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原石と虹

4月アンケート、少女二人 2016年版です。

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「ねえ、これからどうするの?」
 疲れた顔で晶が聞いてきた。
「……帰りたいなら帰れば」
 私はつい、そんな悪態をついてしまう。
「穂花が帰るまで帰んないけどさ」
 そう言う晶を振り返って、私は小さくため息をついた。
 晶はそばにあった塀にもたれていた。朝まで降っていた雨は上がって、気温はすでに30度を越えているが、グレーのブロック塀はまだ所々雨のあとが残ってくろぐろとしている。全く気にしないでもたれている晶の制服のスカートが汚れそうで、そんなところにもたれるのやめなよ、とつい言いそうになる。言っても絶対、頓着しないけど。小さい頃からいっつもそうだ、と思ってやたらとイライラした。だからついてこなくて良いって言ったのに。
「ねえコンビニ寄ろうよ。喉渇いたし」
 にらみつける私の視線には全く気づかないようで、晶は曇天を見上げた。
「なんでついてきたの」
 喧嘩になってもいいや、と思ってできるかぎり剣呑な声を出してみた。
「なんでって、穂花が家出するって言うからだよ」
 晶はきょとんとした顔で答える。だから、なんで私が家出するのにあんたがついてくるのよ、って喉まで出かかって、やめた。
「行こうよコンビニ。この先にあるみたいだからからさ」
 そう言って晶が先を指さした。私はふくれっ面のまま、晶の指さす方に歩き始める。
「ねえ、パピコ半分こしない?」
 全然こっちの気持ちなんて分かってない晶に、しない、とぶっきらぼうに答えた。晶は、ちぇー、と言いながら制服のポケットの中で小銭をちゃりちゃり鳴らしながら歩く。
 雨上がりのアスファルトから湿気と熱気が立ちのぼってきてうだるように暑く、蝉がジジッと鳴いて飛んで行くのすら鬱陶しく感じる。
 晶とようやくたどり着いたコンビニは、なんと電気工事のため臨時休業になっていた。
「えええー!」
 晶が扉をガシガシと引っ張った。扉は固く閉ざされていてビクともせず、中は暗くて誰もいないようだった。
「もー。ついてなーい」
 晶がコンビニの前に座り込んだ。首筋を汗が伝う。さすがに私も喉が渇いた。
「もう帰っていいよ」
 なんだかどっと疲れてそう言うと、晶はちらっと私を見上げた。
「だって穂花、帰らないんでしょう」
「そもそも晶は家出してないじゃん。着いてきてって頼んでもないし。部活サボって怒られるんじゃないの」
 そう言うと、
「あー、明日怒られるなー」
 と言いながら晶はうなだれた。私はため息をつく。晶は家出なのに明日帰るつもりでいる。意味がわからない。
 晶はスマートフォンを取り出した。
「もうこの辺はコンビニないねー。駅まで戻る?」
 屈託なく提案する晶に、私は
「戻らない」
 とにべもなく答える。
 少しずつ厚みを増してきた雲は、コンビニの上に被さるように空を覆っていた。私の胸につかえたどろどろが、蒸し暑い息苦しさと相まって、たまらない気分になる。爆発しそうなイライラ。
 目の前の晶は、うーん、この辺にはもうなんにもないなー、ファミレスもない、とか言いながらスマートフォンをいじっている。
「ねえ、もう、帰ってよ」
 そう、イライラを持て余して晶に強く言った時、ぼつ、と音がして、私と晶との間の地面に黒い染みができた。
 ぼつぼつ、ぼつ、と大きな音を立てながら、大きな雨粒が続けざまに落ちてくる。
「わっ、雨!」
 晶はそう言うと、私の手を引いてコンビニの軒下に引き込んだ。私と晶が身を縮めながら様子をうかがっていると、あっという間にあたりは土砂降り。黒く垂れ込めた雲は空を覆い尽くし、そこからバケツをひっくり返したような猛雨になった。
「あーあ。しばらく動けないね」
 穂花は私に向かって言うと、笑った。
「そうだね」
