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ドールズ 《10》

 レイチェルは警察署を出て、駅から共有ポッドに乗ろうと、ターミナル階層の雑踏を歩いていた。オフィス街区やビジネス特区からそれぞれの居住街区に向かうポッドは、居住区別に駅が分かれている。コーラルシティは階層が厳しく分かれており、それぞれの居住区へはIDがないと入ることはできない。レイチェルはA街区へ向かうための駅に行きかけ、ふとE街区への駅へ繋がる通路を見た。

 キワはターミナル階層をぐるりと見渡す。二年前にテロ事件が起こったことは微塵も感じさせない綺麗な設備だった。天井は透明なパネルで覆われ、夏の日差しを半分にカットできるよう、今は半透明になっていた。太陽は既に落ちたようで、その半透明の天井の向こう側には、宵闇の黒い空が広がっている。広く開けたその場所は、街区から街区へと移動したり帰宅する人でごった返していた。

 コーラルシティは大きく6つの街区に分かれており、住んでいる街区によって税率が変わる。要するに、住む場所により人間にランク付けがされているということだ。

 レイチェルが生まれたE街区は最下層。E街区で産まれた人びとはコーラルシティの上部にそびえ立つ珊瑚(コーラル)の部分にはほとんど一生住むことができず、珊瑚を見上げながら生まれ育ち、何らかの事故や事件に巻き込まれて早く死ぬ。いかに生きながらえ、早く子を為して自らの生きた証をつなぐかだけを考えて暮らしている。ただ、貧困に身を蝕まれて悪事に手を染める物も多い。

 特に電子麻薬はここ数百年で大きく飛躍した薬物で、ある特定の電流を脳内に引き起こすナノマシンを体内に注入することで快楽を得られる。そのナノマシンは非常に高価で、なおかつ人が吸収分解できる糖で作られているため、あっという間に効果が切れてしまう。しかし、人類史上最高の愉悦を得られるとあって、二〇〇年前に禁止されてからも使用者はあとを絶たなかった。

 レイチェルの母はその電子麻薬の抗争に巻き込まれて死んだ。レイチェルの実母だけでなく、キワの養母だったノーマも同じ日に死んだ。

 キワの手を固く握り、ノーマの亡骸を見て大泣きするキワに声をかけて保護施設へのバスに乗り込み、自らの母のことは考えないようにしていた。

 母の遺骸と対面したのは三日後だった。体中がすでに黒く変色し始めていて、とても母とは思えなかったが、首につけていたネックレスと、薄い色の金髪に見覚えがあった。何かを電子麻薬の組織から盗み、それをダシに組織を抜けようとして、逆に制裁を受けたらしかった。

「これは君のお母さんだね。ええと、モニカ・ブラッドバーンさん」

 と言われて、そうです、と言おうとしたがうまく声が出ず、首を縦に振って答えた。正直なところ、これでもう母に怯えずにいられるのかと思うと安堵した。ノーマの方がよほど母らしかったし、最後の数ヶ月はほとんどノーマの店にいたのだ。

 警察官はすぐに母の顔を布で覆うと、別室に連れて行って母のことをあれこれ尋ねた。

 邪険にされていた。私なんて産まなければ良かったと何度も言われた。去年の暮れからほとんどノーマのところに入り浸りだった。

 そんなことをぽつぽつと話し、家での事を聞かれても、母のことは何一つ分からなかったのでそう答えた。結局、ネグレクトを受けていたという判断をされ、数日後にはキワのもとに帰ることができた。キワは数日間、ほとんど眠れずにレイチェルを待っていたらしく、レイチェルが帰ってきたことを知ると、飛びついてきてわんわん泣いた。レイチェルも胸に飛び込んできたキワを抱きしめながら泣いた。母のことは悲しくないと思っていたのに、なぜだか涙がどうしても止まらなかった。

 レイチェルとキワは運が良く、たまたまE街区の施設に飽きがなかったのと、母モニカがもともとD街区の生まれだったことで、D街区の児童保護施設に移された。そこでも二人一緒に過ごしていたが、しばらくしてレイチェルは学校に通うことになった。本当は一年遅れていたが、レイチェルにとって学校で教わることはそれほど難しいと感じなかった。入る前はろくな読み書きもできなかったにも関わらず、卒業する頃には他の同年代の子に追いついていた。

