ドールズ 《3》
「レイチェル、どうしたの」
ふっ、と我に返った。ソファに腰掛けて考え込んでいたレイチェルの目の前に立つキワは、心配そうな様子を滲ませていた。黒いショートカットに小柄な体躯。細顔に黒の瞳。少女のような見かけの、可愛い妹。声の調子は心配そうな様子なのに、表情はそんなに変わらない。昔はくるくると表情が変わって、子リスみたいだったのに。レイチェルは気持ちが軋むのを感じたが、表情は変えずにキワを見つめる。キワは隣に座ってレイチェルを覗き込む。レイチェルは手を伸ばし、手の甲でキワの頬を撫でた。
「なんでもない。ちょっと、昔のことを思い出してたの」
そういうと微笑んだ。キワもぎこちなく微笑む。
「……そう」
キワは深く聞かない。あのテロ事件に遭ってから、昔のことはひどく曖昧になってしまったようで、あまり昔の話には反応しない。レイチェルは少しためらってから聞いた。
「ノーマのこと、覚えてる?」
「ママのこと? 少しだけ」
少し声のトーンが明るくなった。共通の過去の話題があることが嬉しそうだった。
「初めてノーマに会った時のことを考えてたの」
「そうか、レイチェルはもう6歳だったし覚えてるよね。私は、少ししか覚えてない。抱っこしてもらったこととかだけ」
そう言うと、記憶を探るように視線を上げ、しばらく考えてから諦めたようにため息をついた。
「本当はもっと覚えてたと思うんだけど、うまく思い出せない」
せっかく共通の話題をみつけたのに、うまく記憶が辿れなくてがっかりした様子を見せている。瞳と声で分かった。
「いいの、私もそんなに覚えてないの。初めての時のことだけ、なんだかよく思い出すの。優しくしてもらったから」
レイチェルはキワに手を伸ばした。頭を抱えてキワの額にキスをする。キワはされるがままにして、レイチェルの背に手をかけた。レイチェルは唇を離してからも、しばらく頬をキワの額に寄せていたが、軽く息をつき、ぽんぽん、とキワの頭を撫でると、何でもない事だったように、話題を変えた。
「今日のごはん、何?」
キワはレイチェルの言葉に、あ、と言って目を泳がせる。
「えっと、ごめん、今日はちょっと疲れてて、あり合わせのものばっかりなんだけど、スモークチキンと、チーズと、あとはサラダ。パンとパスタはどっちがいい?」
レイチェルはいたずらっぽく微笑んだ。
「パンかな。キワがご飯の用意の仕方を忘れちゃわなくて良かったよ。私だけしか食べないとなると、もう多分ずっとチューブ吸ってる」
キワは、ダメだよ、と笑って言いながらレイチェルの隣から立った。
「私がいつまでもそばに居られるわけじゃないんだから」
そう言うと、レイチェルの方を見ないままキッチンに向かう。レイチェルの胸に、つきん、とした痛みが走った。
「明日、検査だっけ」
キッチンに向かってわざと大きな声をかける。キワはひょこ、と壁から顔をこちらに見せて答えた。
「そうだよ。仕事は午後から行く」
「ん。サム博士によろしくね」
レイチェルは答えながら立ち上がると、伸びをした。さて、と言って腰に手を当て息をつくと、廊下に向かって歩き出す。
「ごはんの前にシャワー浴びてきて良いかな」
キッチンを通り過ぎながら声をかけると、キワは後ろを見ずに
「いいよ」
と答えた。レイチェルはキワの背中を見て、そのままキワがかき消えてしまうような気がした。頭を振って再度見る。キワはちゃんといる。ため息が聞こえないように足早に洗面所に向かった。
洗面所に入ると、壁のパネルでシャワーの温度を調整してお湯を出し、レイチェルは服を脱いだ。右肩に大きな傷がある。引き攣れた皮膚の跡は背中まで達していて、レイチェルの筋肉質な体にかぎ裂きのような印を刻んでいた。レイチェルは洗面所の大きな鏡でちらとその傷を見、ドアを開けてバスルームに入った。シャワーの下に身を寄せる。髪を濡らし、肩を濡らし、湯はレイチェルの体を覆っていく。湯気がバスルームに充満し、レイチェルの鼻腔にこびりついたアンモニアと埃の臭いを洗い流してくれる気がした。
忘れてしまったというのは嘘だ。本当は、それからの日々も、あの夏の日も、全然忘れてなんかいない。忘れられるわけがない。
頭の上から温かな液体が滴り落ちてくるのを感じる。あの日のように、頭のてっぺんから顎に伝って落ちる。
あの日は、目を閉じて、落ちてくる液体が何かは考えないようにしていた。
どうしてあの日、私とキワは生き残ってしまったんだろう。もし神様がいるとしたら、私達にあの日を生きのびさせ、あの地獄を見せ、何を伝えたいと考えたのだろう。
いや、キワはもう、あの日もあの光景も忘れてしまったのだ。
覚えているのは、私一人だ。
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