 ため息まじりに私が返す。先ほどまでのイライラは、激しい音を立てながら降る雨に勢いをそがれてしまったようで、もうどうしても帰って欲しいとは思わなくなっていた。
 アスファルトに叩きつけられた雨は、熱せられた地面も空気も、私の心も少しずつ冷やしていく。遠くからごろごろと雷の音が聞こえている。
「雷くるかなあ」
 晶がそう言いながら空を見上げたとき、ピシッ! と音がして空に紫の亀裂が走った。
 二人で息を吞んで思わず両手をつかみ合った瞬間、ピシャーン、とも、バシャーン、とも言うような雷の音が響いて身をすくめた。
「落ちた落ちた落ちた」
「近い近い近い」
 続けざまに二人の顔が雷光で照らされる。ひーっ、と言いながら肩を抱き合うと、ドカーンというすさまじい音とともに鼓膜がビリビリとした。しばらくそうやって抱き合って震えていたが、ゆっくり目を開けると、晶がきょとんとした顔で私の後ろを見ている。
「あなたたち、大丈夫?」
 突然聞こえた女性の声に、えっ、と思って振り返ると、五十代くらいの身ぎれいな女性が立っていた。女性の持っている畳んだ傘からはびしゃびしゃと水がしたたり落ち、サンダルの足下は雨でびっしょり濡れていた。
「……大丈夫です」
 とりあえず聞かれたことに返事をする。そう、と言うと女性はコンビニの中を覗き込んだ。
「やあねえ、今日ここお休みなのね。裏に車止めて雨の中走ってきたのに、ついてないわ」
 ガッカリした様子でそう言う。
「そうですね……」
 と同意すると、女性は改めてこちらを見、じろじろと私と晶を見回した。
「あなた達、この辺の子? あんまり見ない制服だけど」
 あ、いえ、と私が口ごもっていると
「家出してきたんです」
 と晶が言った。私は目を閉じて天を仰ぐ。なんで言うかな……。
「家出?」
 女性は一瞬目を丸くしたあと、あっはは、と目尻に皺を寄せて笑った。
「この雨、予報じゃしばらく止まないわよ。良かったらうちで麦茶でも飲んでいかない? すぐ近所なのよ」
 そう言って女性は近くの民家の方を指さした。晶の顔を見ると、晶は乗り気そうで、行こうよ、と声を出さずに言ってくる。私も喉が渇いていて、誘いはとっても魅力的だった。少し警戒心もあったが、いざとなったら走って逃げればいいかな、とか、考えていた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 私が答えると、女性はじゃ、車まで走って走って、と言いながらコンビニの裏手に回った。白いミニバンがいつの間にか止まっていて、私と晶はその車に急いで乗り込む。
 女性の家は、本当に車で数分の民家だった。少し古そうだが、作りはとても立派で、大きな家だった。
「後ろの席の足下に、もう1本傘入ってるでしょう。二人でそれ使って」
 女性はそう言うと車から降りていく。私と晶は二人でそれを差して、玄関に向かった。立派な家だ。女性は玄関を開けながら、ただいま、と声をかける。
「さ、入って入って。ミーコ、お客さんよ~」
 女性の声に応えるように、にゃあん、という声が響く。見ると、白い猫が尻尾をゆらしながら出迎えに出てきた。女性は、玄関の脇に置いてある小さなタオルで足を拭くと、スリッパを履いて廊下の奥にぱたぱたと走って行った。
 私と晶は、
「お邪魔します」
 と家の奥に向かって言いながら靴を脱ぎ、玄関に上がった。
「こっちよー」
 声のする方に行くと、和室があった。低い座卓の上に、小さな花瓶が置いてあり、中には小さな花が生けてある。
「麦茶でいいかしら」
 そう言いながら、女性がお盆の上にガラスのコップと麦茶の入った冷水筒を乗せて戻って来た。ぼんやり突っ立っていた私と晶を見ると
「やだ、座って座って」
 と言いながら座り、グラスと冷水筒を置く。
「なんかお菓子あったかなあ」
 そう言いながら、また立ち上がって台所に行ってしまった。
 晶に、座ろうか、と言うと、晶は既に座布団の上に座り込んでいた。
「はや……」
 と言いながら私も続いて座る。見回すと、ふすま続きの隣の部屋に床の間があり、床の間には何かの書の掛け軸と、大きな翡翠の勾玉が紫の座布団に大事そうにおいてあるのが見えた。