 キワは最初こそレイチェルが学校に通うのにものすごい抵抗を示したが、一ヶ月もすると「必ず帰ってくる」ことを確信したようで、あまり泣かなくなった。それに、児童施設には同年代の子がたくさんいた。一緒に遊ぶことで多少は気が紛れたようだった。

 けれど、寝るときにはいつまでもレイチェルと一緒に寝たがった。大きな音を不安がり、施設にレイチェルが戻るとレイチェルの後ろを常について歩いた。

 レイチェルが勉強しているときには隣に座って本を読んでいたし、レイチェルが怒っていても泣きながら側にいた。

 レイチェルは学校に通いながら、時折ノーマの最後の願いを思い出した。

 キワを、頼んだよ。

 そう言って私を突き飛ばしたノーマの手。彼女の手に、私は最後の半年で何度も救われた。あの人の最後の願いには、応えないと。

 その気持ちが強くなり、レイチェルは十五歳の時に、警察官訓練学校を選んで入った。寮に住むことになるので保護施設は出ることになった。警察の人には何度もお世話になったし、個人的に嫌な思いをさせられたことはなかったので、レイチェルは「できるだけ早く社会に出られる道」として選択したのだが、施設の人たちは何故か泣いて喜んでくれた。取り立てて優しかったことはなく、ノーマほど親身になってくれたわけではなかったが、少なくとも暴力も暴言もなかっただけ、とてもラッキーだったと思う。

 キワは最初レイチェルが施設を一人で出ることを聞いたときに、言葉をなくして真っ白な顔になった。そのまま微笑んで「頑張ってね」と呟き、みるみる目に涙がせり上がってきた。キワはまだ十三歳で、施設を出るわけにはいかなかった。

「キワ」

 レイチェルはキワの手を取った。小さい頃から、キワにきいて欲しいことがあるときにはそうやって両手をとってまっすぐ顔を見た。

 泣くまいと堪えるキワは、眉根を寄せて顔をゆがめていた。その顔が小さい頃と変わっていなくて、レイチェルはふと笑ってしまう。

「ねえキワ。五年待ってて。そしたら私と一緒に暮らそう。絶対迎えに来るから。私、必ず繰り上がりで卒業して、早く社会に出るから」

 キワは涙目のまま、レイチェルを見て頷いた。大きな黒い瞳から、銀色の涙がぱらぱらと落ちていったのを、良く覚えている。レイチェルは子どもの頃からしていたようにキワの涙を拭ってやり、頭を撫でた。

 レイチェルはその約束通り、六年の課程を繰り上がり五年で卒業した。

 キワは十八歳になっていて、大学への入学が決まっていた。最初は大学への入学はせずに働くと言っていたが、レイチェルはキワが学校と学習が好きな事を知っていた。公共の奨学金で十分に学費が賄えるだけの成績もあった。生活費は私がなんとかするから、やりたいことをやるんだよ。それが、私とノーマの約束を間接的に果たしてくれることになる。と語ったレイチェルに、キワは神妙に頷き、負担をかけないように生活費の一部までを補助してもらえるだけの成績で入学を決めた。

 レイチェルはレイチェルで、警察官訓練学校では電磁レールを利用した特殊訓練に非常な能力を発揮した。超高速で移動する事に対してさしたる恐怖もなく、また気配に敏感だったため、訓練では常にトップの成績だった。その身体能力は群を抜いていて、また判断も素早く的確だった。下層街区の出自だったことを揶揄されることもあったが、実技では文句のつけようがなく、飛び級での卒業を許された。

 卒業後はその身体能力を生かし、レイチェルは電子麻薬対策課の特殊装備係に配属された。電磁レールをリアルタイムに展開しながら取引拠点を潰していく作戦に多く従事したが、卒業したてのレイチェルにとっては危険任務手当てまでもらえるので、生活のために率先して参加した。

 母二人を殺した電子麻薬には、憎悪に近い気持ちもあった。現場では容赦なく犯人を拘束していき、重要人物を押さえる事もしばしばで、シュラ、というあだ名までついた。レイチェルには最初そのあだ名の意味がよくわからなかったが、容赦のなさを形容しているらしいと聞かされて、それはそうだなと思ったのを覚えている。

