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2024_0807_本読み

<1219字>
冒頭の写真:
こないだ、イネ科の雑草の中に、ハナムグリが居るのがパッとわかるのに、写真だと写らないのが不思議、と書きました。写真は、動物の生命みたいのは識別しないからかな、と思ったんです。
今回の写真は、紫の花と二種類の羽状複葉がつくりものです。
拡大しないとわからないですよね。こういう状態になってるのがとても珍しいと思い、写真を撮ってしまいました。


8月7日(水)は以下を読みました。


『巨匠とマルガリータ』 
ブルガーコフ 著

集英社 世界の文学15 ロシア Ⅲ

解説を読んでいます。スターリンの時代、文学者たちがどうやっていたか、が伺えました。

ブルガーコフ自身は

1891年キエフに神学校教授の家に生まれる。
1916年キエフ大学医学部卒業、スモレンスク県に医師として赴任
1918年キエフにもどり、開業医となる
1919年小説を書き始める
1921年無一文でモスクワに出る、夜は執筆、昼は新聞編集
1923年『白衛軍』執筆開始
1925年『白衛軍』の一部と二部が雑誌「ロシア」に掲載されるが同誌が廃刊。反革命の陣営に同情的と判断され、全編の出版できず。
1926年『白衛軍』を元にした『トゥルビン家の日々』がモスクワ芸術座で初演。成功。注目をあびる。つぎつぎいくつかの戯曲が上演されるも、反体制とされ、中止に追い込まれる。
1930年 ソヴェト政府に手紙を書き、戯曲など文が書けないのだから、大道具でもよいからモスクワ芸術座のメンバーにしてほしい、と希望し、許可される。
そのあと、スターリンと手紙や電話のやりとりもあり、わずかに戯曲が上演されることもあったが、それもすぐに中止となる。沈黙を守ったまま『劇場』『モリエールの生涯』『巨匠とマルガリータ』を書き続け、1940年に世を去る。

ブルガーコフの場合は当局とのせめぎ合いは、このようだったのだな、とわかりました。粛清されてしまうことはなかったが、文学者としては完全な沈黙を強いられた、ということですね。

(音読した人:山崎)





『喜多川歌麿女絵草紙』 藤沢周平 著

文藝春秋
夜にこごえし

やっぱり。お千代さん、お見合いの話があって、それに多いに心が揺れ動きながらも、いい話じゃないか、としか言うことができない初老の歌麿が、もどかしいですが、仕方がない。
馬琴は、どうやら、南総里見八犬伝のアイデアを掴んだところのようで、まだ一文も書いてはいないのに、意気揚々としています。

(音読した人:こいでさん)





『遊遊漢字学中国には「鰯」がない』
阿辻哲次

日経BP

重箱読みと湯桶読みの話題でした。
湯桶、が、蕎麦湯の入ってくるあの器のことだったと初めて知りました。
こうこうこういう経緯で、「巾」と「幅」でできている日本語の熟語がとんちんかんなものになってしまっている、ということを解き明かしていたのですが、具体例を忘れました。
日本人の漢字の使いっぷりはとても面白いです。

(音読した人:はやしさん)


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