「なんか立派なおうちだね」
 と晶に話しかけると、晶は
「ラッキーだったねー」
 と言いながらあたりを見回している。
「あったあった。これ頂き物なんだけど、食べない?」
 女性が戻って来て座った。お盆の上には、美味しそうなくず餅と、きな粉が入ったお皿が載っている。
「今日ちょうど、お土産でもらったところだったのよ~。結構大きな袋でね? 一人じゃ食べきれないなって思ってたからちょうど良かった」
 そういうと女性は、手早くお皿を配ったり、麦茶を注いでくれたりした。
「いただきます」
 喉が渇いていたので、一杯目はあっという間に飲み干してしまった。女性は笑いながらもう一杯注いでくれる。
「美味しそう。いただきます」
 屈託のないその声に横を見ると、もう晶は大きな口を開けてきな粉まみれのくず餅をまさに食べようとしていた。ふるふるとした柔らかなそれは、黒蜜ときな粉を滴らせながら晶の口に放り込まれる。
「んーっ、美味しい!」
 本当に美味しそうに目を細めた。女性がふふっと笑う。
「二人は何歳なの」
「二人とも十五歳です」
 私は答えながらくず餅に楊枝を伸ばす。取ろうとしたものを、横から晶が取っていった。
「ちょっと、晶!」
 晶の口にはふたつめのくず餅が放り込まれる。
「ん?」
 きょとんとした顔で、晶はこちらを見た。私は晶に向かって唇を尖らせたまま、くず餅を改めて楊枝で取った。形ばかり自分の小皿に置いた後、口に入れると、その柔らかなほの甘いお菓子は口の中でほどけた。美味しい。
「高校生?」
 女性は自らも楊枝を更に伸ばしながら尋ねる。
「いえ、あ、晶は高校生です。私はまだ、中学三年生」
「あら、そうなんだ。あ、これおいしいわね」
 そう言ってくず餅を噛む。
「同じ学年じゃないのに仲良いのね」
「おささなじみって奴だよね」
「おさななじみ」
 晶の言葉を訂正するが、晶は全く気にせず、そうそれ、とか言いながら三つ目のくず餅を楊枝にさしている。
「で、なんで家出?」
 女性が言うと、晶は初めて気がついたような顔でこちらを向いた。
「なんでだっけ?」
 私は口をあんぐりと開けたまま固まった。は、な、し、た、じゃん! という言葉が頭の中で回った。
「ん?」
 晶はこちらの怒りなど全く気づかないような顔で三つ目のくず餅を口に入れた。くっくっくっ、と押し殺したような笑いが聞こえて女性を見ると、可笑しくてたまらない、と言うような顔でこちらを見ていた。
「えーと、穂花ちゃん、と、晶ちゃん? なんで二人でこんな辺鄙なとこまで来たの」
「穂花が行こうって言ったから」
 晶は即答する。へえ、と言いながら女性の視線は私に注がれた。その優しいけれどまっすぐな瞳は、私をたじろがせた。
「えーと、昔、この辺の神社に来たことあって、それで、運だめしというか、そういうのがしたくて」
 言い訳するように言葉を継ぐ。
「神社? ああ、龍神占いがある、あそこかな」
 女性の言葉に、私は黙って頷いた。女性は、ふうん、と言いながら二つ目のくず餅を口に入れる。
「じゃ、雨が上がったら車で送ってってあげるわ」
 ぴんぽーん
 インターフォンの音がした。
「はあい」
「八坂さーん。回覧板」
 女性は、ちょっと待っててね、と言いながら立ち上がって玄関に向かった。
「神社なんてあったっけ」
 晶は四つ目のくず餅に手を伸ばす。食べすぎじゃないかと思いながら私は憮然として答える。
「あったよ。行ったじゃん昔」
「うーん、覚えてないなぁ」
 女性はなかなか戻ってこない。回覧板を持ってきたおばさんと話し込んでいるみたいだった。
「ずっと昔、みんなで行った。私そこでおみくじ引いて」
「ああー、思い出した。私が池に落っこちたとこだ」
 そう。でも晶の記憶は少し違う。
 私は鮮明に覚えている。あれは小学三年生くらいの時だった。晶と、晶の両親と、私と私の両親の六人で、たまたま旅行帰りに立ち寄った。龍神占いという、水に溶ける紙を池に放つおみくじを引いたとき。