 仕事は簡単でも楽でもなく、常に危険と死と隣り合わせだった。家に帰るとくたくたで、せっかくキワが用意した食事も摂らずに寝てしまう事も多かった。キワにはしばしば心配されて怒られたが、レイチェルはキワと二人でまともに暮らせていることがとても幸福で、怒られても笑っていた。

 それに、どうせならキワより早く死にたいと思っていた。キワが先に死ぬことなど考えられず、死神と背中合わせにダンスを踊るような生活でも、あまり問題には思っていなかった。私の身寄りはキワだけだ。死んだらまとまったお金がキワに渡る。私を踏み台に、キワが羽ばたけばいい。

 そう、思っていた。なのに。

 厳かな鐘の音が響く。レイチェルは振り返った。ターミナル階層にある大聖堂が、大きく鐘を鳴らしていた。レイチェルは自宅に向かって歩き始める。IDをかざして駅に入ると、A街区行きのポッドがホームに滑り込んできた。

 二年前のあの日は、雨が降っていた。爆発で壊れたパネルが床に散乱し、その上を雨粒がばらばらと叩いていた。音は鼓膜の奥にこびりついたようにレイチェルの頭にこだまする。ばらばらという音が、雨なのか銃器の立てる音なのかは、記憶が曖昧で定かではない。その中を必死にサーチをかけながら走ったことだけ、鮮明に覚えている。

 むせ返るような血と火薬の臭いの中、レイチェルは祈りながら走った。特に何かの宗教を信じていたわけではないが、とにかく何かに向かって祈った。大聖堂の鐘が、轟音を立てて落ちていった。

 そのほんの三十分ほど前は、今と同じ平和な風景だった。レイチェルは、E街区での電子麻薬取引現場を押さえる作戦のために、このターミナル階層で旅客を装っていた。帰宅時間にぶつかって混み合うターミナル階層は、朝から降り続ける雨のせいもあって薄暗く感じた。ターゲットを見失わないように弱い電波でサーチをかけながら、ターゲットの移動を追っている途中で、キワの姿を見たような気がした。振り返ったときには雑踏に紛れていたのか、認識できなかった。一瞬、キワのIDを検索してみようかと思ったが、作戦中で別のターゲットを追っているところだったのでやめておいた。

 昼に、今日はラボで良いことがあったの、だから早く帰ってきてね。そうメッセージが来ていたことを思い出す。作戦が終わればすぐに帰る予定だったから、分かった、とだけ返していた。作戦のために姿を大きく変えていたため、どうせキワを確認したとしても声はかけられないし。

 レイチェルは、ターゲットがE街区行きの駅に向かうのをさりげなく追った。通勤客を装って、手元の端末を見ながら何気なく歩く。五分ほど歩いたところで、唐突にサーチ情報が視界に表示されなくなった。

 不具合か、いやそんなはずは、と思いながら、サーチ情報を呼び出そうとするがエラーになる。

 その時、A街区へ向かう駅への通路で爆発音が響いた。大きな悲鳴と、雪崩を打って逃げ出す人びと。驚いたレイチェルがそちらを見ると、爆発の衝撃で天井が崩れるのが見えた。

 ターゲットは。慌てて視線を駅の方向に戻すが、見当たらない。ようやくつきとめた、大きな電子麻薬シンジケートの中核にいる人物。長い間調査し、ようやく今日取引があることを二週間前に知り、万全を期して臨んだ捜査のはずだった。

 まさか。

 刹那、背後で言い争う大きな声が響き、左後方から大きな爆発が響いた。レイチェルは衝撃で倒れ、痛む頭を押さえながら立ち上がると、目の前のオブジェが大きく傾いでいた。咄嗟に身を避ける。横にいた人を助ける暇はなかった。鈍い音が響く。ターミナルは大混乱だった。どこからか銃声も聞こえてくる。レイチェルは急いで広場にあったオブジェに身を寄せた。偽装のための服が半分以上破れて、中から特殊スーツの黒い生地がのぞいている。レイチェルは舌打ちし、どこから銃撃されているのかサーチしようとしたが、やはりうまく拾えずにエラーが表示され続けていた。

『本部。本部聞こえますか』

 通信が繋がるか確認する。特殊スーツを身につけていても、構造物の重さを跳ね返せるほどの強度はない。爆発によっては倒壊する恐れもある……。

 爆発を身近で聞いたためか、左耳の音域拡張装置が少しおかしくなっているようだ。レイチェルは慎重に調整を重ねる。銃器の装填の音や、すり足の音などが拾いやすいようにしたかった。

 それにしても返答がない。レイチェルは奥歯をぎり、と噛みしめた。通信も切れているのか?

