉庫に押し込んだ。レイチェルはノーマのただならぬ様子に体がこわばり、うまく動かない。

「頼んだよ。キワを、頼んだよ」

「なに……なんで」

 恐ろしさで舌がうまく動かない。私が言いたいのはこんな言葉じゃない。ノーマ、ノーマこれが最後なのに。私はもっと違う言葉を。

 キワは初めて入る倉庫の下でレイチェルの隣に立ち、キョトンとしている。

 手を伸ばし続けるレイチェルを無理やり倉庫の底に突きとばし、ノーマは扉を閉めた。唐突に真っ暗になる。キワはレイチェルの服を掴んだ。

「かくれんぼ?」

 そう聞くキワの声は不安をにじませている。

「ちが」

 う、を言い終わるか終わらないかの所で、男が怒鳴る声がした。負けずに言い返すノーマの声も。キワは、ママ? と言いながら梯子を上がろうとする。レイチェルは抱き止めた。

「静かに」

 声を立ててはいけない。男に見つかる。キワにできるだけ優しい声をかける。

「大丈夫、怖い人を、ママが追い払ってくれるから。見つからないように、じっとして」

 キワは、なおもママ、と不安そうに小声で呼び続ける。

 大丈夫、大丈夫じゃないけど、私達はあのとき死ななかった。レイチェルは固く目を閉じる。耳を塞ぎたかったが、キワを抱きしめる腕を離すわけにはいかなかった。ママ、ママ、と、泣きそうなキワの声が耳元に滲む。

 天井の言い争う声は次第に過激さを増していく。何かの隠し場所を問い質す男の声と、全く覚えがないと突っぱねるノーマ。次第に男はイライラを募らせ、モニカがそう言ったんだよ! と激昂した。

 ノーマは虚をつかれたように黙り、それはあの子の可愛い嘘だよ、と力なく返す。

 どかん、と何かが天井を揺るがし、次いで銃声が聞こえた。

 大きな音にキワは身をすくませ、レイチェルは固くつむった目を開きたくないと思った。このまま、もう二度と世界が見えなくなってしまえばいいのに。

 あの時には、まだ上で何が起きたかは分からなかった。ただ怯えて、キワと抱き合って上の喧噪が収まるまで待っていた。

 今の私はもう知っている。このあと何を見るのか、そのあとにどんな絶望が待っているのか。繰り返し夢で見た、あの地獄を。

 レイチェルの首筋や頭に、生暖かい汁がポタポタと落ちてきた。スープの匂い。あの大きな音は、仕込んで一度冷やしていたスープの鍋が転がった音だった。大好きな、ノーマのスープの匂い。

 ……その匂いにかすかに混じった、鉄錆のような臭い。

「スープ、こぼれちゃったの?」

 キワが囁くように言った。

「うん、でも、大丈夫」

 レイチェルは震える唇でなんとか言葉を紡ぐ。大丈夫、大丈夫だよ。それはまるで自分に言い聞かせる呪文のようだった。

 この臭いは、大好きなスープの臭い。大好きな、ノーマの臭い。

 上の喧騒がひときわ大きくなり、何度かの銃声のあと、慌ただしげな男たちの声が響く。張り詰めた空気が少し和らぐと、今度は緊迫した調子の男女の声がする。

「ノーマが……」

「……小さな子がいたという証言も……」

 レイチェルは、キワを固く抱きしめていた腕を解くと、キワを置いて梯子を上った。暗い天井を拳で叩く。小さな拳の作り出す音は、階上の音に紛れて聞こえていないようだった。レイチェルは口を開いた。

「開けてください! 中にいるの! 出してください!」

 できる限りの大声を出すが、喉は震えてうまく大きな声を出せなかった。

「だしてください!」

 後ろのキワも真似をする。おい、今の聞こえたか、どこだ、という声が聞こえる。サーチしろ、どこだ、床下か? 下みたいだ、どこから入るんだ? とりあえずこれをどけろ、お、引き上げ戸があるぞ。

 ギッ……

 暗い床下に、かなり強い照明の光が差し込む。四角く切り取られた白い窓に、大人が数人立っているのが見えた。大人たちの顔は見えない。

 レイチェルは梯子から降りると、なにも持っていないことを示すように両手を広げて、ここから出たいの、と訴える。大人がためらっているのがわかった。横から顔を出した女性が悲鳴に近い声を上げる。

「血だらけじゃないの! 怪我はないの? 名前は?」

 レイチェルは女性の言葉に首を横に振る。キワが服の裾をつかんでいるのがわかって、左手を伸ばして探った。キワの右手を掴む。キワを見ると、キワも頭から赤く濡れているのが見て取れた。おそらく自分はもっとだろう。スープと混じったノーマの血。頭からかぶった状態で、ずぶ濡れだ。服も、ノーマにもらったストールも、全部が薄赤に染まっている。