 私の放ったおみくじは、何故かずっと溶けずに池の真ん中まで行った。あんまり遠くまで行ってしまったから文字が読めなくて、私は泣きべそをかいていた。泣きながら両親に読めないとぐじぐじ言う私を見ていた晶が、突然、
「とってきてあげる」
 というと池に飛び込んだのだ。
 私はびっくりして泣き止んでしまった。私の両親も晶の両親も仰天して慌てたが、ちゃんと晶は池の真ん中まで行ってとってきてくれた。
 晶の握っていたおみくじには、大吉、と二文字だけ書かれていた。晶に握られてようやく溶ける紙だったのを思い出したかのようにボロボロに崩れて、私の手のひらに乗った。
 もちろん、晶はそのあと晶の両親にしこたま怒られ、私も「あんたが泣くから晶ちゃんが」って両親に怒られた。
「今日は飛び込まないでよ」
「ん?」
 晶の口には五つ目のくず餅が放り込まれた。
「……なんでもない」
 何を願った占いだったのか、晶にはそのあとちゃんと言ったけど、きっと覚えてないだろう。
「ごめんねぇ」
 女性は戻ってきた。手にはバインダーが握られている。
「じゃ、食べたら行こうか。もう雨やんだみたいだし」
「はい」
 そう言いながら皿を見たら、もうくず餅はあと二つしか残っていなかった。やっぱり晶が食べ過ぎだ。女性はまだふたつしか食べていない。私が食べるわけには、と思いながら晶を見たら、また手を伸ばそうとしていた。
「晶、食べ過ぎだよ」
 私が晶の手を押さえると、女性は笑って言った。
「いいのよ、食べちゃって。残っても困るし」
「いいって」
 晶はそう言うとささっと六つ目のくず餅を食べた。
「もう……すみません。いただきます」
 私はようやく二つ目を口にした。

 女性の車にゆられて五分ほどしたところに、その神社はあった。木が生い茂り、古い石造りの鳥居はところどころ苔むしている。雨は上がったとはいえ、空はまだ曇っていて、鈍い光が薄暗く森にさしている。
「こんなところの神社に、良く来たことあるわねえ」
 女性は私達と一緒に下りてきた。女の子二人こんなところに置いていけないわ、と車の中で笑って言っていた。私もやや不安だったので、ついてきてもらえて少しホッとする。
 手水場は思いのほか綺麗で、私と晶はそれぞれ手と口を清めた。
「あら、清め方上手ね」
 女性が感心した様子で言う。
「神社は、昔から良く来てるので」
 私がそう答えながら鞄から出したミニタオルで手を拭いている間に、晶はもう本殿に向かって歩き始めている。
「ちょっと待って、晶」
 追いかけると、綺麗な赤い社殿が見えてきた。塗り直したのか、とても綺麗な社殿だ。
 記憶の中ではもっとすすけた感じの神社だったような気がしたので、少し驚いた。神主さんは近くにはいないようだった。ざわざわと木が風でざわめき、雨上がりだからだろうか、ぱらぱらと木から少し水滴が落ちてきた。
「やだ、濡れるわ」
 女性も後ろからそんなことを言いながら上がってきた。
「お賽銭、ある?」
 晶に声をかけると、晶は上の空で社殿を見上げていた。
「はい」
 財布を取り出そうとしない晶に、私は小銭を数枚渡した。
「あ、ありがと」
 我に返ったような晶に私は少し頷いて、自分もお賽銭を投げた。ちゃりん、からころ、じゃっ、と音がして、お賽銭は底についたようだった。
 二拝、二拍手。
 二拍手めの手を合わせたまま、私は心の中でだけ、ある問いかけをした。このあとのおみくじで、答えが欲しい、そう願う。聞いてくれるかはわからない。でも私はこうしたい。反対されても。
 一礼。
 目を開けて頭を下げてから周りを見ると、もう晶は授与所に向かって歩いて行っていた。
「待って晶」
 慌てて背中を追いかける。女性もお参りを済ませたのか、拝殿を見上げて穏やかな顔をしていたのが目の端にちらと見えた。
 晶は授与所にたどり着くと巫女さんに声をかけていた。追いつくと、
「あっちだって」
 そう言ってまた違う方向に歩き出す。
 私は巫女さんに一礼すると、晶のあとを追った。
「あんまり変わってないね」
 やっと追いついたと思ったら、晶がそう言う。