 焦れた気持ちに応答するように、ようやくジッと不快な音を混ぜながら本部からの通信が入る。

『現在至急情報を集めていますが、現状分かりません。大きな爆発は爆弾によるものだと考えられます。そちらの状況は』

『現在ターゲットを見失っている。爆発で旅客が混乱して危ない。どこからか銃撃も入っているが、サーチができないために銃器のIDと位置が検索できない。ターゲットの現在地は?』

 レイチェルは即座に返答する。

『現在地はこちらでも不明です。最終位置を見る限り爆発には巻き込まれなかった模様ですが、現在は激しい妨害ノイズがかかっていてこちらからもサーチ不能です』

『了解した』

 レイチェルは歯噛みした。この状況では作戦実行は不可能だろう。

『課長、いますか』

『聞いている』

『これは……こちらの作戦が漏洩していたのではありませんか』

 問われたデリックはしばらく無言だった。そのとき、めりめりと音を立ててまたパネルが大きく裂けて落ちてくるのが見えた。レイチェルはとっさに特殊スーツの移動装置を発動させて走る。これまでレイチェルがしゃがんでいた場所に、大きく裂けた屋根が落ちてきた。

 たくさんの悲鳴と、逃げ惑う人々。レイチェルは身を低くして辺りを見回す。

 とっさにリニア機能を使ってしまった。敵の目にも特徴的なあの光は止まったに違いない。舞い上がったホコリは雨で落ち着き、暗くはあったが見通しは良くなりつつあった。おそらくレイチェルの靴が光ったのを誰かが見咎めたのだろう、痛いほどの視線を感じる。このままここにいては的になる。

『その可能性もある。ターゲットの追跡は一旦棚上げだ。各員、自分の身の安全を優先しながら、攻撃を加えている人物を掃討しろ。応援が到着するまでしばらくかかるだろう。できるだけ戦力を削げ』

 そう課長が告げる声を聞いたところで、レイチェルの右肩に大きな衝撃と激痛が走った。

 もんどりうって倒れこみながら、レイチェルはとっさに右肩を触る。特殊スーツが破け、熱を持った丸い穴からぬるぬるとした血が流れ出てきていた。まだ犯人がこちらを見ている可能性もあるため、身をできるだけ縮ませながらみぞおちの医療カプセルボタンを探った。ぴし、と、一mほど向こうの地面が弾けるのが目の端に見える。やはり、狙われているようだ。みぞおちに硬いボタンを探り当てると、痛みを堪えながら特殊スーツの力を借りて指先で潰した。こちらがスーツを着ていることを見越した、高旋回弾を使っている。これはやはり、作戦が漏洩していてそれにぶつけられたテロだ。

 びし、とまた地面に音が響く。ほんの五〇cm先に落ちていた天井の破片に、丸く旋回した大きな穴が空いた。

 みぞおちに埋め込まれた医療カプセルは強い衝撃を受けて体の中ではじけ、心臓横の大動脈に入り込んだ医療ナノマシンが即座に右肩の傷にたどり着く。すぐにジェル状の止血剤が簡易的に傷をふさぎ、血は止まった。痛みはまだ引かないが、これなら動ける。レイチェルは銃痕を見つめ、その穴の角度を高解像度解析にかけた。着弾の角度から計算すると、この場所の十三度から十五度方向だと、視界に数字が表示される。