 ここから上がれば、ノーマが倒れているのが見えるだろう。キワは、泣くだろう。私はどうしようもなく立ち尽くし、大人にあれこれ聞かれるだろう。

 キワ、泣かないで。私がずっと、そばにいるから。私とずっと、一緒だから。

 レイチェルはそう思いながら、ぎゅっとキワの手を握り、目を伏せた。胸が、どきどきする。

 はっ、と息を吸い込んで、レイチェルは目が覚めた。額にびっしりと汗をかいている。窓の方に目を向けるとブラインドの隙間からほんのりとした光が漏れ出ていて、夜明けだと分かった。吸い込んだまま止めていた息を、意識がはっきりしてようやく吐き出す。目を何度かしばたいて、上半身を起こした。はあっ、と改めて息を大きく吐くと、両手で顔を覆った。うるさいほどの動悸が胸を打つ。思い出したくないのに、忘れられない。梯子を上がった後の光景と、悲痛な幼いキワの泣き声。

 レイチェルは大きく深呼吸すると、ベッドからそっと滑り降りた。足の裏は湿っていて、床に張り付く感触が気持ち悪かった。ブラインドを少し開けて外を見ると、水平線が薄桃色に染まっている。間もなく日が昇るのだろう。よく晴れていて、暑くなりそうだった。

 シャワーを浴びるかどうか迷って、結局キワの寝台に行く。いつものように、キワは膜に包まれて寝ている。

 レイチェルはいつも通りに座って、キワの数値をチェックしようとした。

 モニタに映る数字を見ていても、目が滑って頭に入ってこない。なんとか全数値をさらうと、窓の外に目を移した。太陽が顔を出し、コーラルシティを明るく照らし始めている。窓の隣にそびえる白磁のような外壁は白く輝くようだった。

 ぶうん、と微かな音の後に、水がこぼれるような音が響いた。寝台に目を戻すと、膜がほどけ、水位が下がっている。キワが目を開き、濡れた身を起こしてレイチェルを見た。

「おはよう。昨日は遅かったの?」

 レイチェルは緩く微笑むと首を振った。

「そうでもなかった。昨日はドナの誕生日だったの。デリックは軽く飲んだらすぐ帰ったし、私もそのまままっすぐ帰ってきたから」

 そう、と言いながら、キワは寝台脇のローブを手に取った。

「じゃあ起きて待ってれば良かった」

 だるさを隠すような明るさで言いながら、寝台から降りるキワにレイチェルが手を貸す。顔色はあまりよくない。レイチェルはタオルをとって渡した。

「今日は休み?」

 キワが髪を拭きながらレイチェルを見上げる。黒の髪は短く、乾かしやすい長さに切りそろえられていた。濡れ羽のような漆黒の作り物の髪。昔のキワの髪は、もう少しだけ茶色かった気がする。

「そう。もう公休が溜まりすぎてて、いい加減休まないと怒られちゃう」

 平静な顔でキワに答える。

「最近、多かったよね。夜の捜査」

 眠そうな表情のままキワはぼんやりと話した。

「今日は何するの」

「サム博士のところに。……今度の捜査で使うドールのことでちょっと」

 キワの言葉にレイチェルが答えると、呆れた顔でキワは振り返り、おかしそうに笑う。

「それ、仕事じゃないの」

 だって、署に行ってるとそんなとこに行く暇がないのよ、とレイチェルは肩をすくめた。

「こないだ会った時にレイチェルのこと聞かれたの。きっと行ったら喜ぶよ。博士」

 そう言うと、胸にためていた息をついた。

「だるいの?」

 レイチェルが、軽く聞く。

「うん。昨日、早く寝たんだけど。なんだか少し疲れが取れにくいみたい」

 努めて元気そうに言うキワに、レイチェルは相づちを打つと、

「そう、一応、数値的にはおかしくないんだけど……」

 と言葉を探した。

「博士には、言わないでね」

 キワは振り返ると、目をきらりとさせてレイチェルを見る。

 レイチェルは見透かされたことに少なからず動揺して言葉に詰まった。手を上げると曖昧に頷く。

「……ごめん、聞かないでいられる自信がない」

 迷いのあと、正直にレイチェルは言った。

「寿命って、あると思うのよ。私」

 キワはキッチンに立ちながら言った。レイチェルは言葉が見つからずに黙り込む。

「私、ほんの少しだけ寿命より長くレイチェルの側にいられて、それはとても嬉しいの。でも、私の命はあのときに本当は終わっていたんだと思う。今の私は、亡霊と同じ」

「そんなこと、言わないで」

「そうなのよレイチェル」

「やめて」

 知らず声が大きくなって、レイチェルはハッとした。キワは悲しそうな目で、レイチェルを見つめている。

「ごめん、でも、私はキワに生きていて欲しいから」

 そう言葉を継ぐレイチェルに、キワはかすかに首をかしげる。

「……レイチェルが望むのなら、私はまだ死なないと思う」

 はかなげなその作り物の顔は、笑ったように見えた。


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