「そうだっけ。私あんまり道は覚えてな……わっ」
 つまづいて転びそうになる。右腕を晶がつかんだ。
「気をつけて」
 その瞬間、ありありとあの日の事が脳裏に蘇った。

 鬱蒼とした木々。大きく張り出した木の枝が覆い被さるように小道の上にかかり、あの日はとても晴れていたから、木漏れ日が石畳に小さなドットを落としていた。キラキラした宝石みたいにところどころ光る小道を、晶と手をつないで歩いていた。
「晶ちゃんは何をお願いしたの?」
「ひみつーー」
「ねえ、教えてよ」
 晶の手は細く白かったが、とても力強く私の手のひらを握りしめていた。私は晶に引っ張られるようにしながら池までの道を歩く。
「私はねえ、いつまでもこうやってみんなで旅に出たりして、仲良しでいられますようにって」
 私は少し得意げにそう晶に話した。晶はちらっと私を振り返り、
「……私、自分のことしかお願いしなかった」
 と、ばつが悪そうに言った。
「そうなの?」
 私が不思議そうに訪ねると、晶は、うん、と頷く。
「何をお願いしたの」
「……絵がうまくなりますように」
 私は引っ張られるように歩きながら、ぽかんと口を開けた。
「今でも上手じゃん」
「もっと上手になりたいの」
 そうなんだ、と私はぼんやり思った。晶の絵は、私なんかとは比べものにならないくらい上手だった。小学二年生なのに、大人みたいに上手な絵を描く。ただ、いつもお題ではないものを何故か描いてしまうから、あんまり褒められないっていうのはおばさんから聞いた。
 晶は、自分には見えない未来が見えている。
 私は子供心に何となくそれが分かった。私は、いつまでもこのままでいられたら、と、そう願った。けど、晶は今のままではなく、もっと先に、そう思っているんだ。
 なんだかとても晶が遠く感じた。

「ついたよ。やっぱりあんまり変わってない」
 晶はそう言って私の右手を離した。池は静かに水をたたえていて、その水は曇り空を移して薄グレーに見えた。晶はすたすたと池を回ったところにある賽銭箱に向かって行く。鯉かなにかがぱしゃんと水面を叩いた音がした。
 私は、蒸し暑さで汗をかいていた。ぶん、と何かの虫が目の前を横切って、どこかに消える。
「晶」
 声をかけると晶は振り返り、賽銭箱を指さした。
「これだよ。ほら」
 私は頷く。古びた木箱の賽銭箱に、おみくじ代と書かれた金額を入れると、おみくじをそれぞれ引いた。
 晶と私はそれぞれの丸まっていたおみくじを良く開いて、池の側にしゃがむ。白紙に見える紙は水に浮かべると文字が浮かび上がり、そのあと溶けて沈む仕組みだ。私と晶はそっとその紙を水面に乗せた。
 私が開いて乗せた紙は、うっすらと、小吉、という文字を浮かべた。その下に小さく細かい文字が並んでいるのが見えて、慌ててスマートフォンで撮影する。
 隣で同じように浮かべた晶のおみくじは、大吉、という文字がかろうじて見えた。晶はスマートフォンをかかげ、かしゃ、と音を鳴らしていた。
 おみくじは段々文字がぼやけ、ふいにぼやけると、つい、と溶けて沈んでいった。
 写真をあらためる。
《小吉・まだ時期尚早。力を蓄え、焦らぬ事》
 ひどくがっかりした気持ちで晶に
「ダメだった」
 と告げる。晶は同じように写真を見ていたが、スマートフォンの画面をこちらに黙って見せてきた。
《大吉・己の力を信じて進め。全て願うとおりになる》
 ため息をついた。神様は、晶と私に逆のおみくじを渡したんじゃないだろうか。
「どうだった?」
 唐突に背後から声がした。女性がにこやかな顔で私と晶に微笑みかけている。
「ダメでした。まだ早いって」
 私が口を尖らせて言うと、女性は少し眉を下げて残念そうな顔を作った。
「そう。不満?」
 そう言われ、不満、ってわけじゃないですけど、と私は口ごもる。
「晶ちゃんは?」
「大吉。このまま進めって」
 私がそう答える間も、晶は黙ってじっと灰色の空を写す水面を見ていた。
「穂花、何をお願いしたの」
 私は口を引き結ぶ。言いづらい。
「私が、今すぐ好きな事をはじめてもいいかって」