『誰か応援頼めるか』

 作戦に参加していた隊員に思考を送った。しばらくして、E街区行きの駅近くに待機していた隊員から返答が入る。

『どうした』

『今、右肩に被弾した。誰かに狙われている。現在私がいる場所の十三度から十五度の方角にいる模様。私は十秒後に移動し物陰に隠れる」

『こちらから視認できる場所だ。確認する。四秒後に弾幕を作る』

 レイチェルはあたりの様子を素早く確認した。既に動ける人間は逃げ去ったあとで、誰も残っていなかった。否、生きていそうな人間は残っていない、と言うべきか。

 大きな金属製のオブジェが倒壊したあたりまで走れれば、角度的にその台座が盾代わりになりそうだった。しかし、犯人に少し近づくことになる。走りながらうまく銃撃を避けられるかは自信がないが、このままここに転がっていてもいずれ死ぬ。

 レイチェルは頭を少し上げて後ろを確認した。広場があるだけで、そちらに走れば逃げ切ることもできるかもしれない。しかし、隠れる場所がないため、目算を誤っていれば犯人と鉢合わせする可能性も高い。

 人のサーチは全く利かなかった。ということは、相手も同じ状況だということ、うまく視線を遮れば、なんとか……。

『総員、伏せろ』

 そんな声の受信と同時に、何かが弧を描いて飛んできた。飛んできたそれは地面に着地すると同時に閃光と煙を吹き出す。鼓膜を振るわす高周波がでることもレイチェルは知っていたため、着弾すると同時に全ての感知機能レベルをゼロにした。レイチェルは地面に顔を向けて五秒数えると、がば、と体を起こし、オブジェの台座に向かって走った。リニア機能を使うと移動方向が分かってしまう。オブジェの台座まで全力で走り込んで感知機能レベルを上げた。

 男性の悲鳴が聞こえてきた。身を潜めたまま様子をうかがっていると、隊員達から次々に犯人確保の通信が入ってきた。

『閃光と音をまともに食らったようで、痛みで確保されたのもしばらく気づかなかったようだ』

 笑いを含んだ声が聞こえる。サーチ妨害の装置を帯同していた者も確保できたらしく、煙が晴れると同時にサーチ機能が蘇る。目の中にぽつぽつと人の形が見え始めてきた。

『ターゲットのIDは近隣には見当たらないな。ポッドは止まったから、どこかに雲隠れか……』

 そこまで話したところで、どやどやとターミナルに応援部隊が到着したのが見えた。台座に寄りかかっているレイチェルに、一人が小走りで駆けてくる。

「無事ですか」

 レイチェルは肩をすくめた。

「無傷ではないが、死ぬほどの重傷でもないと思う」

 軽口を叩いて気持ちが少し弛む。これで安心だ。そう思ったときに、何かが心に引っかかった。

 そうだ、キワは?

 IDを急いで検索した。生命維持システムへの登録を行っているから、心拍の微弱な電流があればかならずサーチにかかる。

 瞳に映し出されたキワの場所を見て、レイチェルは目を疑った。A街区行きポッドのレール上にいることになっている。思わず立ち上がった。

「あの、病院へ」

 目の前の隊員が遠慮がちに声をかけてきたが、レイチェルは何も言わずA街区行きの駅を目指して走り始めた。リニア機能を使い、渾身の力で地面を蹴る。駅に続く通路は大きく崩れ落ちていた。

 まさか。まさか見かけたあの姿が。

 特殊スーツの補助を使ってがれきをより分ける。中には、何の臓器か分からない何かにまみれたものもあった。

 まさか、まさかまさかまさか。

 およそ人の力では無理な壁も難なく取り除く。右肩の痛みは、鎮痛剤のせいなのか焦りのせいなのか全く感じなかった。背中が熱くなる。

 嫌だ、そんな。

 がれきを取り除き、ホームへの道が開けた。また走り、ようやくたどり着く。

 ホームには一つだけポッドが残っていた。爆発の衝撃で大きく歪み、ひしゃげている。中にいた人たちは無事ではすまないだろうと、一目で分かった。

 レイチェルは左右を見回した。爆発はホームと通路の間くらいで起きたらしかった。大きくホームがえぐれ、周囲にいたのであろう人は既に人の形を為していなかった。

 凄惨な状況に目を細める。キワのIDをサーチし続けた。

 エラー。

 レイチェルの心臓が跳ねる。

 サーチエラーはキワの心拍が止まったことを表す。時間がない。

 レイチェルはキワのIDが検知されていたあたりを必死になって探した。ホームの縁か、線路上あたりにいたはずだ。死んだと見なされる人間はサーチ上で表示されない。そのあたりはもう真っ暗だった。レイチェルは高感度に切り換えてとにかくがれきをより分ける。エラーになってからの秒数を知らず数えていた。十秒、十五秒……。

