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一人百花 02_オニタビラコ

見た目からも分かるとおり、キク科の植物。名前のタビラコは、漢字では田平子と書き、田んぼにくっついて咲くさまからそう名付けられている。面白いのは、その接頭辞(prefix)である。接頭辞とは、常に語根や名詞などの自立語の先頭に付いて、その語に特殊な属性を付与するという文法的機能を持つことばである。「オニ」タビラコの接頭辞のオニ、つまり鬼は、この場合「大きい」を意味するのだろう。

鬼は、色々な属性を持っている。大きい、強い、怖い、などなど。私は現在、のんべえ大学文学部第二芸術学科の学生をしているが、大学の授業の一環である酒場言語学実地演習でしらすおろしの「鬼盛り」という、大根おろしがたくさん盛られたメニューを学んだことがあるが、この「鬼」は「多い」の意味だと思う。このように、意味は様々であるが、「鬼」はある一定の範囲を超える過剰を表すのだろう。それはひとえに、鬼の属性に起因するのだが、一方で鬼は人間から疎外された悲哀を漂わせた存在でもある。鬼っ子、遊びにおける鬼、そして、鬼太郎、というように。私の学友に、そんな鬼と踊るのんべえもいるのだがそれはまた別のお話(三田三郎『鬼と踊る』左右社)。

さて、話を戻すと、オニタビラコに対してコオニタビラコというものもある。これは、名が示すとおりオニタビラコよりも小さいものだ。Wikipediaはこれに「タビラコの大きいもの(=オニタビラコ)よりも小さいもの(=タビラコ)」という意で、結局タビラコに戻っているため循環していると指摘をするが、ここで詩的を加えるとすれば、先述した鬼の悲哀や可愛らしさが強調されているようにも感じられる。小鬼って、ぜったい人間にいじめられてそう。

また、これも名前の妙だが、コオニタビラコの別名は01でも書いた「ホトケノザ」(別物)である。鬼と仏が、名付けによって結ばれてゆく。豊かだと思う。また、本種のホトケノザは春の七草の一つとしても知られている(01で紹介したシソ科の方はまずいらしい)。春の七草で思い起こすのは、『古今和歌集』春・21である。

きみがため春の野にいでてわかなつむ我が衣手に 雪はふりつゝ
                              光孝天皇

あなたのためにまだ寒さの残るなか春の野に出かけ、(食べると長生きできるとされる)若菜を摘みました。袖には雪がふりかかっていました。
という歌意だろうか。光孝天皇のまさにその名とともに全てが雪の白い無垢と響き合う清浄な歌だな思うとともに、こんな清い歌詠みの天皇が同時に執政という、いわば深い濁りをも含んだ事をしなければならなかったことなどを思う。鬼と仏に揺らぎつつ、だったのかな。

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