「好きな事って、服作りのこと?」
 私は頷いた。晶は振り返って、私の頭から足まで、じろっと見た。
「私さ、ずっと思ってたんだけど、穂花って本当に服作るの好きなの」
 頬にかっと血が上るのを感じた。
「好きだよ」
 急な問いかけに少し腹が立つ。ふうん、と言うとまた晶は池を見た。
「私、穂花は普通に勉強して普通に進学するのかと思ってた」
「何それ。私には才能がないって言いたいの」
 反駁する私に、晶は振り返って、そうじゃないよ、イチイチ怒んないでよ、とため息まじりに言う。
「ちがくて。穂花はもっと、なんていうか、広い世界を見てから違う職業についたほうが合ってると思ったの」
「おんなじじゃん! 晶はいいのに、なんで私はダメなの」
 声を荒げる私に、晶はうーん、と言いながら空を仰ぐ。
「穂花さあ、服のことを考えて考えて考えて寝る時間も惜しくて、気がついたら夜が明けてた、みたいな事ってある?」
 呟くように言った。私は胸をどん、と拳で突かれたような衝撃を受ける。
「私は、絵を描き始めるといつもそう。よくお父さんに怒られる。お母さんは自分もそうだったからって言ってかばってくれるけど、でもすごく心配してる。
 だけど、やめられないの。自分でもどうしようもないの。私にはこれしかないんだと思う。良く分からないけど、私は絵を描くことが好きとか嫌いとか、もうそういう感じじゃなくて、これしか見えないの。部活も、一応入ったけど、それはお母さんが「いろんなことやっといた方があとで絵を描くときに役に立つよ」って言ったから入ろうかなって思った。そうじゃなかったら家に籠もってたと思う」
 私は言葉を失って黙り込んだ。そんなことは、一度もない。
「穂花、つい最近じゃない。服作り始めたの。まだ三枚しか作ってない。私も穂花の作る服は上手だと思うよ。でも……」
 晶はそう言って、私を振り返った。
「ねえ、本を書く夢、諦めちゃったの」
 晶の言葉に、私は唇を噛んだ。
「……私には、才能ないもん……」
 うつむいた。
「なんで。私、穂花の書く物語、すごく好きだよ。なんでやめちゃったの」
「書いてたよ。でも、書いても書いても、あとで読み返すと全然つまらないの。そんな面白くない本、お金出して買ってくれる人なんてきっといない。いくら目指しても、絶対私は本を書く人になんてなれない」
 地面に向かって水滴が落ちていった。
 何度も書いた。何度も書いたけど、うまく言いたいことが作品にならない。小説と呼ぶにはおこがましいほどの幼い物語が、何枚も積み重なっていく。
 終わりまで書いてから、最初の矛盾に気づく。途中で書いた伏線が、最後まで投げっぱなしになっている。漢字を間違えてる。文章が変なところがある。ラストシーンが面白くない。読めば読むほど、呆れるほどつまらない作品だった。
「私だってそうだよ」
 晶が言った。私は顔を上げる。
「描き上がった瞬間に破り捨てたくなる。特にお母さんになんて絶対見せたくない。だけどさ、穂花」
 晶が私の手を握った。
「それで諦めて違う道に進んでも、また同じところでつまずいちゃうんだよ。きっと」
 晶の手を握り返す。涙が溢れて止まらなかった。
 自分でも知っていた。逃げてるだけなんだって事は。服作りのために専門学校に行きたい、って言った私に、お母さんも同じ事を言った。図星だったからものすごく腹が立った。腹が立っている自分が余計に情けなくて、家出という形で逃げてきた。
「良くできました」
 気がつくと、女性が私と晶の肩を抱いて真ん中に立っていた。私は途中から女性がいることをすっかり忘れていた。泣き顔を見られる事が急に恥ずかしくなる。顔を女性に向けられなかった。
「才能っていうのはね、求めて得られるものではないの。あなた達の中に既にあるもの。それを磨き上げて宝石にできるか、諦めて石のままにしておくかは、あなた達次第。
 道は険しく、簡単ではないわ。でも、求めていった先にしか見えない景色がある。自分の中の原石を信じなさい。何かを好きで好きでしょうがない、それはそれだけで才能なの。才能はあなた達の中にあるのよ」