 果たして、線路とポッドの隙間に、キワは落ちていた。抱き上げる前に状況を確認したが、全身の衣類が貼りついて燃えたようだった。特に脚は損傷が激しく、復元できるかどうかが訝られた。顔はひどく火傷を負っている。

 急いで太ももから救急キットを出し、キワに注入した。すぐにレイチェルを助けたものと同じ救急ナノマシンが全身に回る。これだけの傷を治すのは無理だが、せめて、心拍が回復すれば。祈るような気持ちで様子を見ていると、淡くキワの周りに輪郭が光った。

 心拍は回復したようだ。急いで、この子を病院へ……。

 そう思いながら優しく抱え、そこではたと気づいた。病院は今頃すでに急患で溢れているだろう。キワは一刻を争う状態で、なおかつむしろ既に死に近い。確実にキワを生かすためには、病院で良いのだろうか。

 なるべく揺らさないように走る。走りながらふと、キワの勤務先を思い出した。

 そうだ、器官保護装置開発のガイザーカンパニー。その協力機関でキワが卒業した、サム博士のラボは。

 ターミナルまで出てきたところで、本部に連絡した。

『こちらNo.13、電磁レールを、急ぎコーラルシティ大学へ』

『A街区の、コーラルシティ大学ですか?』

『そうだ』

『何が……』

『いいから、早く! 行き先は生物理学部、有機器官科、サム・ワトキンソン博士のラボだ。理由はあとで話す。頼むから早く』

 レイチェルの強い口調に、本部の女性は黙った。すぐに目の前に青いレールが展開していく。レイチェルは足を乗せた。キワは目を閉じたまま揺られている。

 お願い、生きて、キワ。

 体を傾けた。上に向かって延びるレールを、レイチェルはまるで滑り降りていくかのような速度で駆け上っていった。

 博士は下の様子をラボの窓から見下ろしていた。その目前に上がってきたレイチェルに驚いた様子で、窓の開け方が分からずに数秒まごまごした。ようやく開いた窓からレイチェルが滑り込むと、博士は呆けたような様子で聞いた。

「その装備は……警察官かね」

「キワ・ノミヤマを知っていますね」

 レイチェルはそれには応えずに言葉を返す。

「彼女の命が消えそうなのです。博士」

 キワをそっと床に横たえた。博士はつばを飲み込んだ。一般の人が見るような怪我ではない。

「君は」

 レイチェルは変装のためにかぶっていた偽装用の人口皮膚を剥いだ。髪色を元に戻す。いつものレイチェルの顔に戻った。

「レイチェル・ブラッドバーンです」

「レイチェル……ああ、姉代わりと話していた、君が……そうか。これは……もしかしてノミヤマ君かね」

 血にまみれたレイチェルと、焼け焦げたキワを見比べる。

「そうです。病院はおそらく、こんな状態だと優先順位を下げるでしょう。お願いです博士。キワの命を助けてください」

 博士は逡巡したが、頷くと遠巻きに見ている助手達にてきぱきと指示を出した。すぐに研究手術用の部屋が空けられた。器官保護装置はいわば人口器官を作成する場所のため、研究設備と言うよりも医療施設に近い。そんなことを、在学中にキワが話していたのを覚えていた。

「すぐに手術に入るが……もしかしなくても、脳と一部の器官しかもう保護できないかもしれない。これでは……私には手の打ちようがないこともある。それも覚悟の上かね」

 レイチェルはすぐには言葉が出なかったが、強く頷いた。任せるしかないことは、百も承知の上だった。

「君も怪我をしているようだ。病院に行きたまえ」

 そう言い残すと、博士は手術室に入っていった。レイチェルは、その場でキワの手術を待つと言い張ったが、そのうち鎮痛剤が切れて断続的に襲ってきた痛みで、いつの間にか気を失った。


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