 女性の言葉は優しく心に染みた。
「晶。あなたの信念は素晴らしいわ。自らを信じ、素直な心で道を進みなさい。そして穂花」
 小さくはい、と答えた。
「あなたはまだ若い。焦らなくていいの。いろんなものを見て、いろんなものを知って、そうでないと書けない物語がある。豊かな物語は、あなたの中から生まれるの。安直に逃げてはダメ」
 涙がふたたび溢れてきた。
「これからも仲良くするのよ。良い友達はあなた達をきっと助けるでしょう。あなた達に祝福とちょっとしたプレゼントをあげましょう。さ、そろそろ帰りなさい」
 え、と言いながら振り返ろうとしたとき、急に風が地面から舞い上がった。
「わ」
「何これ」
 地面に落ちていた木の葉がものすごい勢いで舞い上がっていく。木の葉は、顔を庇った腕にぱちぱちと音を立てて当たりながら、空へ向かって飛んでいった。
「晶」
「穂花」
 お互いに手をしっかり握ったまま、風を堪えていると、晶が叫んだ。
「穂花、空見て!」
 はっと顔を上げると、湖の水が風に乗り粒になって舞い上がり、空へ細く続いていた。
「龍みたい」
 晶が呆然として呟く。私も口を開けたまま、見たことのない景色を見ていた。
 細くたなびく水の龍を二人で見ていると、あれほど激しかった風が突如ふうっと止んだかと思うと、立ちのぼっていた水はこれまで細くまとめられていた力が急に弛んだかのように空いっぱいに砕け散り、差し込んできた太陽の光に照らされて虹が架かった。
「虹だ……」
「すごい……」
 二人で手をつなぎ合ったまま、空に現れた虹をながめていたら、急に晶のスマートフォンが鳴りだした。晶が慌ててポケットからスマートフォンを取り出す。私もそちらに目をやった一瞬で、虹は消えてしまった。
「あ、お母さんだ」
 そう言って晶が通話を始めるのを見て、そういえば、と辺りを見回すと、女性の姿はどこにもなかった。
「いなくなっちゃった……」
 いなくなるはずがないのに、いなくなって当然だ、という気が何故か強くしていた。
「穂花、お母さんが車で近くまで迎えに来てくれてるって」
「え、なんで」
「ん? ここにいるってメールしたから。帰るの大変だし」
 一瞬ぽかんと口を開けたあと、笑いがこみ上げてきた。
「家出なのになんで言うの」
 おかしくてたまらない。何それ。
「夕飯までに、帰るでしょ」
 晶も笑った。私は笑いながら、晶に頷いた。
「いこ」
 晶が、手を差し出した。その手のひらを見て、小さい頃を思い出す。
 そうか。あの人。
 私は気づいたことを言おうか言うまいか迷いながら、晶の手を握る。
 神社の出口に向かって歩き出して数歩で、晶が立ち止まった。
「ねえ、穂花」
「うん?」
 晶は振り返ると、池の真ん中を指さした。
「私、あそこで穂花のおみくじ拾ったよね」
「うん」
 晶はもう一度池の方を見る。
「足、立ったのかな。あの深さ」
 そう言われて目をやると、池の隣に「最大深度3メートル。立ち入るな危険」の看板が立っていた。くす、と笑うと、晶もつられて笑った。
 笑いながら出てきた私達を、晶のお母さんはびっくりしたように迎え、私は迷惑をかけたことを謝って頭を下げた。そのあと自分の親にも、短く「帰ります」とメールをした。
 夕日が、車の中まで差し込んできていた。晶は眠そうに後部座席に座り込んでいる。
「晶」
「ん」
「家出に付き合ってくれてありがと」
「ん」
 晶はぽんぽん、と私の手を叩いた。
 私達の話を聞いた晶のお母さんは、お礼を是非、と言ってその女性の家を探したが、なぜだかどうしても見つからなかった。私達が「たぶん見つからないと思う」と言うと、そうか、と何かを察したように頷くと、帰路についた。
《才能は、あなた達の中にある》
 頭の中に、女性の声がこだまする。
 それだけで、今はいい。まだまだ、旅は続く。素直にそう思えた。
 帰ったら、ちゃんと両親とも話せる気がした。


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